其の三
洞のなかをまさぐり、かさぶたを探すことはやめなかった。
時折「カリッ」と何かが剥がれる感触がある。
剥がれ落ちたものは洞の中に沈んでいくが、洞の中の様子は変わらない。
剥がしたものをどれほど落としても、洞の世界の連中には届いていないようだった。
自分がこれほど鮮明に見えている世界
なのに、向こうはこちらに気づいてすらいない。
こちらが何をしても、洞の社会に影響を及ぼすことはないのだ。
ただ、洞を覗く。かさぶたを剥がして落とす。
そんな繰り返しのなか、洞の入り口近くに突起する異物を見つけた。
ほくろだ。
洞と自分の境目に、それはあった。
洞のふちをなでながら、ほくろをぽりぽりと掻き始めた。少しして、ほくろの表面に小さなブツブツがあることを爪先がとらえた。
私の爪は容赦なくブツブツを引っ掻き始めた。何かが剥がれる様子はないが、つぶすことはできるかもしれないし、今のほくろの形に変化を与えることもできるかもしれない。
洞の世界を覗き見ながら、ほくろをカリカリと引っ掻き続けた。
目を閉じて爪先に全神経を集中する。大きさ、硬さ、形、一番とがっている部分。すべてを爪先で見る。頭の中が静かになって、爪先のぶつぶつだけが世界のすべてになった。
ほどなくして、ひとつのぶつぶつの先にぬめりを感じた。
何かが出ている。
「ぶしゅっ」
音が聞こえると同時に、爪先のひっかかりが取れた。
久しぶりに味わう感覚に、思わず声が漏れそうになる。
どのくらいの液体がほくろから流れ出たかは定かではないが、爪先を確認するに、血ではない。少し黄色い、サラサラしたものだった。リンパ液だろうか?
爪先のにおいをかいでみるが、無臭だった。爪先を腹にこすりつけて液体を拭き取った、その時。
洞の様子が変わったのがわかった。
目を開けて洞の中を覗き込むと、そこは先ほどまで見ていた世界とは何かが変わっていた。
何が、とはっきり言えるものではない。長く覗き続けた者だけがわかる、微妙な変化だ。
最初に気になったのは声色だった。互いの会話に攻撃的な言葉が多くなった。喧嘩や言い争いが増えていた。
あの液体。まさか、そんなはずはない。すぐにそう思おうとしたが、今まで何をしても変わらなかった世界。自分が行う行為は、何一つ洞の社会には影響を与えることができなかった。その世界が、偶然かもしれないが、ほくろから流れ出た液体によって、もしかしたら何らかの影響を受けたのかもしれない。
自分が影響を「与えた」のかもしれない。
試さずにいられるわけがない。
自分の腕の中にいながら、自分を無視し続けてきたものだ。
最高のかさぶたを見つけた時のような喜びが、体中を駆け巡った。
ほくろの表面を覆うぶつぶつを探して、再度液体が出るまで引っ掻いた。今度はためらいはいらない。つぶして液体を出すコツはもうつかんでいる。その分、結果が出るのも早かった。
「ぶしゅっ」
また出た。
すぐに洞のあらゆる場所を確認した。
先ほどまで聞こえていた怒鳴り声や言い争いはなくなっている。
代わりに、誰もが顔をあげなくなっていた。誰も会話をしていない。ほとんどの者が下を向いて暮らしている。仮面のようなものをつけて顔を見せない者も現れた。
洞の社会を覗き始めてから、これほど静かになったのは初めてだった。社会の営みはそのまま、人の声と顔が消えた。
胸のざわつきが、確信へと形を変えた。
私はさらに潰した。液体は徐々に黒っぽくなり、においが出てくるようになったが、それに比例するように、洞の中も激しく変化していった。
ビルから飛び降りる仮面の者が増え、山奥に小さな集落ができた。都会だったと思える場所には、もう人があまり残っていなかった。
小さな共同体で暮らす仮面の者たちは、最初こそ下を向いてばかりいたが、最近では顔をあげることが増えた。聞こえなくなっていた声が、小さな囁きのように響きはじめていた。
それでも、私を見ることはない。これほど世界が変わったのに。私がこの世界を変えたのに。私など存在しないものとして、この世界は続いている。
もう一度。
私はほくろの表面を探った。潰せるものは、まだ残っている。
爪先を這わせると、ぶつぶつは最初よりも増えていた。硬いもの、柔らかいもの、わずかに脈打っているものまである。
その中から、いちばん大きく膨らんだものを選んだ。
爪を立てた。
「ぶしゅっ」
どす黒い液体が指を伝った。
その瞬間、洞の世界にいたすべての者が動きを止めた。歩いていた者も、座っていた者も、眠っていた者も。車も、電車も、空を飛んでいたものさえ止まった。
世界全体が、一枚の絵になったようだった。
私は息を殺して、その様子を見つめた。
やがて、ひとりが顔を上げた。仮面をつけた者だった。顔が見えないのに、こちらを見ているとわかった。
次に、その隣にいた者が顔を上げた。さらに、その隣も。一人ずつではなかった。
山にいた者が。
海にいた者が。
地下にいた者が。
建物の奥にいた者が。
眠っていた者が。
死んでいるように動かなかった者までが、同じ方向へ顔を向けた。
こちらを見ていた。
途方もない数の顔が、洞の外側にいる私を見上げていた。
私は笑った。ようやく気づいた。
今まで何をしても届かなかった。声をかけても、水を流しても、火を落としても、何一つ伝わらなかった。それが今、世界中の者が私を見ている。
「見えるのか」
声を出してみた。洞の世界に変化はなかった。
「私が見えるのか」
今度は大きな声で言った。
すると、仮面で見えない顔に口だけが浮かび上がった。無数の者が一斉に口を開いた。
声は聞こえなかったが、ただ、全員の唇がまったく同じ形に動いた。
何を言っているのかわからない。私は鏡に顔を近づけて、唇の動きを読もうとした。
もう一度、彼らの口が動いた。
で。
て。
こ。
い。
「出てこい」
はっきりとした声が聞こえた。低くも高くもない声。世界の空気全体が揺れるような振動を感じた。
聞こえた声は、耳元ではなかった。洞の中からでもなく、自分の頭の奥から聞こえた。
私はごくりと生唾を飲み込み、喉を鳴らした。
洞の世界では、誰も動いていない。全員がこちらを向いたまま、次の言葉を待っていた。
「出てこい」
二度目の声は、さっきよりも近かった。
そのとき初めて、私は自分が洞を覗いているのではないことに気づいた。
「出てこい」
三度目の声のとき、わたしは笑った。答えようとして、一瞬だけ手が止まった。
答えたら何かが終わる、と思ったのに、喉が震え、小さな音が漏れた。
部屋の輪郭が薄くなった。壁が、床が、自分の名前が、順番に剥がれていった。
痛みはなかった。剥がれるとき、いつもそうだったように。
気がつくと、わたしは洞の中にいた。見上げると、途方もない光があった。
巨大な爪がゆっくりと降りてくる。
そして今、爪は私の縁に差し込まれた。
カリッ、という小さな音がした。
とても、気持ちよかった。
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――怪異蒐集録 蒐集第一号 「洞の声」 終




