第13話 『この感情の名前は』
体育館の空気は、朝から重苦しかった。
梅雨も明け、夏に向けて日に日に気温も湿度も最高潮に達しつつある七月の体育館は、人の密度も相まってその不快感が高まっている。
そんな体育館中の視線は壇上の校長先生に向けられており、一学期の締めの挨拶が行われている。
もうどれくらい話しているのだろうかと掛け時計をみると、すでに十分ほどが経過している。
テレビ番組か何かで、こういった終業式のような催しでは校長先生の挨拶は長くなければならない、と見たことがある気がするが、どこにそんな必要があるのだろう。聞いていないわけではないが、どうしたって嫌気は差してくる。
自分よりも前の方にいる暖大は欠伸をしているのか、頭が少し上下に動いていた。今回ばかりはその行動も理解できるな、なんて思ってしまうほどには、僕も疲れてきている。
そんな気持ちが通じたわけではもちろんないだろうが、校長先生の話は終わり、司会のアナウンスが終業式の終わりを告げる。そこからは各学年毎に一学期最後のHRを行うために教室へと戻っていった。
「いやぁ〜、相変わらずこういう行事は肩が凝って仕方ねぇ」
「まるでおっさんみたいなこと言うね」
「彗だって同じようなこと思ってんだろ?」
「まぁ…。肩が凝るっていうのはちょっとわからないけど、疲れたとは思ってるよ」
「ほらみろ、似たようなもんじゃん」
教室に戻り、そんなことを暖大と話していると片桐先生が教室に入ってくる。
「はーい、一学期最後のHR始めるよー、みんな席に戻ってー」
その言葉に、クラスメイト達は各々の席へと戻っていく。全員が席に着いたのを見計らい、
「うん。一学期お疲れ様。新しいクラスになって大体四ヶ月。新しい友達ができたり、そんな中で文化祭があったり。去年とは全然違う一学期だったんじゃないかな」
片桐先生のその言葉に呼応するように、ここ数ヶ月のいろいろなことが思い出される。
(ほんとに、去年とは全然違ったな)
そんな僕にとっての非日常の中心にいたのは間違いなく…彼女だ。視線だけを窓際の席に座っている日野さんの方に向けると、ぼんやりと外を眺めていた。その姿に、初めて彼女と話した放課後の様子がフラッシュバックする。
(…まさか、家族のことでなにかあったのか?)
席が遠く、表情までは鮮明に捉えることができず判断がつかないが、事情を知ってしまっている以上どうしても頭に引っかかる。そんな僕の思考を遮るかのように、
「終業式で校長の話が長かったからね。あんまり喋るとまたみんな疲れちゃうだろうし、ここまでにしようか。じゃあ、夏休みを楽しんで、また二学期に会いましょう!」
と片桐先生がHRを締める。途中から聞いていなかったことを少し申し訳なく思いつつ、再度日野さんの様子を伺う。さっきまで僕が感じていた不安は勘違いだったのかと思うほど、彼女は楽しそうに友人と話していた。
気のせいか、と少しホッとしながら、帰る準備を始めた。
席を立ち上がり帰ろうとすると、
「ねー、瀬川くーん」と穂波さんに呼び止められた。勉強会以降、接する機会も増えて今では自然に会話をする仲になっている。
「穂波さん、どうしたの?」
「明日から夏休みじゃん?せっかく四人で仲良くなれたし、予定合わせてまたどこか遊びに行かない?」
穂波さんから誘われるのは少し意外だったけれど、もはや断る理由を探すような間柄でもない。
「そうだね、バイトのない日だったら大丈夫だよ。早めに決められれば、シフトも多少は融通が効くかな」
「りょうかーい。じゃあ、詳しい話は咲から連絡してもらうね」
「わかった。暖大には僕から連絡を入れるよ」
「ありがとー。じゃあそういうことで。またねー」
「うん、またね」と会話を終えると穂波さんは日野さんの方へ歩いていく。その後ろ姿を見ていると、奥に映る日野さんと目が合い、彼女はニコッと笑いながら軽く手を振ってきた。そのしぐさに少し気恥ずかしさのようなものを感じながら、同じように軽く手を振り、教室を出た。
バイトが終わり、更衣室のロッカーを開けてスマホを確認すると、日野さんからメッセージが届いていた。
『遥香から聞いてると思うんだけど、八月二日の火曜日って都合どうかな?』
八月のシフト希望を出して帰る予定だったので、早いタイミングで聞いてくれたのはとてもありがたい。
『僕は大丈夫だよ。暖大にも聞いてみるね』と返事を入れ、暖大にも確認のメッセージを入れる。
『いけるに決まってんだろ〜』とすぐに返事が返ってきた。暇をしているのか、たまたまスマホを見ていたのか、どっちなんだか。
