軍人の呪い、聖女の祈り
帝都の喧騒を背に、俺は緩やかな坂道を登っていた。
視界に飛び込んできたのは、冬の陽光を一身に浴びて黄金色に波打ち、集落を埋め尽くさんとする、ひまわりの群生だ。
だが、その鮮やかな色彩が、今の俺の網膜にはひどく毒々しく、鋭い刺のように突き刺さる。
「……チッ。鏡を見るんじゃなかったな」
俺は、軍帽の庇を深く引き下げ、自分の顔を隠すように歩を進めた。
一時間前、家の鏡に映っていたのは、およそ期待の若手将校とは程遠い、死相の漂う男の顔だった。
落ち窪んだ眼窩に、どす黒く居座る隈。数日の不眠と、昨夜の「血の滲む手洗い」の代償が、隠しようのないほど露骨に表れていた。
トビアス一等兵。……いや、トビアス伍長。
あの子を生存率という数値で買い叩き、その命を効率的に消費した。その結果、俺は生き残り、こうして、休暇という名の免罪符を手にしている。
……あんなにやつれたツラで、皆の前に立てるわけがない。彼が命を賭けて守った「指揮官」が、幽霊のような顔をしていては、彼の想いを、彼の死を、非効率なものにしてしまう。
俺は、無意識に両手をジョリ、ジョリ、と擦り会わせていた。
右手の皮膚は、昨夜の洗浄でボロボロになり、わずかな摩擦でも焼けるような痛みが走る。
だが、それ以上に痛むのは、脳の奥底にこびりついた、石鹸と死体の匂いだ。
どれだけ魔法で空気を清浄化しても、トビアスが俺の軍靴に触れたあの温もりだけが、鼻腔の奥にへばりついて離れない。
――ナオヤ、副隊長……ありがとうございます。
不意に脳裏をよぎる少年の声。
俺は、吐き気を押し殺すように深く息を吐き、足を止めた。
目の前には、白亜の壁に囲まれた静かな庭園。
ここだけは、硝煙も、返り血も、惨めな共犯者の告白も届かない、この世界で唯一の無菌室だ。
俺は、魔法で顔の筋肉を強引に弛緩させ、何度も練習した笑みを貼り付けた。
やつれた瞳に、無理やり日常という名の偽りの光を灯す。
「……よし。演算、終了。行こう」
俺は、軍靴の泥を念入りに払い落とし、ひまわりの匂いが満ちる聖域へと一歩を踏み出した。
ひまわりの大輪に囲まれた暖かい庭園の中央。
俺の足音を聞きつけたアリシアが、弾んだ声と共に全力で駆け寄ってくる。
「ナオヤ……! ナオヤーっ!」
視界の中の演算機能が、一瞬だけホワイトアウトした。
「お、おい、アリシア……! 走ると危な……っ」
衝撃。
柔らかな体温が、俺の胸に勢いよく飛び込んでくる。
まるでアリシアの強襲だ。
いつもなら、衝撃のベクトルや、重心の移動を計算して最適な受け流しを瞬時に弾き出す脳が、今はただの十九歳の少年のようにフリーズしていた。
「えへへ……おかえりなさい、ナオヤ。……ずっと、待ってたんだよ?」
アリシアは俺の軍服の胸元に顔を埋め、離れようとしない。
軍用手袋に隠された、皮膚の剥げた右手がズキリと疼く。
――汚い。
トビアスの死を数値化したこの手で、彼女に触れていいはずがない。
俺は狼狽しながら、反射的に彼女の細い肩を支えた。
「ああ。……ただいま、アリシア。……それより、ちゃんと野菜を食べているか? 顔色が少し青い。庭のひまわりにばかり栄養をやって、自分を疎かにするのは非効率だぞ」
口から出たのは、戦場での冷徹な指揮官とは程遠い、酷く不器用な「兄貴」の小言だった。
アリシアは俺の胸に顔を埋めたまま、不満げに、ぷくーっと頬を膨らませた。
「……もうっ! ナオヤのバカ! せっかくの感動の再会なのに、なんでいつもそうなの!?」
「事実を言っているだけだ。それに、今日は任務で……」
「そうじゃないっ! ナオヤのバカ! 石鹸の匂いしかしない大バカ!」
アリシアは小さな拳で俺の胸をポカポカと叩き始めた。
アリシアも年頃の女の子だ。体重に関連する話は不味いのだろう。俺の妹もこんな感じだった……気がする。
アリシアの子供じみた抗議に、俺は溜息をつきながら、柔らかい髪に触れ、あやすように頭を撫でた。
この瞬間だけは、俺の中の「合理の天秤」が沈黙する。
だが、アリシアは不意にその手を止めた。
「私は元気だよ! それより……」
アリシアの動きが止まる。
上目遣いに俺の顔を覗き込むその碧い瞳が、悪戯っぽい色から、深い慈しみを含んだ視線へと変わった。
