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拭えない生活の汚れ


 ――ナオヤ、今日もいい匂いがするね。

 

 帝都から戻った直後の自室。その静寂の中で、アリシアの鈴を転がすような声が、耳奥で呪いのように反芻していた。

 

 俺は椅子に深く腰掛け、無機質な動作で軍用手袋を外す。

 鼻腔をくすぐるのは、季節外れな、ひまわりの柔らかな残り香。アリシアが俺の胸に顔を埋めたときに移った、この世界で唯一の清潔だ。

 

 指先が、厚手の軍服の生地をなぞる。

 そこにはまだ、アリシアがしがみついた時の、掌の柔らかな圧力が微かに残っているような錯覚があった。

 

 鉄の匂い。硝煙の乾いた臭い。それらで満ちているはずの軍用布から立ち上る、場違いなほどに甘い、ひまわりの残り香。

 

 それを吸い込むたびに、俺の脳内に築き上げた「合理の天秤」が、揺らぐのが分かった。

 

 ……だめだ。この匂いを残したままでは、俺は、戦場で引き金を引き損ねる。

 

 俺は、肩口を握りしめていた指が白く強張るのを見つめた。

 愛おしさよりも、恐怖が勝る。

 俺を人間に引き戻そうとするこの温もりを、この瞬間に完全に殺さなければならない。

  

「……不潔……だ。演算が鈍る」

 俺は冷徹に言い放ち、指をパチン、と鳴らす。

 

「雷魔法・浄嵐(クリーンストーム)

 

 パチッ、と青白い火花が爆ぜ、一瞬にしてひまわりの匂いは分子レベルで分解され、光の塵となって消えた。

 

 名残惜しさなど、微塵もない。今の俺にとって、甘い記憶は思考回路を浸食するウイルスでしかないからだ。

 

 剥き出しになった右手の皮膚は、昨夜の洗浄で赤く腫れ上がり、わずかな空気の振動さえ痛みに変える。俺はその痛みを噛み締めるように、再び硬い軍用手袋をはめ直した。

 

 よし。演算、正常。

 俺は冷たい仮面を完璧に貼り付け、作戦室の重い扉を押し開けた。

 

 作戦室には、ノエルを筆頭に俺の部下の面々が揃っていた。

 俺は迷わず最上席に座り、卓上の地図を指で叩いた。

 

「……本時刻を以て、本隊との合流を決定する。強行軍で、奴らの喉元を直接掻き切りに行くぞ」

 

 一瞬の沈黙の後、部下の一人が困惑を隠せずに声を上げた。

 

「……本隊ですか!? 副隊長、あそこは今、レギウスの主力が集結している最前線です。我々のような遊撃部隊が飛び込めば、文字通り消滅しかねません!」

「効率が悪いと言っているんだ」

 

 俺の声は、起伏を失っている。

 

「この程度の局地戦を繰り返していても、帝国のリソースを浪費するだけだ。本隊――隊長が居る領域へ合流し、一気に勝機を確定させる。補佐専門とはいえ腐っても七星。アレが居るか居ないかで戦果がどれだけ変わるか、分かっているはずだ」

「ですが、生存率の計算が合いません! 本隊に合流するまでの死地をどうするつもりですか!それこそ不合理だ!」

 

 別の部下の反論を、俺は凍てつくような眼差しで遮る。 

 やつれた眼窩の奥、感情をパッキングしたはずの瞳に、鋭い殺意が宿っていた。

 

「……レギウスは我々の仲間を、生存率という数値で買い叩かざるを得ない状況を作った。……トビアス伍長を、使い捨ての部品として消費させた。それは、この俺の「合理」に対する、許し難い侮辱だ」

 

 静寂が、部屋を支配した。

 

 俺は立ち上がり、絶望を統べる指揮官のように、冷たく、重く告げた。

 

「我々はこれまで、守るための戦いをしてきた。だが、それでは足りない。そろそろ、我々の本当の地獄を見せてやる必要がある」

 

 俺は、震える右手を隠すように拳を握りしめ、言葉を紡ぐ。

 

「絶望で、戦場を清掃するぞ。ついて来い。俺の歩調に合わせるのが、お前達の生存の唯一の回答だ」

 

 恐怖を通り越した崇拝が、部下達の瞳に熱を灯す。

 彼らにとって、俺はもはや人間ではなく、勝利を約束する無慈悲な神へと昇華されていた。

 

 部屋を包むのは、異様な熱気を帯びた"士気"という名の狂信だった。

 

「ナオヤ……本当は気にしてたんだね」

「……。無駄口を叩くな、行くぞ」


  

