2話
「ばあば。アンナはお金もらえたの?」
幼子が尋ねると、老女はにっこりと微笑んだ。
「ええ。故郷に帰りたいって言ったら、同情したお姫様ががんばってくれてね。三年分のお給金と、百年分の手当てをくれたのよ」
「ミルヒのパイ、いくつ買える?」
「どうかしら。食べきれないくらいよ」
「すごいねー」
幼子は目を輝かせた。老女は幼子の額にかかる髪をそっと流し、話を続けた。
「そしてアンナは、長い時間を過ごすことになったお城を出たの」
鞄の中には、とんでもない大金が入っていた。持ち歩いているだけで恐ろしい。正規のお金であることを証明できるよう、給与明細もしっかりともらってある。お城を出たその足で、銀行に向かうことにした。
ところが、窓口で告げられたのは思いもよらない話だった。
「百年も口座に動きがなかったので、資金は国に没収されていますよ」
アンナはその場にくず折れそうになった。
大した金額ではなかったとはいえ、まさか口座そのものが抹消されているとは。そうと分かっていれば、その分もいただいてきたのに。さすがに今さら、追加でくださいと言いに行く度胸はなかった。
とりあえず、節約すれば一生働かなくても済むくらいの額はもらえたのだ。それでよしとしよう。そう自分に言い聞かせる。
いくらかは手持ちにしておき、残りは新たに口座を作って預けることにした。給与明細のおかげで大金を不審がられることもなく、それどころか、事情を知った銀行員には同情された。
身軽になったところで、テラスに立ち寄って食事をとる。
街には、たくさんの人が生活していた。杖をついた老人も、元気に走り回る子供も、はにかむ若い男女もいる。露店の店主は、客を呼び止めようと声を張り上げていた。
――エミールはどうしているだろう。
将来を約束したときの、少し気恥ずかしそうな笑みを思い出す。
エミールが兵役から帰ったら、村の中に家を建てて一緒に暮らそう。二人でそう話していた。ただ待っているだけなのがもどかしくて、お城が使用人を募集していると聞き、思い立って村を出てきていた。
アンナは実家のある村に帰ろうと駅に向かいかけ、足を止めた。
故郷からこの地に来るとき、汽車を乗り継いで五日かかった。おそらく、今後ここに来ることはほぼないだろう。
であれば、やっておきたいことがあった。
聞き込みをして、記憶を頼りに街を出た。
歩いて、歩いて、歩いて。森の奥へ、奥へと進んでいく。
森とはいっても、木々の間から日が差し込んでいて、思ったよりも明るい。けれど、夜になれば闇に包まれるだろう。目的地には、できるだけ早くたどり着きたいところだった。
途中で買っておいた革袋を取り出し、水を含んで喉を潤す。
もっと歩きやすい格好で来ればよかった。
身につけているのは、飾り気のないシンプルなワンピースに革の靴。お城で教えられた上品な振る舞いとは程遠い大股で、かろうじて道らしき道を進んでいく。張り出した木の根をまたぎ、水たまりを飛び越え、ひたすら奥へ。
ここで見つからなければ、一度街に戻って明日出直した方がいいかもしれない。
そう考え始めたところで、視界の端に白いものが映った。
「……あった」
森の中にあるとは思えない、頑丈そうな白壁の建物だった。
こじんまりとしているが、窓には色ガラスが嵌められ、周囲の木々とは不釣り合いなほど優美な雰囲気を醸し出している。
アンナは玄関へ向かい、扉に取り付けられたノッカーを鳴らした。
「たのもーう!」
声を張り上げる。返事はない。
コンコンコンコン。
しばらく鳴らし続けていると、ようやく室内で人が動く気配がした。
やがて錠の外れる音がして、扉が開く。
「あの、何かご用ですか?」
現れたのは、質素な装いの、やや猫背の青年だった。アンナより少し年上だろうか。茶色の目が、突然の来客に戸惑ったように揺れている。
「ここは魔法使いさんのお宅ですよね。あなたがそうですか?」
アンナが尋ねると、青年は目を丸くした。
「まさか。ここに昔住んでいたとは聞いていますが」
「今、その方は?」
「もう亡くなってますよ」
アンナは眉をひそめた。
