勇者の残穢
石鹸の香りに包まれた夜は、瞬く間に過去へと追いやられた。
今、俺の鼻腔を突いているのは、凍てつく大気と、鼻の奥がツンとするような硝煙の臭いだ。
「――第八区域、掃討完了。残存魔力反応、消失。遺品整理に移る。次だ」
レギウスの連中の防衛線でもある集落を清掃し終えた後の陣地には、勝者の歓喜も敗者の悲鳴もなく、ただ耳障りな風の音だけが吹き抜けていた。
雪原に転がる人間性の肉塊を、俺は無機質な数値として処理していく。その懐からこぼれ落ちた家族の手紙や、色褪せたお守り。それらは俺の視界の中で、価値のない不燃ゴミとして記号化されていく。
いちいち心を痛めていては、演算が狂う。効率が落ちる。
――そして、手が汚れる。
昨日までの祭りの喧騒も、ノエルのハンカチの温もりも、今の俺には遠い前世の記憶のように感じられた。脳内の「合理の天秤」は、すでに次の行軍コストの計算へと移行している。
ふと、雪の中に埋もれた、周囲の泥とは明らかに質感の違う何かが視界を掠めた。
指先に触れた、ひび割れたプラスチックの感触。
この世界では決して再現できない、安っぽくて、けれど狂おしいほどに平穏だった「日本」の断片。
それは、十五年前にこの地を震撼させた三人の「日本人勇者」の一人が遺したものに違いなかった。当時の七星を五人屠り、帝国を滅亡の淵まで追い込んだ、同郷の先達。
画面のひび割れには、色褪せたアニメのキャラクターシールが貼られている。
持ち主は、これを握りしめて死んだのか。それとも、絶望の中で投げ捨てたのか。
「……?なんだ、これは?」
指先が、電池蓋の僅かな隙間に挟まった、不自然な厚みに触れた。
引き抜いたのは、クシャクシャに丸められた、この世界には存在しないルーズリーフの切れ端だ。
泥と、どす黒く変色した血に塗れたその紙面を広げた瞬間――俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
そこに躍っていたのは、俺以外の誰にも読めないはずの、見慣れた"日本語"だった。
――リナが笑ってくれるなら、俺は何だってする。たとえ、知らない国の、知らない人間を殺してでも。……でも、最近怖いんだ。彼女の瞳が、時々、凍りついたように冷たく見える。……俺は、信じたい。彼女だけは、俺を「兵器」として見ていないと……。
脳を直接、汚物で掻き回されたような強烈な不快感が、喉元までせり上がってくる。
「リナ」という名の女。その筆跡の端々から滲み出す、狂信的なまでの縋り。
今の俺が持つ軍人としての知識が、冷酷な答えを一瞬で導き出す。
……馬鹿な男だ。
その女の指先には、工作員特有の「硝石の匂い」が染み付いていたはずだ。
共和国の、あるいは政治家の差し金か。愛に飢えた異世界の子供を、適当な偽りの温もりで飼い慣らし、都合のいい「兵器」として使い潰す。
利用され、搾取され、最期はこうして雪に埋もれたのか。
情は毒だ。……愛など、不合理な首輪に過ぎない。
なのに、どうして。
この救いようのない日本語の「絶叫」が、俺の耳の奥で、かつての自分の声と重なり合う。
それがトリガーとなり、俺の視界が、脳漿が、一瞬で「向こう側」に引きずり戻された。
――「ナオヤ? いつまでゲームやってるのよ! 早くお風呂入っちゃいなさい!」
夕餉の支度をする、母さんの包丁の規則正しい音。
換気扇から漂ってくる、少し焦げた醤油の匂いと、出汁の効いた味噌汁の香り。
――「お兄ちゃん! 明日、駅前の新しいショップに買い物ついて来てね! 荷物持ち、決定!」
妹の、生意気で、けれど一点の曇りもない笑い声。
――「ナオヤー、放課後ラーメン食いに行こうぜ。新作の激辛、挑戦するだろ?」
マサキの、汗臭い制服の匂いと、くだらない冗談。
それら全てが、今の俺にとっては致死量の毒で、硝煙の臭いと混ざり合い、脳内で不快なスパークを起こす。
十五年という月日が、それらを「温かな記憶」から「演算を狂わせる致命的なバグ」へと変質させていた。
この戦場には、味噌汁の匂いも、放課後のチャイムも、家族の呼ぶ声も存在してはならないのだ。
クソッ!出ていけ!こんな記憶!もう要らないんだよ!
