表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/25

灰の空の境界線


 夜の帳が上がりきっていない空の下、世界はまだ微睡みの中にある。

 俺は、袖を通し慣れてきた軍服を整え、家を出る。

 ……軍刀も携えて。

 向かう先は、二日前にあの言葉を投げかけられた演習場。

 

「貴様らは“選抜”だ」

 

 ガルト大尉の低く、重い声が耳の奥に張り付いて離れない。

 魔導部隊十万の兵力のうち、わずか六名。

 魔導の才という、呪いにも似た希少な"矛"を背負わされた俺達。

 今日が始まりの日だ。

 軍靴が、まだ眠りから覚めないアスファルトを硬く叩く。

 街灯のオレンジ色が、白み始めた空の青に溶けて消えていく。

 その曖昧な境界を、俺は独り歩き続けた。


 演習場に到着すると、灰色の視界の先に、すでに数人の人影があった。

 二百万分の一握り――そう定義された、俺と同じ「選抜」の連中だ。

 

「……レイン、早いな。気合が入ってるじゃないか」

 

 一番近くで手持ち無沙汰そうに地面の石を蹴っていたカルバン・レインに、俺は声をかける。

 彼女はくるりとこちらを振り返ると、緩く結った髪を揺らし、悪戯っぽく口角を上げた。

 

「おはよーナオヤー。気合なんてそんな、肩が凝るようなもんじゃないって。私はただ、大尉の"愛の鞭"が怖くて、枕元に軍靴置いて寝てただけだよ」

  

 彼女はケラケラと笑いながら、俺の軍服の襟元をひょいと直す。

 

「そんなに顔を強張らせて。せっかくの七星候補様なんだから、もう少し余裕を見せなきゃ。女の子にモテないよ?」

「はあ…相変わらずだな。酒が抜けてないんじゃないのか?」

 

 そんなふざけた物言いをしながらも、レインの腰に差された魔道具の小銃は、いつでも火を噴けるよう完璧に整備されている。

 周囲を見渡せば、イナミスやノエルたちも、それぞれのやり方でこの「境界線」の向こう側へ行く準備を整えていた。


 カツ…カツ…と軍靴が石畳を叩く音が響く。

 その足音の主が、霧の中から姿を現した。

 ガルト・フォン・ベルシュタイン大尉だ。

 その柔和そうに見える外見の奥にある瞳だけは、獲物を狙う猛禽類のような鋭さを失っていない。

 

「……おはよう、諸君。相変わらず早いな」

 

 ガルト大尉はそう言って、短くなった煙草を足元で踏み消した。

 その何気ない動作一つで、演習場の空気が一気に「軍」の色に染まる。

 

「さて。二日前に伝えた通り、貴様らをこれより第三国境守備隊へ正式に組み込む。だが、その前に一つだけ言っておく」

 

 大尉は少しだけ突き出た腹をさすり、不敵に笑った。

 

「俺は、無能な部下を死なせるのが一番嫌いでな。死にたくなければ、精々俺の顔に泥を塗らんよう励め」


 出立は静かだった。


 号令一つで、俺たちは輸送馬車へと乗り込む。街の輪郭が遠ざかるにつれ、石畳は土へ、土はやがて灰色の岩肌へと変わっていった。


 第三国境守備隊駐屯地。

 そこは"最前線"と呼ぶには、あまりに静かだった。

 俺が来たときとはまるで違う。

 だが、焦げた匂いが、風に混じっている。

 遠くに連なる荒野。抉れた地面。黒く変色した岩肌。

 空は高いのに、どこか低く感じる。


「戦場はな、九割が退屈だ」


 案内役の古参兵がぼそりと言った。


「残りの一割で全部持っていかれる」

「アオシマ二等兵がこの世界に来たときのあの紛争……あれが一割だ。」


 ……あれが一割か。

 胃がキリキリと痛くなるのを感じる。

 

 その時、斥候。

 西側、三時方向。

 岩陰から、三つの影が滑り出る。

 亜人。

 細身、革鎧、短弓。

 

「接敵だ!」


 イナミスの声が飛ぶ。

 魔法陣が展開され、レインの小銃が火を噴く。乾いた音が空気を裂き、土煙が上がる。

 