魔法使いなら、もしかして、と思っていたのだが、どうやら普通の人と寿命は変わらなかったらしい。それならそれで仕方がない。
気を取り直し、アンナは青年に向き直った。
「では、あなたは?」
「遠い親戚になるかと。誰も使っていないので、家の管理も含めて僕が住んでいます」
「そうですか……。では、あなたは魔法使いの縁者の方、ということですね」
「……一応、そうなるかと」
「なるほど」
口ごもる青年を前に、アンナは一人うなずき、顔を上げた。
「では、ご先祖様に代わって、わたしからの苦情を聞いていただきますね」
「え?」
青年が聞き返すより早く、アンナは扉が閉まらないように足を挟み込み、にっこりと微笑んだ。
「あなたに拒否権はありません。とりあえず、お茶をください」
「…………は?」
青年はロイと名乗った。
冷たいお茶を飲み干し、アンナはようやく一息ついた。
「見ず知らずの者を家に入れるとは、不用心ですよ」
「あなたがそれを言うんですか……」
たしかに、見ず知らずの男性の家に上がり込むのも、いかがなものかとは思う。とはいえ、こちらは十六歳プラス百歳。そう考えると、項垂れる青年も可愛く見えてくるから不思議である。
「いや、お城の話は僕も聞いてますけど、ここに住んでいたのは十番目か十一番目の魔法使いですよ」
「お仲間であるなら一蓮托生です」
ここが唯一、場所のはっきりしているところだったから来ただけだが。ほかの魔法使いの住処は、東の洞窟の中だとか、北西の竜の山の麓だとか、ちょっとよく分からない場所ばかりなのだ。
「そもそも、声を掛けて一緒に行けばよかったんです」
パーティで使う魔法使い用のお皿が一枚足りなかったから十二人の招待になったとかいう話も聞いた。けれど、足りないのなら、ほかの揃っているお皿にすればよかっただけのこと。ちょっと譲り合えば済んだ話ではないか。
「おかげでいい迷惑です」
「はあ、すみません」
ロイが悪いわけではない。それはアンナにも分かっていた。ただもう、たまりにたまっているのだ。そもそも誕生パーティも婚礼も、何の関係もないことなのに。
アンナはお茶のお代わりを所望した。
その後もさんざん愚痴りたおし、ふと窓の外を見ると、あたりは薄暗くなり始めていた。
「あの、せっかくここまで来てくださったんですし、夕飯くらいはいかがですか?」
同じく外を確認したロイが言う。
アンナは目を瞬かせ、吹き出すのを堪えた。人が良すぎる。追い出されてもおかしくないことをしている自覚があるのに。
「ありがとうございます。せっかくだからいただきます……それとついでに」
大変申し訳ないと一応は思っているが、森の夜道を帰るのは怖すぎる。
「玄関でいいので泊めてください」
アンナはさらりと付け加えた。
その後、「廊下でいい」「ベッドを貸します」「殿方のベッドなどとんでもない」といったやり取りがあり、結局、ロイがベッドに、アンナはカウチで寝ることになった。
明かりを消すと、月の淡い光だけが周囲をかすかに浮かび上がらせる。
疲れているはずなのに、目が冴えて眠れない。アンナは狭いカウチの上で寝返りを打った。
音に気付いたのか、すでに眠っていると思っていたロイが、ぽつりと口を開いた。
「あの、お城のほかの方も、アンナさんと同じように思ってらっしゃるんでしょうか」
「……どうでしょうね。わたしは我慢できなかったから出てきましたけど、それに巻き込むつもりはなかったので、何も話してないです」
「そうですか……」
呪いが解けたことを喜んでいる人たちに、水を差すつもりはない。
しばらく沈黙が続いたあと、また小さな声が聞こえてきた。
「……僕の先祖の魔法使いは、僕と同じで要領が悪くて、引っ込み思案だったそうです。だから祝福もほかの魔法使いにどんどん先を越されて、考えていたものを全部取られちゃって」
ロイは一度息を吐く。
「それで、最後に締めるのは避けたいと思って、咄嗟に考えたのが、料理が上手くなる、だったんです。自分が苦手で日ごろ苦労していたのと、お城での料理がおいしかったせいで、つい出ちゃったらしいです。ただ、そのあと失笑を買って」
「まあ、お城には料理人がいますからね……」