小さな、温かな掌が、俺の頬をそっと包み込む。
「……ナオヤ、お目目の下、すっごく黒いよ? ちゃんと寝た?」
「……何を言っているんだ?俺の睡眠時間は、軍の規定に則って厳密に管理されて――」
「うそつき」
アリシアの短い断定。
彼女の指先が、俺の瞼の淵をなぞる。
その瞬間、昨夜の滲む手洗いの痛みや、トビアスの断末魔、ノエルの震える声……俺の脳内を埋め尽くしていた「汚れ」が、彼女の体温に触れた場所から霧散していくような錯覚を覚えた。
「……悪い夢、いっぱい見たんでしょ? ナオヤは優しいから。……頑張りすぎちゃうから」
「……優しい、? 俺が?」
思わず、自嘲気味な乾いた笑いが漏れた。顔がひきつっているのが分かる。
数時間前、一人の少年を「生存率」という数値で買い叩いた男に向かって、この少女は何を言っているのか。
俺の右手には、まだ軍用手袋の下でズキズキと疼く、自傷に近い洗浄の痕があるというのに。
「……そうだよ。世界で一番、優しくて、カッコいい私の軍人さん」
アリシアは再び俺の胸に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。
「……ん……ナオヤ、今日もいい匂いがするね」
「……。石鹸の、匂いだろ。鼻がバカになってるんじゃないか?」
「ちがうよ。お日様の匂い……ううん、ナオヤが誰かを守るために頑張った匂いがする。私、この匂い大好きだよ」
――。
その言葉は、どんな高位の浄化魔法よりも、残酷なほど深く俺の魂を洗い流した。
俺が「死と罪を隠蔽するための無」だと思っていた石鹸の香りを、彼女は「守るための匂い」だと定義した。
俺の脳内の「合理の天秤」が、音を立てて崩壊する。
右皿には、トビアスの死。左皿には、この少女の笑顔。
……釣り合うはずがない。数値化など、できるはずがない。
「……ああ。そうか」
俺は、無意識に左手を伸ばしていた。
手袋をしていない、剥き出しの、けれど今は不思議と震えていない左手で、アリシアの柔らかな背中をそっと抱き寄せる。
今はこの温もりを、一秒でも長く留めておきたい。
トビアスの感謝の脂が、彼女の匂いによって上書きされていくこの奇跡を、手放したくないと願ってしまった。
一人、庭園の隅にある古びた水道の前に立つ。
いつもなら、呼吸を整える間もなく蛇口を捻り、剥けた皮膚をさらに削り取る「儀式」を始めているはずだった。だが、俺の足は、吸い付いたようにその場から動かない。
俺は、軍用手袋を外したままの自分の両手を見つめた。
そこには、昨夜の洗浄で滲んだ血の跡が、薄赤く痛々しく残っている。
だが。
その血と傷を覆い隠すように、アリシアの温もりが、アリシアがくれた匂いが、今も掌に、指先に、奇跡のような白さで留まっていた。
「……洗う必要はない、か」
独り言が、風に溶ける。
彼女が「大好きだ」と言ってくれたこの匂いを、俺自身の拒絶で消し去ることこそが、今の俺にとっては最大の不合理に思えた。
彼女が「綺麗だ」と祈るように肯定してくれたこの手を、これ以上、俺が否定してどうする。
俺は、震える左手をゆっくりと握りしめた。
掌に残る微かな残温を、自分の魂の奥底へパッキングし、鍵をかける。
顔を上げれば、そこには再び、感情を排した「副隊長」の瞳が戻っていた。
やつれていた瞳の奥に灯るのは、人間としての光ではない。この一瞬の白さを、アリシアの笑顔を死守するための、凍てついた軍人としての殺意だ。
「……この白さを守るためなら。……俺は、いくらでも泥を被ろう」
トビアスの死を無駄にしないために。
ノエルと共に背負った「共犯者」という十字架を、最後の一人まで届けさせるために。
そして、アリシアという名の光を、この不潔な世界から絶やさないために。
俺は、軍用手袋をゆっくりとはめ直し、傷口を締め付ける痛みを、覚悟の重さとして受け入れた。
「……戻るか。俺の、居るべき場所に」
俺は、咲き誇るひまわりの眩しさを一度だけ振り返り、二度と戻れないかもしれない「日常」に背を向けた。
軍靴が鳴らす無機質な足音と共に、俺は再び、硝煙と鉄の匂いが待つ地獄へと踏み出していった。




