第26話 『信じてもいいような』
扉を開けると、もうそろそろ10月も半ばに差し掛かろうというのに、生温い風が頬を撫でる。
普段ならその程度、大してなにも感じないはずなのに、今はこのうえなく不快に感じる。
昼休みの屋上は、まだ昼食を摂っている生徒も数人いるが、教室とは比べものにならないほどに静かだ。
誰とも話をする気にも、顔を合わせる気にもならない今の僕には、これ以上ないほどに落ち着く場所だ。いや、落ち着くというと少し違うかもしれない。無心になれると言った方が近いだろうか。
…なぜ、こんな気持ちになっているのかわからない。
満ち足りていた。幸せを感じていたはずだった。
数年顔を合わせていなかっただけの父の顔を見た。それだけのはずだ。
……僕は一体、何に苛立っているんだろう。
*
「……………父さん」
「…えっ…!?」
こちらを見つめながら歩く、男女。
見間違えるはずもない。だってあれは……間違いなく、僕の父親なのだから。
なんでこんなところにいるんだ。なんで僕の顔を見ているんだ。なんで知らない女性と歩いているんだ。誰だ。どういう関係なんだ。なんで…!
なんだ。この感情は。知らない。僕はこんな感情を知らない。なんなんだ。わからない。
「…っ! 彗くん!」
咲が向こう側を見せないようにだろうか。僕の視界を遮るように立ち上がる。
「…あっ……」
ようやく視界に入ってきた咲は今までに見たことない顔をしている。
なんでだ。なんでそんな顔をしているんだ。
…僕が、そんな顔をさせてしまっているのか…?
わからない。僕はいまどんな顔をしているんだ。
視界の端に、父さん達が角を曲がっていくのが見えた。
「……ごめん。今日は、帰ろうか」
違う。こんなことを言おうとしていたはずじゃない。
なんだ。なんなんだ。なんでこんな言葉が口から出るんだ。
「………嫌だ。そんな顔してる彗くんを一人にするなんて、できない」
「………本当に、ごめん。一人に、してほしい」
「…っ!」
「……お願いだ」
違う。そうじゃないだろ。勝手に言葉を口にするな。違う。違うんだ…!
「………わかっ、た。それが、彗くんのお願いなら」
途切れ途切れになりながら、咲は口にする。その声には、涙が混じっているように聞こえた。
「また、明日」と咲は付け足して、公園を後にした。小走りに砂利を踏み締める音が、僕の心をさらに軋ませるような気がした。
家まで送らなければならなかったはずだ。体が、動かなかった。
好きだと、そう伝えるはずだった。口から出たのは、思ってもいない言葉だった。
心が満たされていたはずだった。幸せを感じていたはずだった。
…なのに今は、その気持ちはどこにもない。
なんで咲にあんなに冷たいことを言ってしまったのか。泣きそうな顔なんて見たくないと、そう思っていたはずだった。
わからない。なにも、わからない。
…それが、たまらなく怖い。
家に帰ってきた。どうやって帰ってきたのかは覚えていない。気がついたら玄関にいた。
母さんが出迎えてくれる。なにかを言っているが、耳に入ってこない。
返事をすることもなく、部屋に入る。倒れるように、ベッドに身を投げる。
…寝よう。もしかしたら、これは夢かもしれない。
朝が来た。少しも晴れていない心が、昨日のことは夢ではなかったと突きつけてくる。
「……学校、行かないと」
最悪の気分のまま、学校へと向かった。
*
フェンスを背に、倒れるように座り込む。
午前中の授業のこと。話しかけてくれた暖大や穂波さんの顔も、言葉も。何も覚えていない。
一人になるのは嫌いじゃない。落ち着いて考えることができるから。
なのに、いまは世界に僕一人しかいないんじゃないかと思えてしまうほどの静けさを感じる。
怖い。わからないことがこんなに怖いなんて、知らなかった。
キーンコーンカーンコーン
5限目の開始を知らせる予鈴が鳴った。
教室に戻らないといけない。なのに、体は動いてくれない。
……もう、いいか。
その場でうずくまり、時間が過ぎるのを待つ。
5限目の開始を告げるチャイムが鳴った。なんでこんな音はハッキリと聞こえるんだ。
もう、何も考えたくない。
どのくらいそうしていただろうか。授業中のはずなのに、扉の開く音が聞こえた。
巡回の先生に見つかってしまったのだろうか。
…反省文で済めばいいな、なんて、こんなことは冷静に考えることができる自分にまた嫌気が差す。
すぐ隣で、フェンスの軋む音がした。
「……5限目、始まってんぞ」
「………なんでお前がいるんだよ」
いるはずのない暖大の声。不思議と、驚きはなかった。
「…そりゃあお前。朝から死んだ魚みたいな目をしてたやつがいないんだぜ。探すだろ」
「……」
「…ま、すぐにここだろうと思ったけどな。分かりやすくて助かる」
少し笑い声を交えながら、口にする。その言葉に、僕は何も言い返せない。
「…普段なら、こういう日もあるか、って流してたかもしれねぇ」
心なしか、暖大のトーンが下がった気がした。
「でもよ。日野さんも、朝からずっと泣きそうな顔してんだ。お前、気づいてんのか?」
「……」
知らなかった。顔を、見ないようにしていたから。どんな顔をして彼女と向き合えばいいのか、わからなかったから。
「言いたくないなら言わなくても構わねぇ。…でもよ、お前も、このままでいいと思ってるわけじゃないだろ?」
「……知ったような口を聞くなよ」
違う。違うだろ。なんで昨日から思ってもいない言葉が口から出るんだ。
わかってる。暖大は心配してくれてる。わかってる。なのに。なんで。
「……強がるなら、もうちょっとちゃんと強がれよ。そんな覇気のない言い方すんな」
その言葉に、一瞬イラっとした。したけど、すぐに引いていった。その通りだと思った。
「……」
「俺も一回しか聞かねぇ。だから許せ。 …昨日、デートだったはずだろ。何があった」
…この感情は、吐き出して変わるのだろうか。
吐き出すとして、なにを、どう伝えればいいのだろう。
わからない。まだなにもわからない。
…それでも。強がりの拒絶でも、踏み込んできてくれる暖大に、さっきまで感じていた孤独感のようなものは薄れてきている。
…僕は、人を頼ってもいいのだろうか。
ゆっくりと顔を上げると、今日初めて暖大の顔がしっかりと目に入ってきた。
何を言うでもなく、こちらに向かって笑いかけてくる。
…楽になるかはわからない。解決するかもわからない。
ただ、いまこの時だけは。このバカな親友の笑顔を信じてもいいような。
そう思えた。




