第2話 『溢れた言葉、重なる過去』
バイトが終わると、決まって街は静かになっている。
閉店間際まで動き続けた足は鈍く重く、帰り道を歩くたびに靴の底が地面を引きずるような感覚がある。大袈裟かもしれない。要はそれくらい疲れたということだ。
でも嫌いじゃない。ファミレスの接客業とはいえ、お客さんの笑顔は見れるし、店長や他のスタッフからも少しずつ信頼されてきている感覚もある。始める前は自分に接客なんてできるのかと不安だったが、今ではとても良い経験ができていると感じている。
まかないをいただき、人通りの少ない夜道を一人で歩くこの時間は一日の終わりを感じさせ、なんとも心地よい気分になる。
家への近道として使っている公園の脇を通りかかったとき、視界の端に人影が映った。
街灯の光の中、ブランコに誰かが座っている。俯いて、足先でゆっくりと砂を掻いている。夜の十時を過ぎた公園に、一人で。
歩きながら、視線をそちらに向ける。
茶色い髪。見覚えのある制服の色。
…日野咲だった。
(…なにしてるんだ?こんな時間に)
不思議に思い、無意識のうちに足が止まっていた。
この道はこれまでにも何度も通ってきたが、彼女の姿を見たことはない。僕が今歩いてきた道から公園の中までは特に遮蔽物があるわけではなく、公園の中の様子はハッキリ見える。
これまでに日野さんを見たことがないということは、今日初めてこの時間に一人でいるのだろう。
(…まさか一日で二回も日野さんと出くわすなんて)
こんな時間に一人で公園のブランコに座っていることは気になる。気にはなるが、この状況から察するに、なにか事情があるのだろう。
その事情がなんなのか僕には知る由もないが、踏み込むべきじゃないし、彼女も踏み込まれたくはないだろう。
そう判断し、視線を前に戻し歩き出す。でも、数歩踏み込んだところで、放課後の教室で一人で窓の外を物憂げに眺めていた彼女の横顔が思い出される。
普段の日野咲とは似ても似つかないような表情、雰囲気。どうにも頭から離れないあの様子に、最後に「ありがとう」と言った彼女の柔らかい言葉が聞こえた気がした。
(はぁ…)
僕はため息をつき、公園の入り口へと歩を進める。一日に二回も似たような場面に遭遇し、何よりこんな時間に女の子が一人でいるなんて危険だ。それだけだ。
砂利を踏み締める音が近づいても、彼女はこちらに気づかない。俯き、自分の足先の方を眺めている彼女は、それほどまでに深く何かに沈み込んでいるのだろうか。
気づかれてもおかしくないほどの距離まで来た。驚かせないようなるべく柔らかい声を意識し、僕は声をかける。
「日野さん」
放課後の時よりも大きく、ビクッと彼女の肩が跳ねる。顔を上げ、目が合う。驚きで丸くなった彼女の瞳が二、三度瞬きをする。そこから、まるで不審者を見るかのような顔つきに変わり、
「……なんで瀬川くんがここにいるの」
と困ったような笑顔で口にする。
今できる最大限の虚勢なのだろうか。少し厳しそうに見えた表情も一瞬のもので、なんとか笑顔をつくろうとしていることが伝わってくる。
「バイトの帰り。ここ、帰り道なんだ」
「へー、瀬川くんってバイトしてるんだ」
「うん。許可は取ってあるよ」
「じゃあ私が不審者みたいじゃん。夜中に公園でブランコって」
「みたいというか、まあ」
「ひどっ」
なるべく自然な感じで会話を進める。いくつか言葉を交わすうちに、彼女は少しだけ笑った。作った笑顔じゃなく、思わず漏れたという感じの。それだけで、多少は張り詰めていた空気が和らいだ気がした。
そこから会話は続かず、居た堪れなくなり辺りを見渡す。人通りもなく、静かな雰囲気。もし誰かが公園沿いの道を通り、この状況を目にすればとても目立ってしまうだろう。
視線を日野さんに戻すと、彼女はまた俯いていた。放課後に感じた雰囲気と同じだ。
何かを抱えているのは、誰の目から見ても明らか。それが何なのかを聞き出すつもりはないけれど、ただ、この時間、こんな場所に一人でいる女の子をそのまま放って帰るのも、どこか違う気がするだけだと自分に言い聞かせる。
「……座ってもいい?」
ブランコを示すと、日野さんは一拍置いてから「…どうぞ」と答えた。
隣に腰を下ろして、前を向く。公園の向こうには住宅街の灯りが低く並んでいて、どこか遠くで虫の音がしている、静かな夜だ。
日野さんは何も言わない。もちろん僕も何も言わない。
