泡沫の再会
第四国境の、年中湿った灰色の空が嘘のようだ。
帝都の空は、抜けるように青く、どこまでも無機質なほどに晴れ渡っていた。祭りを控えた大通りには、色とりどりの旗がはためき、香ばしい屋台の匂いと、行き交う人々の浮き足立った熱気が満ちている。
「……よし。完璧だな。どこからどう見ても、ただの若者だ」
家の鏡の前で、俺は三度目となる「普通の十九歳」の笑顔を点検した。口角の角度は左右均等か。瞳の奥に、戦場で染み付いた「効率」という名の殺気が混じっていないか。
軍服を脱ぎ、代わりに腕を通したのは、糊のきいた生成りの麻シャツだ。
半年前、ノエルが「あなた、放っておくと一生軍服か寝巻きで過ごしそうだから」と、半分呆れながら帝都の仕立て屋で誂えさせたものだ。
当時の俺は「布面積が同じなら防御力の高い軍服の方が合理的だ」と反論したが、彼女は「十九歳の男の子が、女の子と歩く時に鉄の匂いをさせてどうするのよ」と、有無を言わさぬ勢いで俺にこれを買い与えた。
指先に触れる上質な麻の感触。それは、返り血も泥も知らない、あまりに清潔で、あまりに脆弱な「日常」の象徴だった。
「おーい、ナオヤ! こっちだ!」
待ち合わせの大広場。真っ先に声を張り上げたのは、相変わらず声のデカいイナミスだった。
「……イナミス。相変わらず声がデカいな。周囲の注目を集めるのは隠密性の観点から非効率だぞ」
「ははっ! 休暇中に隠密とか言うなよ。お、また身長伸びたな。男らしくなったじゃねえか」
「ちょっとナオヤ、そのシャツの着こなし……誰に教わったの?」
横からニヤニヤしながら詰め寄ってきたのは、第三魔導部隊のレインだ。彼女は俺の襟元を整えるふりをして、獲物を探る猛禽のような目で俺を観察する。
「怪しいわねー。あの芋っぽかったナオヤに、こんな小洒落たセンスがあったかしら? どこの女の子に選んでもらったの?」
「……ノエルに押し付けられただけだ。色彩心理学的に、周囲に威圧感を与えない色だと説明された」
「はいはい、そういうことにしておくわ」
俺の背後で、ノエルとセリナが苦笑いしながら歩み寄ってくる。
ノエルは、俺が素直にシャツを着てきたことに一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに満足げに目を細めた。
「……ふーん。ちゃんと着てきたじゃない。でもナオヤ、ボタンを一番上まで留めすぎ。息が詰まりそうよ」
そう言って、ノエルが自然な動作で俺の首元に手を伸ばす。
第一ボタンを外す彼女の指先が、微かに俺の鎖骨に触れた。
ドクン、と。
俺は反射的に身を強張らせたが、ノエルは気づかないふりをして、俺の襟元を丁寧に直してくれた。
「……よし。これで少しは「人間」に見えるわ」
彼女の瞳には、戦友としての信頼と、それ以上の、名前の付けられない慈しみが宿っていた。
ノエルは、俺の少し硬い、作り物の笑顔の裏側に、どれほどの血と泥がパッキングされているかを知っている数少ない人間だ。
だからこそ、ノエルの作る穏やかな空気は、俺の強固な城壁をいとも容易く透過してくる。
「さあ、行こう! 今日は無礼講だ。ナオヤの奢りで食い倒れるぞ!」
「……俺の奢りなんて、いつ決まったんだ」
文句を言いながらも、俺はコイツらの歩調に合わせて歩き出した。
賑やかな祭りの囃子、屋台から流れる甘い菓子の匂い、そして隣を歩くノエルの、微かな石鹸の香り。
