其の三
診察を終えて、私はすぐに売店へ向かった。
旧棟へ続く渡り廊下のあるホールを避けるために大きく迂回することになったが、あの場所は通りたくなかった。
売店は地下一階にあった。派手な表紙の雑誌や、どこか懐かしい菓子パンのパッケージ。見慣れたガムや飴の包み紙が棚を彩り、そこには「外の世界の色」が満ちていた。
それらは、ここはただの病院で、外にはちゃんといつも通りの日常が続いていることを証明してくれているようで、少しだけ息がつけた。
棚の前で、私は文芸誌のような顔をしたゴシップ雑誌と、小さなスティックを一本、手に取った。
鏡に映った自分の、あの死人のような顔が忘れられなかった。せめて唇に、まともな血色が欲しかった。無骨な白い薬用リップの並びから、わずかに透け感のある、落ち着いたベリー色のリップクリームを選び出す。
レジに向かおうとして足を止めた。売店の中に、人の気配がない。
少し待ってみたが、売店に人が来る様子がない。黙って持っていくわけにもいかず、あきらめて病室へ戻った。
病室に戻るとカーテンは隙間なく閉じられていた。
向こう側に人の気配はない。けれど、カサカサという音は途切れることなく続いていた。
自分のベッドへ滑り込んで天井を見上げると、埋め込まれた蛍光灯が青白い光を放っていた。
外の世界の色を持ち帰ることはできなかった。
枕に頭を沈めた。
張り付いた冷たい汗が体温を奪っていくうちに、私はいつの間にか、泥のような眠りに落ちていた。
――ビーッ、ビーッ、ビーッ、ビーッ。
鼓膜を執拗に突き刺す、けたたましい金属音で跳ね起きた。
火災報知器だ。
目を開けたが、何も見えない。視界は闇に完全に塗り潰されていた。
夜になっている。
逃げなければという焦りのまま、暗闇の壁をめちゃくちゃに手探りし、間接照明のスイッチを押し込んだ。
狭いカーテンの内側に、ぼんやりと薄オレンジ色の光が灯る。
激しい警報音は、今も院内の廊下に響き渡っている。
それなのに――おかしい。
いつまで経っても、避難を促す院内アナウンスが入らない。火事なら誰かが叫んだり、廊下を走り回る足音が聞こえたりするはずなのに、カーテンの向こうも病室の外も、人間の気配が一切してこなかった。
警報だけが、誰もいない廊下で鳴り続けていた。
とにかく逃げよう。
私はスリッパに足を突っ込み、病室の扉を勢いよく開けて廊下に出た。
煙が出ている。
どこから出ているのかはわからない。まだ激しい煙ではないが警報は訓練でも誤作動でもなかったのだ。
袖を口元に押し当て、身を低くして非常口を探す。廊下のずっと奥、闇の底に、緑色の光がぽつんと浮かんでいた。避難誘導灯だ。
そこへ足を向けた、そのとき。
警報音の隙間を縫って、聞き覚えのある音が滑り込んできた。
あの音だ。
まさか、こんな状態でも箱を折っているなんて。
――普通じゃない。
私は振り向かず、足早に誘導灯に向かった。煙が激しくなり、視界が閉ざされそうになるが、壁を伝って歩き続ける。
一気に増えた煙に堪えられなくなり、床に突っ伏した私は、這いつくばりながらひたすら誘導灯を目指した。
だが、いつまでたってもどこにもたどり着かなかった。頼りにしていた壁からも離れてしまったのか、方々に手を伸ばしてみても、指先に触れるものが何もない。
白い煙が廊下の床を這うように筋を引いて流れ始めた。視界が急速に濁っていく。その白い濁りの隙間に、ぽつんと、小さな傘のシルエットが浮かんでいた。
『こっちよぉ~。こっちが安全よぉ~』
煙を吸わないよう、私は這いつくばった。床に腹を擦りつけ、這うようにして声のする方角へ進んだ。
『こっちよぉ~』
声は確実に近づいている。なのに、いくら目を凝らしても女の巨体は捉えられない。煙の奥の闇に、ただ声だけが溶けている。
『はやくぅ~。みんなまってるわよぉ~』
『ぶひゃ』
異質な破裂音が混ざる。けれどそんな違和感よりも「みんな」という言葉に、自分以外の患者たちも避難しているのだと安心した。
『もうすこしよぉ~。がんばってぇ~』
『ぼびゅ』
汚濁した湿気のような臭いが鼻をついた。
声は、すぐ耳元まで迫っている。床を這い、私は開け放たれた重い木製の扉をくぐり抜けた。
その瞬間、耳を突き刺さすような火災報知器の音が、まるで分厚い壁に遮られたかのように遠のいた。
煙がない。
代わりに満ちていたのは、じっとりとした湿気と、かび臭い埃の気配。蛍光灯の光はなく、避難誘導灯すら消え失せている。
ここは、どこ?
