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怪異蒐集録―幻怪マニアックス  作者: 青羽 イオ
蒐集第一号 「洞の声」

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其の二

 半年ほどが過ぎた頃には、かさぶたが直径十センチを超えていた。同じように穴も大きくなり、かさぶたはもうできなくなっていた。代わりにその穴に指を入れてほじることが新しい楽しみになった。穴の内側は全体が薄い出来立てのかさぶたのようで、爪で引っ掻くとぽりぽりと何かが削り取れた。


 それは、日焼けした後に剥ける皮膚のようだった。あるとき、夢中になっていて指を全部使って穴の中をまさぐっていた。


 ふと冷静になったときに、感じたことのない恐怖と好奇心がふつふつと沸き上がった。


 穴は、こぶしが入るほどに大きくなっている。


 鏡で穴を覗いてみた。穴の底にはうっすらと骨のようなものが見える、ような気がする。それが骨であるか確信はなかった。ただ、穴の大きさと深さを考えると、骨に到達していてもおかしくないと、そう思っただけだった。


 少しずつ深く、大きくなる穴をほじり続けていたある時、何かが聞こえた。


 どこから? なんの音?


 手を止めて耳を澄ましてみると、それはどうやら人の話し声のようだった。


 ひそひそと話しているような感じではない。幾人かが日常的なたあいもない話をしているようなリズム。だが、何を話しているのかは聞き取れない。声がどこから聞こえてくるのかもよくわからなかった。


 壁に寄ってみる。床に耳を当ててみる。目を閉じて耳をふさいでみる。


 どれも違うようで、どれも合っているようで、気持ち悪くなった。


 何者かが自分のすぐそばで会話をしているのに、内容が聞き取れない。剥がそうとしてもうまく剥がれないかさぶたを触っているときのような気持ち悪さといらだちが、二の腕の穴に向いた。力任せに周りをかきむしって思い切り削りまくった。


 カリカリからガリガリに変わり、ボリボリがゴッソリになったころ、爪先が何かをとらえた。


 虫? のような、なにか……ではない。


 木の洞のようになった二の腕の穴の中、その表面に何やら蠢くものがある。


 爪先だけではわからない。手鏡を当ててみるが、洞の中は暗く、その奥底を覗き見ることはもうできなくなっていた。


 ライトで照らしてみようと思ったが、鏡を当てながらライトで照らすとなると、腕が足りない。結局懐中電灯と手鏡を、手近な棒にくくりつけた。角度を持たせて二の腕の上のほう、ほとんどわきの下といえるような場所にテープでくくりつけることで、洞の中を存分にのぞくことが叶った。


 最初は暗いだけだった。街の雑踏のような音だけが聞こえる。

 私は、粘り強く洞を覗き続けた。


 いつ食べて、いつ寝ているのか、あまり記憶がなかった。


 暗い穴の中を覗いていると、不思議と腹は減らなかったし、眠いとも思わなかった。


 何かが見えるようで、見えない。聞こえるようで聞こえない。


 穴の中に手を突っ込んでは周りをまさぐりながら、引っ掛かりを見つけては、ぼりぼりと削り続けた。


 そしてとうとう。


 声が聞こえた。

 はっきりと。


 それはたぶん、人の声だ。


「おい。そこになんかいるのか」


 なんと。洞から聞こえてきたのは「人」の声だった。男とも女とも、子供とも老人とも言えない。一人とも、二人とも違う。


 初めて聞く声色だった。それは穴から聞こえているはずなのに、まるですぐ耳元で聞こえているようだった。思わず振り返ってみたが、見えるのはカビの生えた土壁だけ。


 驚きと同時に沸き上がったのは、嬉しさだった。私の腕の洞に何かがいる。そして私を認識している。これらが人なのか、オカルト的な何かなのか、そんなことを少し考えてみようとしたが、次に聞こえた声色のおかげで、すぐにどうでもよくなった。


「なんにもいるわけねぇ」

「でも……なんか」

「ほら、遊んでないでとっとと行くぞ」


 ライトや鏡の角度を変える。体を捻ったり、腕を曲げたりしてとにかく洞の中を凝視した。


 数時間ほどあれこれとやってみたが、声が聞こえてくるだけで、洞の中は相変わらずの真っ暗だった。


 洞の中を激しく引っ掻く。大声を出してみる。ライトを奥まで入れてみる。やかんで水を流し入れる。火の付いたマッチ、靴下、髪の毛、釘、包丁まで落とし入れた。


 しかし、何も変わらなかった。私が何を言おうが、何を放り込もうが、洞の中にも私自身にも何一つ変化はなかったのだ。


 そのうち、声はより鮮明に聞こえるようになっていった。


「おいおい、おまえ。そのやり方じゃだめじゃないか?」

「いいんだよ。このやり方が気に入ってるんだ」


 一体なんの話だ。


「最近、クワズイモの新芽が出てきて、えらい可愛いんよ」


 クワズイモ? 観葉植物の?


「まだ、一緒にいたい」

「今は我慢してくれ。もうすぐずっと一緒にいられる」


 恋人たち?


「この世界は偽物なんだぜ」

「おいおい、またそんな話かよ」

「まぁ聞け。ここは世界の中心じゃない。外側でもない。ここは……」

「ここは?」

「〇×※~▽§□……」

「〇〇を▽すると~〜~になり、~〜~を〇〇すると絶対に▽が消滅する」


 私はこぶしを洞に向けて、幾度も出し入れした。気になる。大事なところが聞こえない。何度も、何度も繰り返す。繰り返しても洞の中の様子はこれっぽっちも変わらない。なんなんだ、これじゃ大事なところがわからない。なんとかして、この世界に影響を与えることはできないのか?


 お前たちはどこにいて、何をしているのか、私が一番知りたいのはそこだ。


 もっと聞きたい、この洞の世界を知りたい。


 私は体の動きの限界まで洞に耳を近づけた。首も腰も痛い。はたから見ればなんともとんちんかんな態勢に見えるだろう。


 洞の中が気になって仕方がない。洞の内側をまさぐっても、腕が届く範囲には、もう剥がせるようなものはなかった。


 声はどんどん鮮明になっていき、内容も多種多様になっていった。数多の声が重なり合い、以前とは違う理由で聞き取れなくなっていった。


 ただ、落ち込むことはなかった。声は聞き取りにくくなってはいたが、代わりに洞の中が見え始めた。


 見えている縮尺がおかしい。遠近感覚も物理法則もおかしい。


 だが、見たいと思うと、まるで望遠鏡で見ているように、世界のあちらこちらを見られることに気づいた。


 見てみれば、なんの変哲もない「普通」の世界だった。


 人が暮らし、働いて、遊び、家族や恋人と過ごす。孤独に山を登る者もいれば、アパートで一人、暗闇の中じっと動かないような者もいる。


 期待していた驚きはなかったが、洞を覗くことはやめなかった。


 洞の世界は見飽きることがなかったし、新しい発見が常にあった。


 ずっと鏡ばかりを見ていたせいか、首の角度がおかしくなりはじめた。


 戻そうと思ったが、石のように固まって動かせない。もう後ろを振り返ることもできなくなっていた。腰や足も同じように固まってしまった。洞を観察するのに最適な態勢で固定されてしまったようだ。


 痛みはなかった。空腹でもないし、眠くもない。


 けれど唯一自由に動くもののせいで、おだやかに世界を眺めているだけではいられなかった。


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