合理的な死神になる
軍靴が泥を噛む音だけが、耳障りに響く。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った平原で、俺は自分の掌を見つめる。風魔法で「処理」し、返り血の一滴すら浴びなかった。なのに、皮膚の裏側が、焼けつくように熱い。
「報告! 亜人の残存兵力、五十二名を拘束! 武器を放棄し、投降を求めています!」
背後から投げかけられた声に、俺の思考が強制的に切り替わる。
視界の端、泥の中に膝をつき、震えながらこちらを見上げる亜人達の群れ。彼らの瞳に宿る、生への執着。それが、俺には得体の知れない「不純物」に見えた。
五十二。それが、俺の網膜に投影された唯一の有意な数値だ。
先刻の乱戦で指先に残った微かな痺れを、俺は無機質な計算の海へと沈めていく。
捕虜一人あたりの維持コスト。行軍速度への負荷。現在地から拠点までの距離と、予想される敵軍の到達時間。
脳内の中心で、鈍い光を放つ「合理の天秤」は右に固定されたままだった。
左皿には「五十二の命」。右皿には「帝国軍の生存率」。
……非効率だ。一割。彼らを連れ歩くことで、我々の生存確率は確実に一割削られる。
俺は、軍靴の先に付着したわずかな汚れを、鋭い眼差しで見つめた。
それは本来、そこにあるべきではない不純物だ。
魔法を唱え汚れを焼ききる。綺麗だ。
この世界を、最適解だけで埋め尽くしたい。そう願う衝動が、俺の心臓を機械的なリズムで刻み始める。
「大尉。……あの集団を連れて行くのは、資源の浪費です」
焚き火の傍で地図を睨んでいたガルト大尉が、ゆっくりと顔を上げた。
彼の眼窩の奥には、俺という存在を「便利な道具」として見定めようとする、ねっとりとした欲望が張り付いている。
「……アオシマ二等兵か。連中を労働力にするのは軍の通例だ。この状況でわざわざ手を下す手間をかける必要もあるまい」
「手間ではありません。……最適化です」
俺の声は、自分でも驚くほど起伏を失っていた。
周囲で薪を運んでいたルークの手が止まる。だが、俺の意識はすでに、空中に描くべき魔導式へと飛んでいた。
「あれらを維持するために、我々の兵士が明日食べるはずの糧食を削る。それは戦術的な敗北に等しい。……今、ここで掃討すべきです」
「……掃討、だと?」
「はい。これ以上のリソース割きを拒絶します。"合理的"にいきましょう」
俺は、以前の自分なら抱いたであろう嫌悪感を、奥底へと押し殺した。
今の俺は、ただの鋭利なメスだ。この軍という集合体から、死に至る病を切り落とすための。
「……お前に迷いはないのか。彼らも、命だぞ」
ガルト大尉の試すような問いに対し、俺はただ、淡々と魔力を練り始めた。
「戦場において、命は重さではなく、ただの変数です。……俺が引き受けると言ったからには、この決断も含まれています」
指先を振り、魔法を編み上げようとしたその時だった。
ガルト大尉の厚い掌が、俺の肩を無造作に掴んで制した。
「……分かった。お前の提示した"合理"を信じてみよう。アオシマ二等兵」
大尉は俺の指先から霧散していく魔力を一瞥し、酷薄な、だがどこか満足げな笑みを浮かべた。
「お前はもう下がって休んでいろ。……お前の仕事は"結果"を出すことだ。その後の雑用まで新兵にやらせるほど、我が軍は人手不足ではない」
「ですが、俺が提案したことです。俺がやるべきでは……」
「いいや、これは命令だ。行け」
有無を言わさぬ口調。
ガルト大尉は背後の部下達に顎で合図を送る。
抜剣の音。亜人兵達の絶叫が、一段と高く、そして絶望的に響き始めた。
「……了解、しました。失礼します」
俺は一礼し、背後で始まった「作業」の音を遮断するように歩き出す。
自分で魔法を放てば、一瞬で終わらせられたはずだ。だが、大尉はそれを許さなかった。
背中を突くのは、肉を断つ鈍い音と、さっきまで「数字」として処理していたはずの者達の、生々しい断末魔。
