合理の天秤
視界を埋め尽くすのは、荒れ狂う白銀の暴力――吹雪だ。
魔力探査の精度は、「勇者の残穢」が放つ虹色のノイズに干渉され、通常時の七割まで低下していた。
「……チッ。効率が悪すぎる」
俺は、軍帽の庇を叩く雪を払う。
耳を澄ませば、風の唸りに混じって、地響きのような蹄の音が聞こえてくる。レギウス共和国が誇る魔導騎士団の本隊だ。
「副隊長! 敵との距離、残り八百! このままでは、殿を務める我が隊が飲み込まれます!」
通信兵の悲鳴に近い報告。
俺の脳内にある「合理の天秤」は、すでに向こう側の勝機をゼロと断じていた。
右皿には「全滅の確率、九十八パーセント」。左皿には「全軍撤退による損害、ゼロ」。
勇者のように、一山削り取るような不合理な一撃があれば話は別だろう。だが、俺はあんな、掃除し忘れた染みのような真似はしない。
俺が求めているのは、完璧な清掃――すなわち、最小のコストで最大の結果を出す、無欠の行軍だ。
「……全軍、転進。第六区画まで全速力で後退しろ。これ以上の交戦は、弾薬と魔力の無駄だ」
「えっ!? ですが、まだ前線の友軍が……!」
「聞こえなかったのか? 交戦継続は「不合理」だと言っている」
俺は、勇者の手紙を思い出す。
知らない人間を殺してでも、誰かを守りたい――。
……笑わせるな。俺は、知らない人間も、知っている人間も、一兵たりとも無駄死にさせない。
それが、俺がこの世界で「正しく」あるための、唯一の合理だ。
だが。
その解を導き出した瞬間に、ドォォォンッ! という、鼓膜を震わせる咆哮が響き渡った。
敵の魔導砲撃。
着弾地点から爆ぜた衝撃波が、退路を塞ぐように、古い魔導砲台の残骸をなぎ倒した。
「……っ!? トビー! 避けてッ!」
ノエルの絶叫。
その直後、俺の計算にはなかった瓦礫の下の悲鳴が、真っ白な雪原を真っ赤に染め上げた。
倒壊した鉄骨と石材の隙間に、一人の少年兵が挟まれていた。
トビアス一等兵。
部隊の末っ子として「トビー」と呼ばれ、俺の背中を「道標だ」と憧憬の眼差しで語っていた少年だ。
噴き出した鮮血が、雪を溶かしながら赤黒い染みを作っていく。
俺の天秤が、音を立てて軋んだ。
「トビー!嘘でしょ、目を開けて!今、助けるから……お願い、誰か手伝って!」
ノエルの悲鳴が吹雪に掻き消される。彼女は魔導騎士団の追撃など目に入らない様子で、真っ赤に染まった雪山に取り縋り、必死に瓦礫をどかそうとしていた。
俺は、一歩ずつ、重い軍靴で雪を踏み締めながらその背後に立つ。
……一瞥で、理解した。
巨大な石材の下、トビアスの両脚はひしゃげている。救出には重機か、あるいは大規模な魔法が必要だ。
「……ノエル。手を離せ。時間の無駄だ」
「……え?」
振り返ったノエルの瞳には、信じられないものを見るような色が浮かんでいた。
「何言ってるの、ナオヤ!? トビーが、トビーがまだ生きてるのよ! あなたの魔法なら、この瓦礫くらい……!」
「俺の魔力残量は残り二十パーセント。この瓦礫を排除するのに八パーセントを消費し、止血と搬送にさらに五分を要する。その間に敵の先遣隊が到達し、我々の生存率は十パーセント以下にまで低下する」
あの勇者は、一人の命のために世界を汚した。ならば俺は、一人の命を捨てることで、残りの全てを清潔に保つ。
「……トビアス一等兵」
俺はノエルを突き放し、瓦礫の隙間で虫の息となっている少年の前に膝をついた。
「あ……ふく、たい……ちょう……」
「トビアス。君の救出は非合理的だ。……だが、君がここで固定砲台として敵を五分足止めすれば、部隊の生存率は九十八パーセントに跳ね上がる」
「ナオヤ、やめて! そんなこと言わないで!」
ノエルが俺の肩を掴んで揺さぶる。その手の震えが、俺の軍服越しに伝わってくる。
「あの子、まだ十六なのよ!?家に帰ったらお母さんのパイが食べたいって、さっきまで笑ってたのよ!それを、あなたは……!」
「……ノエル、黙れ。これは、彼にしかできない「仕事」の話だ」
俺は無機質な動作で、腰のポーチから「広域自爆魔導具」を取り出した。鈍い鉄色の球体。それが、トビアスの命の対価だ。
「トビアス。君の命を、部隊の生存率八十六パーセント分として買い取りたい。……受諾するか?」
その問いに、ノエルは息を呑み、力なく雪の上に膝をついた。
「……あなた、悪魔よ。……人の心なんて、一ミリも持ってないんだわ……」
だが。
瓦礫の下で血を吐きながら、トビアスは――笑った。
その瞳には、恐怖ではなく、救済された者のような、澄んだ悦びが宿っていた。
「……ありがとう、ございます……副隊長。僕みたいな……デキの悪い新兵を……そんな……そんな大事な役に、選んで、くれて……」
トビアスは震える右手を伸ばし、俺の軍靴に付着した泥を、まるで汚れを拭うようにそっとなぞった。
「……お役に立てて……嬉しい、です。……ナオヤ、副隊長……」
不純物だ。
この少年の「感謝」は、俺が最も嫌う、演算を狂わせる「不純物」そのものだ。
「……そうか」
