其の二
翌日、運ばれてきた朝食の臭いで目が覚めた時、カーテンは開いていた。
昨日の光景が嘘だったように、隣の女は普通の顔で食事をとっていた。
干物みたいな体。棒のような腕。それらは昨日のままだったが、食事をしている様子を見るに、食べ方も表情も、特になんの特徴もない普通の女だった。
女はこちらに気づくと小さく笑って会釈をした。
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
女から出た声はまるで普通だった。
「あっ、えっと……おはようございます。少し寝すぎてしまったようです」
「寝れないよりは、いいです」
「そう、ですね」
私はなぜか少し気恥ずかしくなって、下を向いて食事を始めた。
箸を持とうとしたとき、昨日ハサミを握った感触を指先に感じた。夢だとした判断が揺らぐ。
指で管を挟みこんだ感覚。
ジャキという、肉質を切ったときの音。
それらは、まだはっきりとこの指に残っている感触だった。
嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。他人から見れば、病院のベッドで何かに怯え、震えている女。それは弱々しい、貧弱で精神の細い者に見えるだろう。
箸を強く握った。
背筋を伸ばしてから素早くお椀を持った。
租借するときに音の出そうなものを探して最初に口に入れた。
あごをしっかり使って健康的な食事の音を病室に響かせる。
ごくり。しっかり飲み込んだ後、一度大きく息を吐いてから、女の方を向いて言った。
「箱作りは楽しいですか?」
女は料理から視線を動かさずに箸の動きだけを止めた。
「音が、聞こえましたか」
「はい。よく聞こえてましたよ」
「迷惑だったら言ってくださいね。あれをしてないとどうも落ち着かなくて」
「何かに使うんですか」
女は枕もとの箱を手に取ってこちらに向けた。骨だけの指がやけに長い。
「ほら、中に入ってるでしょう」
「……箱が、ですか」
「入れないと、空くから」
由奈には意味がわからなかった。だが女は、伝わったものとして話を続けた。
「最初は紙屑でもよかったんですよ。玉でも紐でも。髪の毛でもね」
箱の中身をこちらに向けて見せた女の爪はほとんどなかった。
「でも一度こうなると、もう」
女はそこで言葉を切って、新しい箱を折りはじめた。続きを待ったが、それきり何も言わなかった。
私は食事を続けた。カサカサという音と、私の咀嚼音だけが病室に響いている。
完食すれば、看護師がトレイを下げに来る。それが診察室へ向かう合図だ。私は喉を通らないごはんを、機械的に口へ押し込んだ。
帰りに売店へ寄ろう、と思った。雑誌でいい。ファッション誌でも週刊誌でも、表紙のいちばん派手なやつ。カラフルな紙面をめくって、芸能人の誰がどうしたとか、今年の流行がどうとか、どうでもいいことだけを目で追う。そういう時間が急にひどく遠いもののように思えた。
窓の向こうで、車のエンジン音がかすかに聞こえた。きっと世界はいつも通り回っているのにこの部屋の中だけが少しおかしい。
カサ、カサ、と紙の折れる音が続いていた。
*
診察室へ向かう途中、不意に視界が開けた。そこは円形のホールで十字に交わる廊下が東西南北へと暗く伸びている。
壁の案内板に目を走らせていると、異質な通路が一つ紛れ込んでいるのに気づいた。屋外へと続く渡り廊下。その手前には「立ち入り禁止」と殴り書きされた紙が端から剥がれかけていた。
通り過ぎざまその奥を盗み見ると、渡り廊下の先にはぽっかりと「黒い一口」が開いていた。
古びた旧棟の入り口らしきその穴は、ただ底知れない黒を晒してじっとこちらを覗き返していた。
あれは入り口なのか出口なのか。ふとそんなことを考える。
入って、出て、また入る。
あの一口は何を入れて、何を出してきたのだろう。
――ごくり、と空間が鳴った。
黒い一口が、確かに呼吸をした。それを合図に、濃厚な闇の奥から一筋の「ひび」が這い出てくる。
ズキン。腹の底に石が落ちたような痛みと重さで膝が折れそうになる。
メキメキと不快な音を立てながら、ひびは渡り廊下の床を、壁を、天井を容赦なく引き裂き、こちらに向かって猛烈な速度で伸び進んでくる。
悍ましい何かの触手のように。
逃げなければ。そう思うのに足が床に張り付いたように動かない。
ひびの裂け目から、視線のようなものが無数に溢れ出し、私の身体を絡めとっていく。
息が、できない。
「――大丈夫? まだ痛むの?」
はっと我に返る。目の前にあったはずの黒いひび割れは、煙のように消え失せていた。激しい動悸のなかで視線を上げると、すぐそこにあのひらひらとしたムームーの裾が揺れていた。
閉ざされた空間のなかに、あの強烈な「雨とゴミ箱」の臭気が、ふたたび、じっとりと満ちていく。
「大丈夫?」
女は、巨体に似合わないままごとのような小さな傘をさしたまま、ぬっと顔を覗き込んできた。
同時に襲いかかる強烈な臭気に、私はとうとう吐き気を堪えきれなくなった。
「うっ……!」
口を手で押さえ、女の脇をすり抜けるようにして、私はその場から無我夢中で走り去った。
後ろを振り返る余裕なんてない。ただあの異常な空間から、あの女から離れたかった。
「ちょっと! 院内は走っちゃダメですよ!」
私は弾かれたように足を止めた。
はっと周囲を見回す。白い壁、消毒液の匂い、遠くで聞こえる事務的な呼び出しのアナウンス。そこは紛れもない、普通の現実の病院の廊下だった。
「顔色が真っ青じゃない。大丈夫ですか?」
駆け寄ってきた看護師の女性が、怪訝そうに、けれど親身になって私の肩を支えてくれる。
振り返っても、そこにさっきの巨体の女も、小さな傘も、黒いひび割れもない。
旧棟への入り口は、ただの古びた木製のドアが閉まっているだけで、剥がれかけた「立ち入り禁止」の紙が、蛍光灯の光に寂しく照らされている。
「……すみません、少し目眩がして」
「もう、無理しちゃダメですよ。さあ、診察室はこっちです。一緒に行きましょう」
私は看護師に付き添われ、促されるままに廊下を歩き出す。
彼女の手は柔らかく、瑞々しい弾力があった。若く健康な人間の肉体が持つ手だ。
艶やかな黒髪は品よくまとめられ、頬や唇にはほんのりとした赤みがさしている。
ふと、前方のガラスドアに二人の姿が映り込んだ。
私はそれを見て、息を呑んだ。
――これが、私なのか。
そこに映る自分の姿は、まるで死臭が漂ってきそうなほど煤けて見えた。後ろで雑に括られた髪からは、収まりきらない毛束があちこちから不揃いに飛び出している。前かがみになった姿勢は、まるで老人のようだった。
私はたまらなくなって、歩きながら頭の後ろに手を伸ばし、乱れた髪を結び直した。そして、背筋を無理に伸ばす。
彼女の温かい手のひらの感触に安堵しながらも、私の背中にはまだねっとりとした冷たい汗が張り付いたままだった。