いつか必要になる日が来るかもしれないが、姫君の生活においては、不要な才能だろう。
「ええ。そしてそのあとに、十三番目の魔法使いが現れたので、余計に落ち込んでしまって」
あの祝福にしなければよかった。そんなふうに悔やんだのだろうか。
もしくは誰かにそう非難されたのかもしれない。何も悪いことなどしていないのに。
押し掛けてきたアンナが言えた立場ではないけれど。
「……ロイさんがお料理上手なのは、ご先祖様の反面教師ですか」
「はい。子供のころから、しっかりと仕込まれました」
アンナは目を閉じる。
「では、わたしは感謝するべきですね。おかげでおいしい食事をいただけましたから」
静かな夜が心地よかった。
お城の中では感じることのできなかった、柔らかな空気がそこにはあった。
「明日には、ここを出発します」
焼き立てのパンに、とれたての卵で作ったベーコンエッグ。新鮮なサラダまで添えられた朝食を、アンナは木々のざわめきと小鳥のさえずりを聞きながらいただいた。なんて贅沢な朝のひととき。
「ごちそうさまでした」
「いえ。普段一人なので、久しぶりに作り甲斐がありました」
ロイは少し照れたように笑った。
昨日、ため込んでいたものを思い切り吐き出したおかげか、アンナの気分は幾分すっきりしていた。今朝の食事も、いっそうおいしく感じられた。
身支度を整え、玄関に立つ。
「一日お世話になりました」
礼を言い、宿代を渡そうとすると、ロイは慌てて首を横に振った。
「いえ、受け取れません」
「受け取ってください」
「そういうわけにはいきません。僕の先祖が迷惑をかけたんですから」
「わたしがあなたにかけた迷惑料だと思って」
ぐいぐいと押し付けると、根負けしたのか、ロイはお金を受け取った。
普通に街で一晩宿を取ったくらいの金額だ。ベッドはなかったものの、おいしい食事が二食も付いていたのだから、むしろ安いくらいだろう。
「僕は、お城の中で眠っている人たちはどうしてるんだろうと思いながら育ちました。こちらこそ、お話ができて良かったです」
少し気まずい。かえって悩ませてしまったような気しかしない。
はにかむロイに改めて礼を言い、アンナはドアノブに手をかけた。
そこで、ふと思い出す。
「あ、そういえば、切符の買い方って変わってないですよね?」
これまでに確認した限り、地名や交通機関に大きな変化はないようだった。ただ、昨日遠目に見た駅舎は、以前とは比べものにならないほど立派になっていた。あまりの違いに、近付くのをためらってしまうくらいだ。
「僕も買い出しに出る予定があるんです。駅まで送りますよ」
「…………ありがとうございます」
ここは森の中。街までも遠い。
アンナは素直に甘えておくことにした。
街までは、行きよりもすんなりと着いた。どうやら、行きはずいぶん遠回りをしてしまっていたらしい。
ロイに案内されて駅までたどり着き、一緒に切符を買う。故郷の村に一番近い駅までの乗り継ぎも相談しながら、無事に必要な切符を揃えることができた。
「では、わたしはこれで」
アンナが礼を言って別れようとすると、ロイが「あの」と声を掛けてきた。
「これ、良かったら汽車の中でどうぞ。あり合わせで作ったものですが」
差し出された小さなバスケット。その布の下には、具だくさんのサンドイッチが見えていた。
アンナは満面の笑みで受け取った。
「ありがとうございます。最高のいただき物です」
そのとき、駅に警笛が鳴り響いた。駅員たちが誘導を始める。どうやら、汽車がホームに入ってくるらしい。
人々の波に流されるように、アンナは改札へと向かった。バスケットを胸元に抱え、切符を手にしたまま振り返る。
「お元気で……。おいしいご飯のおかげで、元気になりました。最高の贈り物だと思います」
ロイは目を見開き、それから顔を伏せるように一歩引いて、一礼した。
「あなたのこれからの人生が、幸せなものでありますように」
ホームからの風で、スカートの裾が揺れた。
お城での日々を思い出し、アンナはふっと笑みをこぼした。
「魔法使いさんの祝福ですか?」
「……僕は魔法使いではありませんよ」
顔を見合わせ、二人は笑った。
出発にふさわしい、晴れた日だった。