はっと我に返り、振り返る。
暗闇の奥に、さっき通り過ぎたはずの、あの「閉ざされていたはずの旧棟への木製ドア」が佇んでいた。
私は自ら、あの黒い一口の中へ入ってしまったのだ。
背後で、粘りつくような吐息が首筋に触れた。
『まってたのよ……ぶひゃっ ふぉおおん』
闇のなかに、あの女が立っていた。
巨体にはあまりに不釣り合いな、小ぶりな傘が、その頭上でゆっくりと揺れている。
――ぴたん。ぴたん。
天井から、肉厚なコンクリートを透過して、何かが床へ滴り落ちる音が響いた。
――ぴちゃん。
次の雫が、女のさす小さな傘の天頂を叩いた。弾けたそれは、どす黒い赤色をしていた。
傘の表面を伝い、ぬらぬらとした液体が、女の突き出た巨大な腹へと滴り落ちていく。
『ぶふ、ぶひゃひゃひゃひゃ!』
私は、ゆっくりと頭上を見上げた。
遥か高い天井。そこにあるのは、煤けた排気口と、かつて何かが流れていたであろう錆びついた排水管の目皿だった。
――ぴちゃん。
次の雫が、女のさす小さな傘を叩いて弾けた。
どす黒い赤色。傘の表面を伝い、ぬらぬらとした液体が、女の突き出た巨大な腹へと滴り落ちていく。
膨れ上がったその腹は、時折、内側から無数の小さな手で内側から押されるように不規則に歪んだ。
『あなたを、知ってる気がする』
悲鳴すら出なかった。悍ましい何かがあの腹に宿っている。
「し、知らない!」
やっと出た言葉だった。
『こんなところにいたのね。しまい忘れていたわ』
逃げ出さなければならない。
脳が激しく警鐘を鳴らしているのに、両足は床に釘を打たれたように一歩も動かなかった。
恐怖で、全身の筋肉が強張っている。
『みんなもう、中にいるのよ。あなただけ外にいるなんて、おかしいでしょう?』
女の足はそこに留まったままだった。けれど、限界まで膨れ上がっていた腹が、さらに内側から押し広げられていく。
メキメキと皮膚の裂ける悲鳴が聞こえた。ひらひらとしたムームーが中央から無残に弾け飛び、剥き出しになった肉塊がせり出す。
青紫色の太い血管がのたうつその腹の中央――かつて『臍』があったはずの場所に、あの、すべてを呑み込む「黒い一口」がぽっかりと開いた。
『ぶぶ、ぶひゃ』
濁った粘液を撒き散らしながら、その口が、顔のそれよりも大きく、歪に広がっていく。
――見えてしまった。
その黒い胎内の奥底、うごめく肉壁に、隙間なく敷き詰められた無数の赤子たちの姿が。
産声をあげることのなかった者、人としての形すら与えられなかった者。それらが折り重なり、どす黒い羊水の中に浸かっている。そして、暗闇の奥から、何百、何千という瞳が一斉に開き、じっと、外にいる自分を見つめ返した。
その中の一つの、形成不全の小さな手が、ぴくりと痙攣するように動いた。じっと見つめ合ううちに、彼らの無数の瞳の奥に、何か異質な「色」が灯るのを感じた。それは、外側の世界へ、光のある側へ、そして何より『由奈』へと向けられた、
ほんのわずかに身をよじり、黒い一口の縁へ向かって指先を動かし始める。
『ぶひゅ』
『あら、なぁに』
「――っ!」
身体を縛り付けていた金縛りが、その異変への恐怖で弾け飛ぶ。私は床を猛烈に蹴り、ただ目の前の暗黒へ向かってがむしゃらに走り出した。