ただ並んで、夜の空気の中に佇んでいた。
どのくらいそうしていただろう。ブランコの鎖を握り直す音がして、日野さんが小さく息を吐く。
「……なんか、ずるいなぁ」
「ずるいって、何が」
「何も聞かないじゃん」
「聞いてどうにかなるものでもないと思って」
本心だ。夜十時を過ぎて一人で公園にいたくなるような事情を僕なんかが解決できるわけはない。
その言葉の後、日野さんはまたしばらく黙った。それからなにかを振り払うように首を左右に振る。そして、ポツリポツリと噛み締めるように話し始める。
「……親が、離婚するかもしれない」
小さくて、か細い、弱々しい声だ。いつもの教室での彼女とはまるで違う、静けさの中に苛立ちのような響きがあった。
「お父さんが、浮気してて。それがお母さんにバレて、ずっと喧嘩してる。家にいると言い争う声が聞こえてくるから、外に出てきた」
「……」
「仲良くしてほしいとは思う。でも、お父さんのことを許せるかって言ったら、絶対に許せない。普通にキモいなって思う。」
怒りを含んだ言葉に、口調。
本心なんだろうということがひしひしと伝わってくる。
「けど、離婚してほしいかって言われると…、正直よくわかんなくて。頭の中がぐちゃー!ってなってて…」
彼女の中でもまとまりきっていないのだろう。言葉は途中で切れた。
そして日野さんは自分の膝のあたりを見つめながら唇をギュッと結んで、じっとしている。
僕はすぐには答えなかった。彼女の言葉を聞きながら、昔の自分が少し思い出されていた。
まさか、自分と同じような境遇だとは思いもしなかった。いや、僕の場合は既に決着していて、もう随分その件のことは落ち着いている。
ただ、中学生の頃に親から離婚を告げられた時は動揺したし、受け入れることなんて出来ずに父に強く当たってしまったこともあった。今まさにそんな渦中にいる彼女の葛藤は痛いほどに理解できてしまう。
だからだろうか。普段の彼女の様子からは想像もつかないような悩みを抱えていたことに驚いた。人は見た目や雰囲気だけで理解できるわけはないことを、僕自身が経験したはずなのに。
夜風が一瞬だけ吹いて、木の葉が揺れた。
「……僕は」と、自然に口が開く。
「日野さんの今の気持ちが、全部わかるわけじゃないけど」
「……」
「少しだけ、わかるよ。うちもね、離婚してるんだ」
彼女の顔がこちらを向いたのが、視界の端に映る。驚いているのも。
僕は前を向いたまま、それ以上は何も言わなかった。自分の話をするつもりで口を開いたわけじゃない。ただ、きみの言葉は届いているよと、それだけが伝わればいいと思った。
またしばらく、沈黙が続いた。
「……話聞いてくれて、ありがとう」
彼女の声は、さっきより少し軽くなっている。
「いや、別に」
「別に、じゃないでしょ」
「そうでもないよ」
「頑固だね」と言って、日野さんはふふっと笑った。今度の笑い方は、昼間の教室で見たものに近い気がした。ちゃんと目元まで緩んでいる笑顔。
「瀬川くんって、もしかして結構いい人?」
「もしかしなくても普通の人間です」
「うわ、素直じゃないなぁ。でもまあ、ちょっとだけ見直したかも」
「ちょっとだけって」
「ふふ、ちょっとだけね」
日野さんはジェスチャーをつけながらそう繰り返して、立ち上がった。スカートについた砂を払って、伸びをする。その仕草がどこか弾んでいるように見えて、さっきまでの重さが嘘みたいだ。
「帰る。さすがに遅いし」
「家まで送ろうか」
言ってから、しまったと思った。
今日初めてちゃんと話したような相手にこんなことを言われてもいい気は彼女もしないだろう。
その言葉に、彼女は動きを止めた。こちらを見て、それからわざとらしく眉をひそめる。
「あら。そこまで気を許した覚えはないんだけどなぁ」
冗談っぽく、ニヤッとしながら彼女は言う。
「……そうですか」
「でも、ありがとね」
今度の「ありがとう」は、放課後とは少し違った。軽やかで、でも確かに温かみがあるように聞こえた。
彼女は手を一度だけひらりと振って、夜道へ踏み出していった。街灯の輪の中を抜けて、やがて暗がりに溶けていく。
僕はしばらくブランコに座ったまま、その方向を眺めていた。
さっきまで彼女が座っていた隣の座席が、風もないのにわずかに揺れている。
彼女の笑い方が、普段のものと同じような雰囲気に近づいた気がした。そのことがなぜか、少しだけ良かったと思えた。