 ――数時間後。

 

「十一、九。……八。……いや、もういい」

 

 殺戮のカウントダウンを自ら放棄し、俺は右手を無造作に突き出した。

 

「雷魔法・雷穿(ボルトピアス)!」

 

 放たれた青白い閃光は、本来の最適解である急所への一刺しを遥かに凌駕する、暴力的なまでの太さで雪原を横断した。

 

 回避行動に入っていたレギウス兵達が、悲鳴を上げる間もなく、その存在ごと蒸発する。

 

 過剰な出力。無駄な魔力消費。

 脳内の「合理の天秤」が、その非効率さに警告音を鳴らしているが、今の俺にはそれが、壊れた目覚まし時計の音のようにしか聞こえなかった。

 

「クソッ……笑うな!トビアス!」

 瓦礫の下で満足げに笑ったあの少年の顔が重なる。

 

 お役に立てて嬉しいだと?ふざけるな。

 お前があんな不純物を俺にぶつけたせいで、俺の演算に、あの日からずっと、バグが混じり続けているんだ。

  

「……っ、副隊長!? 出力が強すぎます! これでは周囲の木々まで……!」

 背後で部下が驚愕の声を上げるが、俺は振り返らない。

 

 分かってる。分かってるんだ。感情的になってはいけないことぐらい。

 

 でも、あの笑顔が、あの言葉が、俺を汚染しているんだ。

 今だけは怒りに身を任せなければ、俺の身体を蝕んでいるモノを消すことはできない。そんな気がしてならないんだ。

  

「……次だ。早く、この汚れを片付けさせろ」 

 俺はより多くの魔力を、より残酷な精度で編み上げ、戦場という名の不潔な部屋を掃除し続ける。

 

 掃除の最中、倒した敵の懐から、泥にまみれた何かが転がり落ちた。

 

 それは、小さな、本当に安っぽい木彫りの人形だった。子供が拙い手つきで削ったのであろう、歪な形。 

 俺は、それを迷わず軍靴で激しく踏み荒らした。

 

 グシャリ、と嫌な音が響き、誰かの家族の記憶が泥に沈む。

 

「……汚い。どいつもこいつも、そんな不純物を戦場に持ち込みやがって」

 指先にこびりついた、不快な匂い。

 自分の手が、心が、より深い泥沼に沈んでいくのを感じる。

 

 

 ――戦闘はいつも通り蹂躙で終わった。

 

 報告もそこそこに、薄い布一枚で隔てられた、天幕へ転がり込む。俺は迷わず衛生嚢から「それ」を取り出す。

 

 無機質なガラス瓶。鼻を突くほど鋭い、強烈な薬品の臭い。蓋を弾き、俺は赤く腫れ上がった右手に、躊躇なくその透明な液体をぶちまけた。

  

「……ッ、クッ!」

 シュウウッと耳障りな音を立てて、剥き出しの皮膚が白く焼ける。火を押し当てられたような灼熱。  


 だが、その痛みが、脳裏にこびりついた敵の断末魔も、トビアスの指先の余熱も、全てを等しく無に帰してくれる。 

 この痛みだけが、戦場で俺を唯一、人間にしてくれる。

 

 俺は、激しく脈打つ右手を、ポケットの奥から取り出した布で包み込んだ。

 少し古びた、けれど丁寧に洗われた白い布。

 どこかの戦場で、ノエルが「汚れてくれたから」と俺に押し付けたハンカチだ。

 

 本来なら、こんな戦場の記憶が染み付いた布など、真っ先に処分すべき不純物のはずだ。演算を狂わせ、過去を呼び戻す、非合理な遺物。

 ……だというのに。

 

 消毒液に焼かれた右手の激痛を、その柔らかな布の感触が、狂おしいほど優しく受け止めてしまう。 

「……クソ。……捨てればいいのに。」

 

 言葉とは裏腹に、俺はボロボロになった手を、そのハンカチで壊れ物を扱うように、そっと拭った。

  

 アリシアの清潔な匂いは焼き払えるのに、ノエルの泥のような優しさだけは、どうしても消し去ることができない。

 

 この白さが、俺を人間に引き留めているのか。

 それとも、俺をより深い地獄へと繋ぎ止める鎖なのか。

 

 俺は、白く染まったハンカチを再びポケットへと深く沈め、ひび割れた唇で小さく、自嘲するように笑った。

 

 ――待ってろ、隊長。

 俺の「合理」が、お前のその力を飲み込み、完成されるまで、あと少しだ。

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