3話.ただいま(完)
「アンナはロイさんのごはん、すっごく気に入ったんだね。わたしもパパのごはん好き」
「そうね。おいしいものね」
「アンナはもう、ロイさんのごはん食べられなくなったの?」
寂しそうにしょんぼりする幼子に、老女は思わず吹き出しそうになった。
「どうしても食べたくなったら、食べに行けばいいのよ。時間とお金がちょっとかかるけど」
「あ、そっか」
幼子は安心したように笑うと、ふわりとあくびをした。
順調に汽車を乗り継ぎ、村近くの駅からは荷馬車に乗せてもらった。
「腰が痛い……」
村まであと少しというところで荷馬車を降り、アンナは大きく伸びをした。長旅ですっかり固まった身体をほぐしながら、辺りを見渡す。
村の入り口へと続く道も、周囲の木々も、記憶にある姿からそれほど変わっていないように思えた。
ふと、道端に立つ案内板が目に留まる。村の方向を示すそれは、アンナの父が作ったものだった。長い年月、風雨にさらされたせいですっかり傷んでいたが、かすかに文字を読み取ることができる。
懐かしさに目を細め、アンナは鞄を抱え直した。
ようやく帰ってきた。
本来なら、雇用期間は三年。半年ほどしか働いていないのだから、感覚の上では早い帰郷だ。
村の中をゆっくりと歩く。
建物は塗り直されたり、増築されたりしているようだが、記憶の中の景色と少しずつ重なっていく。
それなのに、見知った顔がひとつもない。住人は皆顔見知り、というくらいの小さな村だ。すれ違う人々も、不審そうにちらちらとこちらをうかがっている。
「あんた、誰だい?」
家の前で手作業をしていた壮年の男が、声をかけてきた。
見覚えのない顔だった。この家には二つ年下の女の子と、その両親が住んでいたはずだ。
「あの、わたしはアンナ=ブラウンといいます。この村の出身です」
「ブラウン? ブラウンさん家に、あんたくらいの娘さんいたかな」
男は首を傾げた。アンナは、はっと顔を上げる。
「あ、あのっ。ブラウンさん家はあるんですよね。あの坂の上で合ってますか」
「ああ、そうだが」
「ありがとうございます。行ってみます」
アンナは、何か言いかけた男の声を背に、坂へと急いだ。
年の離れた弟がいた。どうしているだろう。
耳元でどくどくと響く鼓動を感じながら、アンナは坂道を駆け上がった。
ところどころ見覚えのない部分はある。それでも、十六年を過ごした家は、間違いなくそこにあった。
アンナは手の甲で目元を拭った。大きく深呼吸をしてから、玄関のドアへと近づく。
ノックしようと手を伸ばして、止めた。
しばらくためらった末、アンナは控えめにドアを叩いた。
「ごめんください」
返事はない。もう一度、少し間を置いてから呼びかけてみたが、やはり応えはなかった。
どうしようかと迷っていると、坂の下から人の上がってくる気配がした。
「あら、お客さま?」
振り返ると、小さな子供を連れた若い女性が立っていた。誰かに似ているようにも思うが、ピンとこない。
「ごめんなさいね。どちら様かしら」
「……すみません、こちらこそ。ここはブラウンさんのお宅でしょうか」
「ええ、そうよ」
女性の後ろに、子供が隠れるようにしてこちらをのぞいていた。
その仕草に、アンナはかつての弟の姿を思い出す。
「そのっ、わたし」
口を開いた、そのときだった。
「あー、いた。あんた!」
大声に遮られ、アンナは肩を揺らして振り返る。
先ほどの男が、数人を連れて坂を上ってくるところだった。
「なんか名前に聞き覚えがあるって思ったんだわ。――あんた、エミールじいさんのいい人だろう」
ひゅっと、息が詰まった。
管理人に挨拶を済ませ、アンナは村はずれの共同墓地へと足を踏み入れた。
「ただいま。遅くなっちゃった」
小さくつぶやき、教えられた区画を巡って花束を供えていく。
まだ昨日のことのように鮮明に思い出せるのに。墓標に刻まれた年月が、過ぎ去った時の長さを物語っていた。
行く先々で知った名前を見つけては、アンナは足を止めた。花を供え、周囲の草を抜き、小石を拾い上げる。
やがて、比較的新しい一画にたどり着いた。
アンナは、その名前を前に、しばらくその場にたたずんだ。
村の一定以上の年齢の人たちは、皆、彼を知っていた。
込み上げてくるものから目を逸らすように、そっと花を添えた。
「……ばかね。お城の噂は、ここまで届いてたんでしょ」
墓標に頬を寄せる。ずいぶん長いこと待っていてくれたようだ。
日が暮れ、管理人が呼びに来るまで、アンナはそっと身を寄せ続けた。
「そうして村に帰ったアンナは、もらった給金を担保に事業を起こして、そして……あら」
老女は話を止めた。
すやすやと眠りに落ちている幼子に、そっと毛布を掛け直す。
まろい頬に触れ、その愛らしい寝顔を見つめる。
――あなたの人生が、幸せでありますように。
窓の外には星々に囲まれて、淡い月が浮かんでいる。
老女はそっと身を起こし、夜空を見上げた。
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