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怪異蒐集録―幻怪マニアックス  作者: 青羽 イオ
蒐集録第二号 「空箱」

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4/6

其の一

 由奈は分娩台の上でひび割れたタイルの壁を眺めていた。


 じいっと見ていると、ひび割れが生き物に見えてくる。ひび割れを目だけでたどってみた。

 壁の中央から床に向かって伸びている。


 ひび割れは幾度か枝分かれしていた。枝分かれの先はどれも途中で止まっていたが、止まるたびに戻って違う枝を追った。6本目の枝だけが、太く長く、床のすぐ下まで続いている。だが、分娩台にいる由奈にはそれ以上そのひび割れを追うことはできなかった。


 目を閉じると、今見ていた光景が広がる。


 タイルに生まれたひびが少しずつ伸びていく。ひびは太くなりながら下へ、下へと進んでいった。ひび割れがぴたりと止まったとき、そこから小さな白いものが壁から出てきた。


 白い小さなキノコのようなそれは、うねうねと回転しながら壁から這い出ようとしている。


 キノコのかさが出た。

 キノコではない。


 それは小さい。とてつもなく小さくて白い。


 赤子の手。


 由奈はこれ以上見てはいけないと、意識的にパチリと目を開けた。


 無影灯の灯りと、鼻に刺す消毒液の臭いが、由奈をすぐに現実に引き戻した。眠りに落ちるときの夢を見たのだと思ったが、嫌な感情が胸にとぐろを巻くように残っていた。


「あれ、まだ目は覚めないはずだけどね」


 聞いたことのない女の声がする。姿が見えないのは自分の視野にそれがいないからだ。


「白川さん、聞こえる? このあと病室に移動しますからね」


 返事をするべきかどうか少し迷ったが、何も言わないでおいた。


「歩いていけるかしら? どう? 起きられそう?」


 やればできると思う。だが、今は立ち上がりたくはなかった。


 若く健康的なわたしの身体は音もなく車椅子へと移し替えられ、衣擦れの音だけが聞こえた。


 車椅子に固定されたその姿は、精巧に作られた生人形いきにんぎょうと何ら変わりがなかった。


 視線は、ただ正面の、何一つ飾りのないタイルの壁へと突き刺さっている。


 無機質なタイルの壁を走る割れ目には光もなく、ただ底の知れない暗闇が広がっていた。

 なんの合図も確認もなく、車椅子は音もなく動き出していた。


 押しているのは誰だろう。何も言わず、ただ黙々と運んでいく。たぶん女だ。足の運びがそう感じさせた。


 角を曲がるとき、車輪が「ぎゅっ」と鳴いた。嫌な音だった。風船の口をゴムで縛るとき、さんざん聞いた音。


 ――小さな暗い穴がある。入り口をこじあけて風船を押し込み、中で膨らませて、ゴムで縛る。そのたびに「ぎゅっ」と鳴る。


 音を聞くたび、腹の下のほうが、同じ音で鈍く痛む気がした。

 四つ目の角にさしかかったとき、私は耳をふさいだ。


 曲がった先の廊下を、女がひとり、こちらへ歩いてくる。


 小さな産院の廊下は、その半分が女の体で塞がっていた。このまますれ違えるのだろうか。ふとそんな心配がよぎるほどだった。


 女はせり出した腹を先に立てて、短い足で、重い体をゆっくりと運んでくる。妊婦のようではあるが、それにしては腹が出すぎていた。双子か三つ子でも入っているのか、あるいは、妊婦ですらないのか。


