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戦争の中にある暖かい手


 俺はゆっくりと息を吸った。

 ここで名前を言えば、もう元には戻れない。喉の奥で、小さな抵抗が震える。

「……青嶋ナオヤ、です」

 玉座の間に、自分の声がやけに大きく響く。逃げ場のない音だった。

 皇帝は頷く。

「ナオヤ殿」

 名前で呼ばれた。それだけで、胸の奥が揺れる。

 皇帝の視線が、俺の袖に落ちた。血の染みを見て、ほんの僅かに眉が動く。

「恐ろしいものを見たであろう」

 否定できない。皇帝は玉座に座ったまま、静かに言う。

「この国は、長く戦っている。多くの命を、奪い、奪われてきた」

 その声には、誇りも酔いもない。ただ、疲れがあった。


「本来ならば、余は貴殿を戦場などに立たせたくはない」

 ガルトが微かに動く。だが、皇帝は続けた。

「だが――」

 一拍。

「貴殿の力が、この戦を終わらせるかもしれぬ」

 視線が、まっすぐに俺を射抜く。

「終わらせたいのだ」

 その言葉に、嘘は感じられなかった。皇帝は、玉座の肘掛けに手を置いた。古い傷が、白く残っている。

 

「余は三度、戦場に立った。そのたびに、若者を見送った。余の決断で死んだ者の数を、余は覚えておらぬ」

 視線が、わずかに伏せられ、指先がわずかに震えていた。

「覚えぬようにしている。だがな…もう十分だ。血が流れすぎた。今も尚、血が流れている。」

 そこで初めて、ほんの僅かに感情が混じる。

 静かな声。命令ではなく、願いに近い。 

「力を貸してくれぬか」

 俺は、答えられなかった。でもこの人なら救ってくれるかもしれないと。そう、思ってしまった。

 

 皇帝は側近へ視線を送る。

「湯を」

 それ以上を求めない。問いも、評価も、命令もない。ただ、待っている。沈黙が続く。


「余にも、そなたくらいの息子がいた」

 不意に落ちた言葉に空気が揺れる。

「五年前、国境でな――。」それ以上は語られない。

 だが、十分だった。喪失は、説明されなくても伝わる。この人も、奪われた側だ。それでも玉座に座り続けている。

 俺の知っている世の中の王は玉座にふんぞり返って指示を出すだけの人間だった。俺の考えが正しいのかは分からない。でもこの人は違う気がする。


「戦争は、若者を喰らう」

 視線は窓の外へ。灰色の空が、重く垂れ込めている。

 

「余はそれを止められぬ、だが――守ることはできる」

 その言葉を口にする男の背後には、無数の戦略図が広げられていた。 

 視線が戻る。値踏みではない。期待でもない。ただ、見ている。

 それだけで、胸の奥の張り詰めた何かが、わずかに緩んだ気がした。――気のせいかもしれない。


「ナオヤ。ここでは恐れなくてよい」

 喉が詰まる。戦場では恐れるなと言われた。

 ここでは恐れていいと言われた。胸の奥が、ひりつく。

 差し出された茶を受け取る。手にじんわりと伝わる暖かさ。口をつける。


 舌先に広がる仄かな甘み。知らない味だが、呼吸が少し安定する。これが異世界の味。

 ――そんな言葉しか思い浮かばなかった。呼吸が少し深くなる。


 気づけば、口をついて出た。

「……俺は、何をすればいいんですか」

 皇帝は口元だけをわずかに上げ、微笑む。その笑いは声を伴い、玉座の間に柔らかく響く。

「まずは食事だ」

「……え?」

「空腹で未来は語れぬ」

 側近が眉をひそめるが、皇帝は茶器を置きながら気にしない。

「異邦の若者に、腹を空かせたまま国家の話をさせるほど、余は愚かではない」

 口元が緩み、緊張が指先から少しずつ溶けていき、思わず息が漏れる。


「……変な人ですね」

 口が滑った。まずい

 言ってから、少しだけ後悔する。皇帝は低く笑った。

「よく言われる」


 玉座の間に、戦場とは違う音が響く。

 そのとき、気づいてしまった。この人の前なら――壊れずにいられるかもしれない、と。

 血の染みは消えない。戦争も、終わらない。 

 それでも、今。掌にある温もりだけは、確かだった。

 だから縋った。 

 ――まだ知らない。

 この手の温かさが、やがて俺を“冷徹な軍人”へと変えていくことを。

  

 灰の空の下で何かが動き始めていた。

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