湿ったコンクリートの冷気が肌を刺す。ここは、完全に打ち捨てられた古い棟だ。
懐中電灯の光すらない闇の中を、私は両手で壁を探りながら、狂ったように足を動かした。
バン、と右肩が何かに激突する。
ガラガラと甲高い金属音が静寂を裂いた。
ステンレス製の膿盆や、錆びついたクスコが床に散らばる。
その中に、茶色く変色した紙の束が混ざっていた。
――大正、昭和の年号が並ぶ、手書きのカルテの断片だ。どの頁も、理由の欄だけが黒いインクで乱暴に塗り潰されている。
振り返る余裕などない。さらに奥の暗道へと足を突き進める。
通路の脇、暗がりの中に丸い影が転がっていた。
爪先がそれを軽く蹴る。鈍い音が響いた。古い木製の桶だ。
かつて産湯を満たしていたはずのそれは、今は底が完全に抜け、泥のような乾いた澱だけをへばりつかせている。最初から、何も満たすつもりなどなかったかのように。
その時、行く手の壁の向こうから、かすかな音が漏れ聞こえてきた。
――キチキチキチ。
――金属が肉を、硬い組織を掻き出す音。
続いて、押し殺したような若い女の啜り泣きが響く。だが、それはすぐに、ゴボゴボという機械的な吸引音にかき消された。
誰も何も言わない。
ただ、事務的な、機械的な、何かを『無かったこと』にするための処置の音だけが、コンクリートの壁を隔てて淡々と繰り返されている。
「やめて!」
私は耳を塞いだ。塞いでも音が頭の中に入り込んでくる。
手が、指の骨が、知らないはずの感覚を覚えている。
知らない! 私はこんなものは知らない!
背後から、再びあのひらひらとした布の擦れる音が近づいてくる。
逃げ場所など、最初からどこにもなかった。
走った。走ってドアをみつける。開かない。
また走る。階段を上り、また降りる。外にでなければ、一刻も早くここから出なければ。ドアじゃなくても窓でもいい。外につながるものならなんでもいい。
足が滑った。何かぬるっとしたものが床に広がっている。転んだ先で手に触れたのは、見覚えのある脈打つ肉の管だった。
あの日、病室で私と箱の女をつないでいたものと同じもの。
だが、これはあの時のものよりも、はるかに太くて大きい。
暗がりのなか、のたうつ大蛇のような肉索が、ドクン、ドクンと重々しく波打っていた。ぬらぬらとした半透明の組織の奥で、網の目のように這う無数の赤黒い脈筋が、拍動に合わせてせわしなく収縮を繰り返している。その管の内側を、大量の液体が、何かを育むように絶え間なく送り込まれていくのが見えた。
これは、どこからどこへ。
どこへも逃げられない。けれど、入り口があったなら出口があるはずだ。
息を一度大きく吸ってから、目の前に横たわる不気味な肉の管を正面から見据えた。
闇の奥へ、奥へと、うねる肉の索が伸びている。
夢の中で、この管は私と箱の女を繋いでいた。
今は何と繋がっているのか。何を、繋げているのか。
――この先に。
私はもう一度、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。カビと錆の臭いが肺を満たす。
額に張り付く髪をかき上げ、首の後ろで乱暴に縛る。
脈打つ管の波が向かう先を睨み、泥のような暗がりに足を向けた。
行き着く先が、始まりでも終わりでも、ここでじっとしているよりはいい。