僕は提出するシフトの希望用紙から、八月二日の希望を取り消そうと机に置いてある消しゴムに手を伸ばす。すると、ガチャっという扉が開く音とともに、店長の古川さんが入ってきた。
「彗くん、お疲れ様。それ、シフト希望かい?」
「はい。ただ、ちょっと予定が入っちゃったので少し変えようとしてて」
「へぇー、いつだい?」
「八月二日ですね」
「八月二日?たしかその日は…」と視線だけを左上に向ける。思い出したのか、柔らかくなった表情で、
「この前連れてきた子かい?」と尋ねてくる。
「まぁ…。他の友人もいますけどね」
返事を聞いた古川さんは満足そうに頷きながら、「そうかいそうかい。楽しんでおいで」と快く了承してくれた。
その日は入ってくれ、と言われたらどうしようかと思ったが、問題ないようでよかった。
希望用紙を修正し、古川さんに手渡す。「お疲れ様でした」と声をかけてから、家へ帰った。
それからは課題をしたり、バイトをしたり。たまに家にやってくる暖大と過ごしていると、約束の八月二日がやってきた。
神社の入口の近くで、暖大と二人、日野さんと穂波さんを待っている。目の前には子供から大人まで、なかには浴衣を着ている人もいたりする。神社の中の方を覗くと、屋台も出ていてすでにかなり賑わっている。
「ほんと彗って、こういうイベントに疎いよな」
「来る機会がなければそんなもんでしょ」
夏祭りに来るなんて小学生以来だろうか。小学生くらいまでは両親と行っていた記憶もあるが、いつからか縁のないイベントと化していた。
「まっ、それもそうか」と言いながら前を歩く人の流れとは逆方向を見ていた暖大が、「お、きたきた」と続ける。
僕も視線を移すと、浴衣を着て、手を振りながら歩いてくる穂波さんと日野さんの姿が目に入ってくる。
穂波さんは紺色に紫陽花が彩られた浴衣。
日野さんは白に紫の蝶が散りばめられた浴衣を着ている。見慣れた肩ほどまで伸びた髪は結われていて、普段とは全く異なる雰囲気に、自然と目が奪われる。
綺麗だ。
それ以外の言葉が見つからない。そんな僕の様子に気づいてか、暖大は肘で僕を小突きながら「見惚れてる場合じゃないぞ〜」と小声で言ってくる。
「……そんなんじゃないよ」
なんとか平静を装おうとしながら返すが、見なくても暖大がニヤニヤしていることはわかる。やがて目の前までやってきた二人は、
「また私たちが待たせちゃったね。ごめんね?」
「今回はうちが遅れちゃった〜」と申し訳なさそうだ。
「大丈夫大丈夫!俺たちもさっき着いたところだから!な、彗」
「うん。だから気にしないで」と返すと、日野さんは「うん、ありがとう」と表情がほぐれていく。変に気負わせるようなこともなく安心していると、
「そんなことより瀬川くん!目の前に浴衣を着たかわいい咲がいるのに、何の感想もないのかな?」
穂波さんが力強い声でそんなことを言ってくる。隣の日野さんは何かを期待しているような、そんな目で僕を見つめている。隣では暖大がまたニヤニヤしていて、他人事だと思ってこいつは…。と少し恨めしく思うが、求められている以上答えないわけにもいかない。
「浴衣、似合ってる。綺麗だよ。」
「えへへ、そう言ってもらえて嬉しい。頑張ってよかった」と嬉々とした表情だ。
もちろんこんなことを伝えるのは気恥ずかしいが、それで喜んでもらえるのなら些細なことだ。
「よし!合格!じゃあ行こっか!」と穂波さんは満足に頷いて歩き出す。後を追うように、四人で神社の中へと歩き出した。
神社の中へと入っていくと、外から見ていたよりもたくさんの人で賑わっている。少しでも油断すると、はぐれてしまいそうだ。
「牛串食いたいなぁ〜」
「分かってないね片山くん。こういうところでは焼きそばだよ」などと前を歩く二人は軽口を言い合いながら楽しそうに話している。
チラッと隣を歩く日野さんの方を見やると、浴衣を着慣れていないのだろうか。なんとなく歩きにくそうにしているように見える。なるべく彼女に負担をかけないよう、歩くスピードを落とした。
「ふふっ、ありがとう瀬川くん」とこちらの気遣いを察してか、お礼を言われる。
「人も多いし、はぐれちゃったら大変だからね」
「もしはぐれちゃったら、どっちが迷子ってことになるのかな?」
「さすがに一人になった方じゃない?」
「でも瀬川くんが一人になっちゃったとしても、迷子とは認めなさそうだね」
「……まぁ否定はしない」
「瀬川くんらしいや」
迷子になるとしたら歩きにくそうにしている日野さんの方だろうと思ったが、口には出さなかった。
明るく活発な彼女なら一人になってしまったとしても問題なさそうな気もするが、それとこれとは話が別だ。