 ムームーのようなひらひらとした服が、歩みに合わせて揺れている。


 その揺れの上に、黒い半円が浮かんでいた。


 近づくにつれて輪郭がはがれ落ち、それが傘だとわかった。


 女は、傘をさしていた。


 なぜ屋内で傘を。


 そう思うより先に、目はその小ささに引っかかっていた。傘は、女の巨体に対して、まるで子供のままごとの道具のように、哀れなほど小さく縮んで見えた。


 女がこちらを見た。


 私は目を離せなかった。女は一度大きく目を見開いた後、口をとがらして目を細めた。


 とがった口のまま、こちらとの距離が少しずつ縮まっていく。


 近づいてはいけない、そう思うのに言葉が出てこない。近づくにつれ、腹の奥が鈍く痛みだした。


 女の真横に並んだ時、押し寄せた臭気に、私は嘔吐感を覚えた。最初に雨の臭いがした。次に、激しい雨が土を穿つような匂いの奥から、じっとりと這い出てきたのは、嗅ぎ間違えるはずのないはずのない「あの」の臭いだ。暗いゴミ箱の中から漂ってきた、行き場を失ったものの臭い。


 ――知っている。私はこの臭いを、嫌というほど知っている。その自覚と同時に、腹の奥の鈍痛が、激痛へと変わった。


 私は腹を押さえて痛みをこらえようと、目を閉じ、歯を食いしばった。

 次に目を開けたとき、女の顔が目の前にぬっとあらわれた。


「大丈夫? お腹、痛いの?」


 女は想像していなかったほどやさしい声と、温かいまなざしで私を見ていた。

 近づいてみれば、どこにでもいそうな、おっとりした優しいまなざしの女性だった。


「今からかしら、それとももう……」


 今から? もう?

 何を言われているのかわからない。だって私は……。

 何か言い返そうと口を開きかけたとき、車椅子が動き出した。

 臭いが遠ざかっていくにつれ、呼吸が楽になり、痛みがおさまっていった。

 通り過ぎてしまえばなんてことはなかった。太った女などどこにでもいるのに、なぜ怪異なものにでも出くわしたような気持ちになったのか。


 そう、あの女はどこにでもいる普通の女性だ。


 傘をさしていることを除けば。


 *


 病室につく頃には、目に映る世界に色が戻っていた。じんわりと体も温かくなった気がして、安堵したと同時に、喉の渇きを覚えた。


 最後に水分を取ったのはいつだっただろう。


 ベッドに腰かけて一息ついた時には、もう車いすを押していたものはいなかった。

 挨拶も説明もなく、ただ、いなくなっていた。


 何か飲み物を――そう思ったとき、ベッドを仕切るカーテン越しに、カサカサと音が聞こえてきた。


 そこで初めて、隣のベッドに誰かいるのだと気づいたが、どうも人の気配が薄い。


 音がするのだから誰かいるのだろうが、聞こえてくるのは同じリズムで繰り返されるカサカサという音だけ。


 見えないだけに、どうにも気になってしまう。


 視線を落とした先、カーテンの隙間から覗くと「それ」が見えた。骨と皮だけでできた二本の棒。それが、病院の青いビニールスリッパに突き刺さっている。足があまりに肉を失っているせいで、スリッパだけが船のように異様に大きく見えた。


 ちょうど、看護師が部屋に来た。カーテン越しになにか話している。


「また増えたのね」

「ずっと数えてる。でも、埋まらない」

「ずっと、埋まらないのね」

「増えてもその中にまたあるから」

「あら、でももうすぐじゃない?」

「そうね。そろそろ一番小さい箱が……」


 話の意味を理解するより早く、看護師がカーテンを開けてこちらに声をかけた。

 その一瞬に見えたのは、足と同じような痩せた手と、箱だった。


「白川さん、体調はどうですか?」

「あ、はい。大丈夫です」

「明日、午前中に診察です。薬とお茶、ここに置いておきますね」


 看護師はそれ以上何も言わずに出て行った。

 私は薬の色と形だけを確認して、すぐに飲む。

 薬を飲み込むその時、カサカサが始まった。音の方をみると、カーテンが少し空いているのに気付いた。飲み込む動作で顔は上を向いたまま、目だけが隙間のその先をとらえ続けた。