俺は彼の掌に、自爆具の起動スイッチを握らせた。
そして、傍らに立ち尽くすノエルや他の部下達には聞こえないほど小さな声で、彼にだけ告げた。
「……すまない。君の勇気に、最大限の敬意を払おう。……君は、俺よりも遥かに立派な軍人だ」
俺の声は、隣で泣き崩れるノエルにさえ届かないほど低く、密やかだった。
トビアスは、満足げに一度だけ深く頷き、自爆具の起動スイッチを血まみれの指で力強く握りしめた。
俺は立ち上がり、凍てつく空気を切り裂くような鋭い声で全軍に告げた。
「――総員、撤退再開! 本時刻を以て、トビアス一等兵を二階級特進、伍長に任ずる! 彼が命を賭して稼ぎ出す五分間を、一秒たりとも無駄にするな!」
「……伍長、だって……?」
ノエルが、信じられないものを見る目で俺を見上げた。
「死ぬことが決まってから階級を上げるなんて、そんなの……あなた、どこまで非情なのよ! 彼は、トビーは……ただの子供なのよっ!」
ノエルの怒声。だが、俺の「合理の天秤」はピクリとも揺れない。
命を失う彼に、軍として、国家として与えられる唯一の報酬がこれだ。
「行け、ノエル。……これ以上、彼の戦果を汚すな」
俺は彼女の腕を強引に掴み、泥と雪にまみれた戦場から引き剥がすように歩き出した。
数分後。
雪原の彼方で、赤黒い爆炎が吹き上がった。
トビアス伍長。
一人の少年兵を、生存率八十六パーセントという数値に換金した、完璧な清掃。
背後に残る熱波が、俺の軍服を、そしてトビアスに触れられた軍靴を嫌悪するように撫でていった。
無事に帰還した宿舎。
戦果は完璧、損害は最小限。
廊下ですれ違う兵士達は、「さすが副隊長だ」「あの状況で全員を救うとは」と、羨望と称賛の眼差しを向けてくる。
……黙れ。不純物が、耳の奥に入り込んでくるな。
自室の扉を開けようとしたその時、背後から重い衣擦れの音がした。
「……ナオヤ。待って」
振り返れば、そこにはトビアスの返り血が乾き始めた軍服のまま、幽霊のように立ち尽くすノエルがいた。
先ほど俺を悪魔と罵ったはずの彼女の瞳には、怒りではなく、自分自身への嫌悪がどろりと澱んでいる。
「報告なら後にしろ。今は"掃除"が必要なんだ」
「汚いよね。私達」
ノエルの掠れた声が、廊下の静寂を切り裂いた。
「……は?」
「私、あなたを悪魔だって叫んだ。でもね、ナオヤ。あなたが自爆具をトビーに渡した時、私、心のどこかで、ホッとしちゃったの」
ノエルは震える両手で、自分の顔を覆うように強く抱え込んだ。
「……あの子が死ねば、助かる。あの子一人が消えてくれれば、私は死なずに済む。そんな惨めな計算を、私も一瞬だけ、確かにしてたのよ」
彼女は一歩、俺に歩み寄り、祈るように俺の異様なまでに綺麗な袖口を掴んだ。
「だから、ナオヤ。あなた一人を悪魔にはさせない。あなたがトビーを殺したなら、私はそれを見殺しにして生き延びた共犯者よ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
彼女の温もりが、トビアスの死の上に築かれた生の生々しさを、これでもかと俺に叩きつけてくる。
「……離せ。汚れる」
俺は、縋りつく彼女を冷酷に振り払った。
「……お前のその懺悔も、温もりも、必要ない。……やめてくれ。汚れ役は俺だけで十分だ。お前達は――小綺麗なままで居ればいい」
「……ナオヤ……っ!」
――ふざけるな。罵倒しろよ、人殺しだと叫べよ。
共犯者なんて不浄な言葉で、俺の罪を分け合おうとするな。
自室に入り、扉に鍵をかけた瞬間、俺は洗面台へ崩れ落ちるように駆け込んだ。
鏡は見ない。そこに映る正解を出した怪物の顔など、見る必要はない。
蛇口を全開にし、冷たい水を掌に受ける。
物理的な返り血など一滴もないはずの右手が、焼けるように熱い。
トビアスに軍靴を触られたあの感触。自爆具を握らせた時の、あの少年の震える、けれど温かかった指先の温度。
石鹸を擦り付け、爪の間まで削り取るように洗う。
――ナオヤ、副隊長……ありがとうございます
脳裏に響く、あの少年の感謝の声。
それが、石鹸の泡を通り抜けて、俺の皮膚の裏側にべったりと張り付いている。
「……っ!」
俺は、石鹸が切れてもなお、素手で手の甲を、指先を、狂ったように擦り合わせた。
ボロボロと皮膚が剥け、そこからじわりと本物の血が滲み出す。
だが、その痛みさえも、あの少年の感謝という名の脂を洗い流すには足りなかった。
……汚い。勇者の手紙にあった愛よりも、もっと救いようがなく、不潔な人殺しだ、俺は。
ごめん、ごめんな。トビアス……本当は、俺は……。
――どれだけ時間が経ったか分からない。
皮が剥け、生身の肉が露出した自分の右手を見つめる。
「……あと数時間で、アリシアに会わなければならない」
この地獄のような手で。
あの、清潔な匂いがする、世界で唯一綺麗な少女に、俺は触れることができるのか。
震える手を冷たい水に浸しながら、俺は、明日という名の絶望を静かに待った。