俺は、視界を覆う「平和な幻影」を振り払うように、激しく頭を振った。
先程まで揺らいでいた天秤が再び鎮まり、スーッと精神が平常に戻る。
――不潔だ。
俺の指に、俺の耳の奥に、死者の残した「幸福の残滓」がこびりついてくる。
……死んだ勇者の私物をお守りのように持っていた奴も結局は死んだ。まるで死を誘う呪物だな。
奴は死に際に「聖地を汚すな」と言っていた。此処はかつて勇者と七星が血に濡れた戦いをした聖戦の跡地らしい。
視線を上げれば、そこには「聖地」の名に相応しい絶景――などではなく、ただただ暴力の爪痕が、地平線の彼方まで横たわっていた。
かつての聖戦。
勇者が振るったとされる聖剣の一撃は、標高数百メートルの連峰をバターのように切り裂き、その断面は十五年経った今もなお、不自然なほど滑らかな鏡面となって月光を跳ね返している。
大地には、巨大な獣に抉り取られたような深い溝が幾条も走り、そこからはどろりとした、不快な虹色の魔力残穢が、陽炎のように立ち上っていた。
「……酷いな。効率が悪すぎる」
今の俺の目には、それは「掃除し忘れた最悪の染み」にしか見えなかった。
これほどの魔力を無造作に撒き散らし、地形を変え、後の生態系まで汚染し尽くす。勇者という存在がもたらした「救い」の代償は、十五年経ってもなお、この世界の不潔な傷跡として残り続けている。
これを狂信しているレギウスの連中も、渡り合ってきた七星共もイカれてるな。まるで神話の世界だ。俺があの席につく候補だなんて信じたくない。ただ俺は、身の丈にあった生活を守りたいだけなのに。
「……副隊長? 何か、貴重品でも見つかりましたか?」
後ろから、部下の一人が不思議そうに覗き込んでくる。
俺は、ゲーム機を無造作に掴み上げた。
指先に伝わるプラスチックの冷たさが、今の俺には耐え難い「猛毒」に感じられた。
これを懐かしむ心。家族を思い出す痛み。
それらは全て、一秒先の生存を阻害する演算上の不純物だ。
かつての英雄達が命を懸けて守ろうとした勇者等の形跡など、今の俺には、戦場を汚すゴミでしかない。
「……いや。ただの、不燃ゴミだ。演算を阻害する、ただの鉄屑に過ぎない」
俺は左手に魔力を込めた。
「――雷魔法・浄嵐」
バチバチッ、と青白い火花が爆ぜ、誰かの「生きた証」だった玩具は、分子レベルで分解され、光の塵となって雪原に消えた。
同時に、俺の脳の奥底にある「日本」という名のフォルダを、力任せにゴミ箱へ放り込む。
母の声。兄弟の声。帰りたかった自分。
それら全てを、今の俺には持つ資格がない。
「……移動するぞ。不純物を焼いたせいで、空気が淀んだ。直に、騎士団の本隊も来るだろう。俺達は迎え撃つ準備だ」
俺は、ゲーム機があった場所の泥を、感情を殺したまま軍靴で激しく踏み荒らした。
焼き払ったはずなのに、指先にこびりついた、プラスチックの焦げた匂いが、猛烈に鼻につく。
俺は、部下達の怪訝な視線を無視し、近くの雪溜まりに両手を突っ込んだ。
冷たさで感覚が消えるまで、赤くなっても、何度も、何度も、雪で手を擦り洗う。
……洗わなきゃ。
あんな「壊れた玩具」を触った手が、アリシアに届くはずがない。
雪原に残されたのは、不自然に踏み固められた跡と、俺の、ひび割れた精神の残響だけだった。