 隙間からわずかに見える、隣のベッドには干物のような女が一人。


 手がせわしなく動いている。


 あの手は、何をしているのか。


 私は女の肩から指先に向けて、ゆっくりと視線を動かしていった。


 女の指先へと視線がたどり着いた瞬間、腹の奥がまたズンとした。


 カサカサ。

 カサカサ。


 乾いた音が湿った病室に響く。女の、骨と皮ばかりの手首から先。そこには、灰色の薄汚れた紙の箱があった。驚くべき速さで、爪の剥がれかけた指先が紙を折り込んでいる。


 女は一度も手元を見ない。ただ、大きく見開かれた濁った眼球で、天井の一点を見つめたまま、指先だけを昆虫のように激しく蠢かせている。


 私は、喉の手前で止まったままの薬をやっとの思いで飲み込んだ。喉はゴクリと音を立て、それが病室に響いたようで、私は焦った。


 女から視線を外して、背を向けるようにベッドに入った。


 同時に、カサカサという音がピタリと消えた。音が消えただけで、人が動いた気配はない。カーテンの隙間を見るのを我慢できなかった。私はそれとなく寝返りをうって向こうの様子をうかがおうとした。


 ──消えた音の代わりに、私は女の「顔」と正面から衝突した。女は体ひとつ動かしていない。


 なのに、その顔に宿る凄まじい恨みの質量に、私は押し潰されそうになる。


 カーテンの隙間から覗くその表情は、私への明確な敵意で満ちていた。動いていないはずなのに、その激しい怒りの形相が、じわじわとすぐ近くまで迫ってくるような、異常な錯覚に襲われて息が止まる。


 瞬きできない目から涙がこぼれた。目が痛い、なのに閉じれない。唇は震えるばかりで、声が出せない。下腹部がズン、というたびに、痛みがのどまで突き上げてくるように響く。


 痛みの起点を探るように、私はおそるおそる視線を自分の腹へと落とした。


 そのとき、視界の端に変なものが映り込んだ。


 私と、ベッドの向こうに佇む女。その二人の間に、だらりと不自然に弛んだ、肉厚の、脈打つ一本の管のようなものがぶら下がっている。


 その管は、私の下腹部から這い出て、そのまま女の足元へと繋がっていた。ドクン、ドクン、と不気味な拍動が伝わってくる。下腹部がズンと痛む周期は、まさにこの管が波打つリズムそのものだった。私の脳のどこかが直感的に理解を拒んでいたが、体が、そして指先が、それに対する処理の方法をあまりにも冷徹に知っていた。


 逃れられない痛みのなか、私は右手を横へ伸ばした。


 指が触れたのは、病院のベッド脇に置かれた見慣れたキャビネット──。引き出しのなかに手を探り、冷たい金属の感触を掴み取る。引きずり出したのは、何の変哲もない小さなハサミだった。


 手が勝手に動いた。


 ──ジャキ、と硬い肉質を断つ手応えが、指から腕へと伝わった。


 切断された瞬間、管は生き物のように激しく身悶えした。だが、それも一瞬のことだった。


 切り口から溢れ出たのは血ではなく、灰のような濁ったおりだった。管はみるみるうちにどす黒く変色し、水分を失って縮んでいく。果物の皮が干からびるように急激にシワが寄り、カサカサとした不毛な質感へと変わっていった。


 やがて、それは形を保てなくなり、崩れた。


 サラサラと音を立てて、乾いた灰色の粉になり、ベッドのシーツの上へ、そして床へとこぼれ落ちていく。女と私を繋いでいたおぞましい絆は、完全に消滅した。


 それと同時に、下腹部を貫いていた激痛が、嘘のように引いていく。


 張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。急速に視界が暗転していく。女の顔が、驚くほどの速さで遠ざかる闇の向こうへと消えていくのを見ながら、私の意識は深い底へと静かに墜ちていった。


―――つづく。

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