俺の言葉が。俺の導き出した「合理」が、今、あそこで命を磨り潰している。
……これで、いいんだ。俺は、間違っていない。
俺の脳内にある天秤は、微動だにせず右に振り切れたままだ。
だが、洗っても洗っても落ちない汚れが、今度は言葉の形をして、喉の奥にへばりついているような気がした。
「……ナオヤ」
不意に名前を呼ばれ、俺の思考が停止する。
顔を上げると、そこにはノエルが立っていた。
彼女の瞳には、先ほど俺が言い放った冷酷な進言への拒絶ではなく、壊れ物を労わるような、痛々しいほどの慈しみが宿っていた。
「……ノエル。次の移動の準備は?」
俺は極力、抑揚のない声で問いかける。
だが、ノエルは何も言わず、俺の右手をそっと両手で包み込んだ。
先ほど魔法を練り、一瞬で霧散させたはずの俺の手。それは、戦場の中で、氷のように冷え切っていた。
「……頑張ったね、ナオヤ。……これ、使って」
差し出されたのは、彼女が大切に持っていたであろう、少し古びた、けれど丁寧に洗われた白いハンカチだった。
「……何、を」
「手が、震えてるよ。……拭きなよ。ナオヤは、私達のために汚れてくれたんだから」
俺は、自分の手を見つめる。
震え?……そんなはずはない。俺の「合理の天秤」は、今も垂直に固定されている。
それに、俺の手には汚れなんて一つもない。魔法の障壁で、返り血の一滴、泥の一粒さえも弾き飛ばしたはずだ。
だというのに。
ノエルから渡された布の感触が、狂おしいほどに温かかった。
その温かさが、俺が必死に築き上げた「兵器」としての城壁を、内側から溶かしていくような錯覚を覚える。
……違う。俺は、そんなに立派な奴じゃない。ただ、自分が傷つきたくなくて、命を記号に置き換えただけなんだ。……それを、そんな目で見るな
叫び出したくなる衝動を飲み込み、俺は震える指でハンカチを握りしめる。
彼女の「優しさ」という名の呪いが、俺の心に深く、杭のように打ち込まれた。
「……ありがとう。助かるよ、ノエル」
口から出たのは、またしても鏡の前で練習したような、完璧な偽りの言葉だった。
この日を境に、俺の中の「境界線」は完全に消失した。
仲間達が笑ってくれるなら、俺はこのまま「汚れた死神」でいよう。
例え、その代償に、かつての自分が愛した「ナオヤ」という人間が、完全に磨り潰されることになっても――。
ノエルから手渡された、真っ白なハンカチ。
返り血の一滴すら浴びていないはずの俺の掌を、ノエルは「汚れた」と言った。
そして、俺が彼らのためにその汚れを引き受けたのだと、聖母のような慈しみで肯定してしまった。
……ああ。逃げ場は、もう無いんだな
彼女の温もりが、俺の中に残っていた「元の世界へ帰りたかった高校生」の最期の一片を、無慈悲に焼き切っていく。
もしノエルが俺を蔑み、人殺しだと罵ってくれたなら、俺はまだ人間でいられたのかもしれない。
だが、この戦場において、俺の狂気は「献身」と呼ばれ、俺の冷酷は「救い」と定義された。
俺は、震える指先でハンカチを握りしめ、自分に言い聞かせるように、深く、重い呪いを飲み込んだ。
分かったよ、ノエル。……君達が笑っていられるなら。この手が、どれほどおぞましい色に染まっても、俺は「効率的」に殺し続けよう
脳内の中心で、鈍い光を放つ「合理の天秤」が、もはや揺らぐことのない不動の処刑台として、俺の心臓の真上に固定される。
悲しみ、迷い、帰りたかった日本。それら全てを「非効率な不純物」として脳の奥底へパッキングし、俺は自らの人間性に鍵をかけた。
だが、この時の俺はまだ知らない。
――三年後。俺が軍人としての自分を捨て、一人の男として「正しくあろうとした」あの日。
戦場に捨ててきたはずの、端役としての「誠実さ」が、巡り巡って、俺の魂の唯一の光を永遠に奪い去ることになるとは。
俺の愛した全てを粉砕し尽くす秒読みは、三年前のこの日から、静かに始まっていたんだ。
次回から毎週土曜更新に戻ります