 戦闘は、あっけなかった。

 圧倒的な火力差。

 二人が崩れ落ち、残る一人が転倒する。

 若い。

 俺と同じくらいだ。

 脚を撃ち抜かれ、立てない。

 尻尾も折れ曲がっている。

 ルークが拘束形の土魔法を展開し、動きを封じる。


「……終わりだな」


 古参兵が近づく。

 亜人は荒い呼吸で俺たちを睨んだ。

 

「……殺せ」


 掠れた声。

 敵意というより、覚悟に近い。

 俺は一歩前に出る。

 

「なぜ国境を越えた」


 問いは、自分でも驚くほど平坦だった。

 多分、心のどこかでこの亜人を殺さなくて良い理由を探そうとしてたんだと思う。

 亜人は笑う。血の混じった息が白く揺れた。


「越えた……? 先に森を焼いたのは、お前たちだ」


 静まり返る。

 

「俺は……時間を稼ぎに来ただけだ。家族を、奥へ逃がすために」


 家族。

 その言葉が、重く落ちる。

 ……俺と同じくらいの年なのに…?


「侵略ではないと?」


 イナミスが冷静に問う。

 亜人が手を震わせながら口を開く。


「侵略? 笑わせるな。境界線を引いたのは人間だ」

 

 亜人の瞳が、俺を刺すように見つめる。

 じっと。


「……お前、臭いが違う……。」


 心臓が跳ねた。


「エリュシオンの人間でも、森の者でもない。懐かしい匂い。」

 

 唇が歪む。


「噂は本当だったか。異界から来た者がいると」


 誰も口を挟まない。


「日本人、だったな」


 喉が、乾く。


「……我々の味方ではなかったのか。十二年前の戦争で異界の者は勇者として我が軍を導き、帝国を退いたはずだ…」


 その問いは責める響きではなかった。

 ただ、理解できないという顔だった。

 なぜ、こちらに立っているのか。

 なぜ、刃を向けるのか。

 俺は軍刀の柄に触れる。

 冷たい。

 重い。

 守ると決めた。

 守る側に立つと。

 

 だが――

 目の前の存在も、誰かを守るためにここにいる。

 鞘から刃を抜く。

 刃が灰色の空を映す。

 初めて、戦場で抜いた。

 手は震えていない。

 けれど、振れない。

 心の中で一瞬、自分に語り書ける。

 これが、本当に俺の選択か――? 

 亜人は笑う。


「……お前は、まだ選べる顔をしている。」

「お前が本当に信じるべきがものが何かを……な。」


 その一言が、胸に刺さる。

 選べる。

 何を?

 誰を?

 背後で、足音がした。

 

「……ナオヤ」


 ノエルの声。

 いつもより低い。

 俺は振り向かない。

 振り向いたら、振れてしまいそうだった。

 

「……任務よ」


 小さな震えが混じっている。

 俺だけじゃない。

 ノエルもまた、迷っている。

 彼女は一歩前へ出た。

 亜人と視線が交わる。

 ほんの一瞬、彼女の弓を持つ指が強く握られる。

 葛藤。

 分かる。

 分かってしまう。

 それでも。

 ノエルは深く息を吸った。


「ごめんなさい」


 誰に向けたのか分からない言葉。

 矢が飛ぶ。

 音は小さい。

 温かいものが地面に広がる。

 亜人の瞳が、ゆっくりと空を映す。


「……日本人は……」


 言葉は、途中で途切れた。

 まただ。また人がモノになる瞬間を見た。

 辺りは静寂。

 風が吹く。

 レインとセリナが目を伏せる。

 イナミスは黙って状況を確認する。

 ルークが魔方陣を解除する。

 古参兵は、ただ頷いた。


「これが最前線だ」


 淡々とした声。

 ノエルは動かない。

 弓を下げたまま、しばらく立ち尽くしていた。

 やがて、ゆっくりと振り向く。

 その瞳に、いつもの柔らかな笑みはない。

 唇をかみしめる。涙は出ない。

 だが、胸の奥で何かが静かに緊張していた。


「……行こう」


 それだけ言った。

 覚悟を決めた顔だった。

 俺の軍刀は、血に濡れていない。

 抜いたのに、使っていない。

 それでも、重い。

 さっきよりも、ずっと。

 

 境界線は、地図の上に引かれているのではない。

 俺たちの中に引かれる。

 守ると決めた瞬間から、何かを切り捨て続ける線。

 灰色の空の下。

 俺は初めて、その線の存在をはっきりと認めた。

 そして――

 まだ、その向こう側に踏み出せずにいることも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