俺は、軍人としての自分を深く暗い脳の奥底へ沈め、今だけは、この麻シャツが似合うただの「ナオヤ」を演じることに決めた。
それが、これからの地獄を耐え抜くための、最も合理的な休息だと信じて。
「うまい! やっぱ帝都の串焼きは肉の弾力が違うな!」
口の周りをタレだらけにしたイナミスが、ガツガツと串を頬張る。
「……イナミス、口にソースがついているぞ。食べ方の効率が悪すぎる」
「うるせえよ! 飯は勢いだろ!」
呆れる俺の横で、ノエルが「もう、子供じゃないんだから……」と小さく溜息をつき、自分のハンカチで彼の頬を甲斐甲斐しく拭ってやった。
イナミスは「悪い悪い! ありがとな!」と全く無頓着に笑っている。
……鈍感にも程がある。コイツはノエルの感情に一ミリも気付いていないな。
俺は、ノエルの少しだけ赤くなった耳たぶと、彼女の献身に一ミリも気づかない男を、少しだけ意地悪そうな眼差しで交互に見つめた。この「非効率な一方通行」は、戦場では決して見られない、ある種のエンターテインメントだった。
――夜の酒場。酒精が入り、会話はさらに加速する。
「ナオヤ、お前も十九だろ? そろそろ女の一人も紹介してやろうか。俺の従姉妹とか、結構可愛いんだぜ?」
酔ったイナミスの爆弾発言に、俺は冷めた声を返す。
「……女という変数は演算を狂わせる。非合理的だ。そもそも、自分の一番近くにいる奴の想いにさえ気づかない男に、仲介を頼みたくはない」
「はあ!? どういう意味だよ!」
的外れな怒りを見せるイナミス。ノエルが顔を真っ赤にして俯くのを横目に、今度はレインが俺の胸ポケットを指差した。
「あら? その業務連絡、ずいぶん可愛い切手が貼ってあるじゃない。白状しなさいよ、どこの誰?」
「妹のように可愛がっている集落の子だ。……お前らが期待してるようなものではない」
「アリシアから、ナオヤ君のこと聞いてるよ?毎回、 あなたが帰るのを楽しみにしてるって」
セリナがクスクスと笑いながら追撃する。
「ナオヤ、あの子に呼び捨てさせてるんでしょ? お兄さん失格ね」
ノエルの容赦ないツッコミに、俺はため息をつく。
合理的理由を並べ立てれば立てるほど、周囲のニヤニヤが深まり、俺の城壁はボロボロに崩れ去った。
だが。
仲間と別れ、一人で家への帰り道を歩く頃には、その多幸感はどろりとした吐き気に変わっていた。
楽しいはずだった。笑っていたはずだった。
なのに、今の俺には自分のシャツに染み付いた他人の匂い、酒、油、大衆の熱気が、生理的に耐え難いものに変わっている。
自室に戻り、扉を閉めた瞬間、俺は洗面台へ駆け込んだ。
「……オエッ……」
蛇口を全開にし、狂ったように手を洗う。
「……汚い。汚れている。」
バチバチと青白い雷光を自分自身に放ち、俺の肉を焼き焦がしながら、見えない汚れを焼き払う。だが、耳の奥にこびりついた仲間の笑い声や、ノエルの悲しげな視線が、今の俺には眩しすぎて、吐き気を加速させた。
ようやく呼吸を整え、俺は赤く腫れ上がった指先で、隠していた、清潔な匂いのする一通の手紙を取り出した。
少し不揃いな文字で綴られた、アリシアからの言葉。
その文字に触れた瞬間、胸を締め付けていた吐き気が、魔法のように収まっていく。
……ああ。これだけだ。
俺を人間に繋ぎ止めるのは、この一通の紙切れだけなんだ。
「……もう少しだけ。もう少しだけ、この仮面を被っていよう」
鏡の中には、感情の死んだ、無機質な「副隊長」の顔が映っていた。
俺は深く息を吐き、再び冷徹な計算の世界へと沈んでいく。