「彗〜!お前も牛串派だよな!?」と前を歩いていた暖大が立ち止まり、こちらに問いかけてくる。
「たこ焼きだろ」
「第三の選択肢出してくんなよ」
呆れたような顔をする暖大とのやり取りを見て、日野さんはくすくすと笑っている。
「ほんと瀬川くんらしいね。ね、私もたこ焼き食べたい。行こっ!」と少し前に見えるたこ焼きの屋台を指差す。
「じゃあうちは焼きそば買いに行こうかな。片山くん、着いてきて」
「え〜、俺牛串食べたいんだけど…」
「後で一緒に行ってあげるから。ほら、行くよ」と穂波さんは暖大を引っ張って歩いていく。
「二人とも、買い終わったら境内のところで待ち合わせな〜!」と引っ張られながら口にする暖大の姿はなんというか、シュールだ。そして日野さんと顔を見合わせ、たこ焼きの屋台の方へと向かった。
たこ焼きの屋台の前には少し列ができていたので、二人で最後尾に並ぶ。
「日野さんは他に食べたいものある?」
「いちご飴が食べたいなぁ」
「ほんと好きだね。じゃあこの後そっちも行こうか。あの二人もそれなりに時間かかるだろうし」
「やった!行く行く!」とお祭りにぴったりな調子だ。
そして会話を楽しみながら両方を買い終え、境内へと向かった。
到着し、辺りを見渡すがまだ他の二人は来ていないようだ。ちょうど二人分、座れそうなスペースを見つけ、「座って待ってようか」と声をかける。
「うん、そうだね」の返事とともに歩き出し、二人で腰掛けた。
「冷めちゃってもあれだし、先に食べてようか」
「そうだね、お腹空いちゃったし!」と二人で買ってきたものを食べ始める。小さな口で、ハフハフとしながらたこ焼きを食べる彼女は、なんだか小動物のようだ。
「ね、瀬川くん知ってる?この辺りって花火がよく見えるスポットなんだよ」
「へぇ、そうなんだ。というか花火も上がるんだね」
「え、瀬川くん知らなかったの?」
「残念ながらこういうイベントとは縁がなかったもので」
小学生の頃に来た時、花火なんて上がっていただろうか。覚えていないだけなのか、最近になって追加されたのか、どっちだろう。
その話を聞いた上で辺りをもう一度見渡してみると、確かに人は増え始めていて、なんとなくカップルらしき人達も多い気がする。
「……私達も、同じように見えてるのかな」
僕の視線の先に気づいた日野さんは、そんなことを口にする。暗くなってきていて、色の判別はつきにくくなってきているが、彼女の頬は少し紅みがかっているような気がする。
「……まぁ、客観的にはそう見えるのかもしれないね」
そう言い、たこ焼きを一つ口に放り込む。
「ふふっ、瀬川くんもそんな顔するんだね」と言ってくる彼女の顔を見ることは、できなかった。
しばらくすると、「すまんすまん、思ったより並んでてさー」と暖大と穂波さんが合流した。
「私達もそうだったし、仕方ないよ」
「あー!咲、いちご飴買ってるー!いいなー、私も買えばよかった」
「お前結局焼きそばも牛串も両方買ったじゃん…」
「うちら女の子にとって甘いものは別腹なんだよ」などと言い合いながら、四人で買ってきたものを食べていると、弾けるような大きな音とともに、暗いはずの空が明るく照らされた。
「わぁ…!」と日野さんは空を見上げ、目を輝かせている。
「もうちょっと前行こうぜ!」とはしゃぎながら歩き出す暖大に、穂波さんがついていった。
「僕たちも行こうか」
日野さんに声をかけ、立ち上がって歩き出そうとすると、僕たちの前にたくさんの人が傾れ込んでくる。これじゃあ、合流するのはなかなか難しいな…と思った矢先、袖が引っ張られる。
「……ここで一緒に見よ?」
先ほどまでは判別しづらかった日野さんの表情は、断続的にもたらされる花火の光によって、今はよく見える。
「……そうだね、そうしようか」と二人で並んで空を見上げる。
聞こえるのは少しの喧騒と、花火の咲く音だけ。
お互い無言のまま、花火を見ていた。
無意識に、彼女の方へと視線が移る。花火の光に照らされ、笑顔で花火を見つめる彼女は本当に、
「綺麗だ…」
思わず口から出てしまった言葉に、ハッと左手で口を抑える。気づかれていないだろうか、とおそるおそるもう一度見る。彼女は変わらぬ表情のまま、花火を見ていた。
(…もう、誤魔化すことはできないな……)
溢れてくるこの感情は初めてのものだ。ただ、それでも、この感情の名前は知っている。
(僕は、日野さんのことが…)
気づいてしまった自分の気持ち。気づいてしまえば、何かが壊れるのでは、と自然と蓋をしていたこの感情。
高鳴る鼓動を不思議と心地よく感じながら、花火を眺めた。




