効率的な蹂躙
――静寂は、長くは続かなかった。
石鹸の匂いと、ひりつく指先の痛み。それだけが、俺が「人間」であることを繋ぎ止める細い糸だった。だが、その糸を断ち切るように、駐屯地の空気を震わせる怒号が響き渡った。
「緊急招集だ! 総員、直ちに武装せよ! 亜人の本隊が補給路を強襲した!」
駐屯地に響き渡る、鼓膜を突き破らんばかりの怒号。
慌ただしい足音と、金属が擦れ合う音。
先ほど「地獄」から戻ったばかりの俺達の身体には、まだ戦場の泥すらこびりついているというのに。
「来たな……アオシマ二等兵! 準備はいいか?」
作戦室の前で、既に重装を整えたガルト大尉が、険しい表情でこちらを睨んでいた。その視線が、俺の赤く腫れた指先を一瞬だけ捉え、すぐに逸らされる。
――休ませてくれ。
そんな言葉が喉元まで出かかったが、俺はそれを強引に押し戻した。
ここで立ち止まれば、あの亜人の死に際の瞳が、リリィの名前が、俺の脳を食い破りに来る。
脳内で、カチリ、と音がした。
先ほど固定したはずの「合理の天秤」が、さらに深く、冷たく沈み込む。
ならば、上書きするしかない。
止まるな。情を排した純粋な作業で、あの生温かい熱を塗り潰せ。
「……問題ありません。行けます。」
吐き出した言葉は、自分でも驚くほど硬く、冷え切っていた。
隣に並ぶノエルが、微かに息を呑む気配がした。だが、今の俺には彼女の表情を窺う余裕さえなかった。
戦場は、遮蔽物のない平原。
視界の先、土煙を上げて殺到するのは、五百を超える亜人の突撃部隊。その後方には数千の本隊が控えている。
「接敵まで百! 弓兵、構えろ! 魔導士、詠唱開始!」
ガルト大尉の号令が飛ぶ。
周囲の兵達が必死に魔力を練り、弓を引き絞る。
だが、俺だけは、その全ての工程を「非効率」だと断じた。
俺の右手は、腰の軍刀に触れることさえ拒絶している。あんな生温かい“熱”に、今は触れたくない。
だから、俺はこれまでの比にならない、幾重もの魔法陣を空中に展開する。
「……風魔法・空裂」
誰よりも早く。誰よりも冷徹に。
俺は一歩も動かず、射程外のはずの敵軍へ向けて、指先を指揮者のように振った。
何枚も重なった陣から放たれる風の上位魔法。
それは空気を圧縮した不可視の斬撃だった。
放たれた不可視の斬撃が、空気を、音を、そして迫りくる亜人達の絶叫さえも一瞬で置き去りにした。
――一閃。
百メートル先、突撃の先頭にいた五十人近い亜人兵達が、何が起きたのかを理解する暇もなく、文字通り「切断」される。
鉄の盾も、厚手の革鎧も、鍛え抜かれた肉体も。圧縮された風の刃の前では、水に濡れた紙束と同義だった。
たった一撃で、突撃部隊の一割が消滅した。
地面には、切断面から溢れた鮮血が赤黒い線となってぶちまけられる。
静寂が、戦場を支配した。
弓を引き絞ろうとしていた味方の歩兵達が、放つべき標的を失って呆然と立ち尽くしている。
「……なっ、なんだ、今の魔法は……!?」
「二等兵が上位魔法だと……!?」
「あれが日本人の力か……ッ!」
背後で、誰かが呻くような声を漏らす。
だが、俺の耳には届かない。
俺の脳内にある「合理の天秤」は、微動だにせず、垂直に固定されている。
感情という重りは、もう天秤の上には載っていない。
俺の右手は、依然として軍刀の柄に触れることを拒絶するように、白くなるほど固く握りしめられたままだ。
この距離から、ただの記号として、汚れを消し去ればいい。
「風魔法・空裂」
二度目の詠唱。
視界を埋め尽くすほど幾重にも重なった魔法陣から、無慈悲な真空の嵐が吹き荒れる。
逃げ惑う亜人の足元を、抉られた土塊ごと風が切り刻む。
ひしゃげた兜が転がり、千切れた槍の穂先が宙を舞う。
俺が行っているのは、もはや戦いではない。
罪悪感という猛毒から逃れるために、戦場を合理的な清掃の場へと変え、怪物へと成り果てていく――それは本質を否定しようと必死に魔法を乱射する、子供の癇癪そのものだった。
「……終了。……残存、なし」
最後の一体が沈んだのを確認し、俺は静かに指を下ろした。
軍靴の下の草は、まだ一歩も踏み荒らしていない。
返り血の一滴さえ、俺の聖域には届かなかった。
「……終了。……残存、なし」
最後の一体が沈んだのを確認し、俺は静かに指を下ろした。
軍靴の下の草は、まだ一歩も踏み荒らしていない。返り血の一滴さえ、俺の聖域には届かなかった。
「……完璧な、掃除だ。合理的、でしたよね? ガルト大尉」
大尉の瞳の奥には、凄惨な戦場の記憶から来る恐怖と、それ以上に、強力な「兵器」を見つけたという所有欲が混じっていた。
「ああ。合理的だ。期待以上のな、アオシマ二等兵」
その声には隠しきれない戦慄と、上等な獲物を前にした狩人のような愉悦が滲んでいる。彼は俺の存在そのものを値踏みするように、じろじろと眺め回した。
かつての俺なら、その視線に嫌悪を感じたかもしれない。だが今の俺には、それさえもどうでもよかった。
俺は魔法の余波で汚れた空気を嫌うように、無機質な動作で袖を払う。
平原を吹き抜ける乾いた風が、耳を貸すのも悍ましかった怒号も、肉が裂ける音も、すべてを虚空へと連れ去っていった。
「当然です、ガルト大尉。これが最も、効率的ですから」
俺は、唇の端を吊り上げ、鏡の前で練習した通りの「模範的な軍人」の笑みを貼り付けた。
声も、表情も、完璧に制御できているはずだ。
だが、軍服の下の指先だけは、あの亜人の「生温かい熱」を思い出して疼いて止まらない。
「洗ってきます。……次の掃討に、支障が出ますので」
今の俺に必要なのは、共感でも、慰めでもない。
俺はガルト大尉の返事も待たず、整然と横たわる死体の山に背を向けた。
遠くで、ノエルが立ち尽くしているのが気配でわかった。俺が先ほど放った「合理」という名の暴力に気圧され、声をかけることさえ忘れているようだった。
――ノエル。
心の中でその名を呼んだ瞬間、仮面がわずかに剥がれそうになる。
今の俺が彼女と視線を合わせれば、きっと、この冷徹な合理が崩れてしまう。
見られたのがノエルだけで良かった。もし、アイツ等全員に今の俺を見られたら、「ナオヤ」という存在が完全に消えていたかもしれない。
ノエルと視線を合わせることは、今の俺には「非効率」すぎた。
今はただ、この掌にこびりついた不浄を、冷たい水と石鹸で削ぎ落とすことだけに集中しなければならない。
軍靴の音だけが、無機質に平原に響く。
心の中の天秤は、もう揺れていなかった。
冷酷な「兵器」としての俺と、ただの「ナオヤ」としての俺。
その危うい境界線の上に立ちながら、俺は一歩ずつ、血の匂いのしない場所へと歩みを進めた。




