其の四
管を辿った先にあったのは、錆びたドアの上に「処置室」という文字が灯る部屋だった。
ドアは大きく開け放たれ、肉索が奥へ伸びている。
――キチキチキチ。
部屋の中央に、古い分娩台があった。
その前に、白衣の女が立っている。
女は私に背を向け、緑色の布の下へ器具を差し込んでいた。手首を返し、引き抜き、足元の琺瑯の桶で二度叩く。
カン。カン。
そして、また差し入れる。
――キチキチキチ。
台の上には、誰もいなかった。
布は革張りの台に平たく張りついている。それでも女は、誰かの脚の間を覗き込むように腰を曲げ、同じ処置を繰り返していた。
「力を抜いてちょうだい」
女は空の台に言った。
「すぐ終わるから」
私の靴が床の膿盆に触れて、乾いた金属音が部屋に響いた。
女の手が止まった。
首だけが、先にこちらを向いた。
肩は分娩台へ向いたまま、顔だけがゆっくりと回ってくる。
その動きに合わせて、白衣の肩から埃が崩れ落ちた。
頬は深く落ち、黄ばんだ皮膚が骨に貼りついている。灰色の髪には細い蜘蛛の巣が渡り、その端が背後の器具棚へつながっていた。
それでも目だけは濡れたように黒く、瞬きもせず私を見ている。
唇が遅れて笑った。
足元では、女の革靴が床の錆とひとつになっていた。
「遅かったわね」
低くも高くもない声だった。一人がしゃべっているようで幾人もしゃべっているように聞こえる。
女医は処置台の脇から、古びたカルテを一冊取り上げる。表紙を撫でると、白い札に黒い文字が滲み出した。
白川由奈。
「違います」
私は後ずさった。
「私は患者じゃありません」
女はカルテをめくった。途中で指が止まる。そこだけ、紙が一枚破り取られていた。
「記録がない」
女は初めて私の顔を見た。
次に、腹を見た。
「まだ済んでいなかったのね」
足元の肉索が大きく脈打った。
私の足首に巻きつき、分娩台の方へ引き始める。
「放して!」
女が私の腕を掴んだ。朽ちたような細い指なのに、振りほどけない。
「大丈夫よ」
女は穏やかに言った。
「今度は、きちんと終わらせるから」
分娩台の脚台が、軋みながら左右へ開いた。
脚台の金具が閉じる。
ガチン。
冷たい鉄が、私の太ももを強制的に左右へ開いた。
「やめて!」
「大丈夫です。すぐに終わります」
濁った、抑抑のない声。私を見ていない目。
鼻腔の奥に、猛烈な錆の匂いが突き刺さった。古い、大量の乾いた血の匂いだ。
「いや! お願い、やめて!」
視界が激しく明滅する。天井の、ひび割れた無影灯。
なぜ、私はこの天井を知っている? なぜ、この匂いを、体が覚えている?
女医の手が動いた。
――キチキチキチ。
金属が擦れ合う音が、鼓膜を突き破って脳髄に直接流れ込んでくる。
「いやーーぁあああああ!」
喉から血が出るほど叫んでも、女医の機械的な動きは止まらない。
お腹の奥。子宮の裏側。
ずっとそこにあった「何か」を、冷たいピンセットで直に掴まれた。
引きずり出される。剥ぎ取られる。
女医の手が、ぴたりと止まった。
その静寂が終わりの合図のように感じた。最後の一掻きの前の一瞬だと。
視界が、真っ白なノイズで埋め尽くされる。
次の瞬間。
ぷつん、と。
ずっと私をこの世界につないでいたものが、切れた。
――世界が反転した。
処置室は明るい蛍光灯で照らされ、タイル張りの壁は白く光っている。
看護師が忙しなく動き、医者が私を覗き込んでいた。
「今日は異常だ。予定にない出産が多すぎて、ちゃんとした分娩室に空きはない」
部屋の隅に産湯の桶はなかった。
保育器も、赤子を寝かせる台もない。
分娩台の足元にあるのは、蓋のついた琺瑯の容器と、吸引器だけだった。
壁際には大小の器具が並び、カルテ棚には同じ処置名の札が隙間なく差し込まれている。
「さきほど緊急で運ばれたこの方ですが、子宮口が開きすぎていて、もう転院させるのは無理です」
「しかし、ここは……」
医師は言葉を切り、足元の容器を見た。
それから血圧と陣痛の強さを確認し、私を見つめた。
そのまなざしには、憐れみと慈しみがあった。
「もう間に合わないな、この子はここで産まれるのを決めたみたいだ」
困ったような笑みだったが、その目は強く光っていた。
看護師が無言で頷いた。
「ここで産ませる。余裕のある産婦人科医か、助産師はいるか」
「今はきびしいです。そもそもの予定分娩で全員手が離せません。先生は無理ですか?」
「私は処置を待たせてる患者がいる。産後の出血がひどいから、後回しにはできない。終わり次第すぐに戻ってくるが、それまで……」
医師は言いかけて、もう一度看護師を見た。
「いや、待て。 オンコールで誰か一人ぐらい待機してるだろう」
看護師はすぐに書類を確認した。一瞬目が輝いて、すぐに首を振った。
「います。産婦人科の医師が一人。現在オンコールです」
「よかった! すぐに……」
言い終わる前に、看護師が割り込んだ。
「この先生はダメです。出産には立ち会えません」
「産科医なら問題ないだろ」
「ダメなんです。この方は……」
「この緊急事態に、君の好き嫌いを聞いてる暇はない」
モニターの音が速くなる。陣痛の波が、画面の上で山を高くしていく。
医師はもう迷わなかった。看護師から書類をひったくり、内線の受話器を取る。番号を押す指に、ためらいはなかった。
「もしもし、産科の――そう、緊急だ。すぐ来てくれ。オンコールの」
医師の唇が、その名を呼んだ。
聞こえなかった。
口は確かに動いている。三つの音。けれど、そこだけ音が抜け落ちていた。耳が拾わないのではない。最初から、そこに音がなかった。
看護師がこちらを見た。私を、ではない。私の、もっと奥を。
光が遠ざかっていく。蛍光灯の白が、端から黒く塗り潰されていく。受話器を置く医師の動きが、水の中のように間延びして、声も、足音も、モニターの音も、ひとつずつ消えていった。
最後に残ったのは、台の冷たさだった。
太ももに食い込む、鉄の脚台。
戻ってきた。
――キチキチキチ。
女医の手は、まだ止まっていた。最後の一掻きの前の、あの静寂のまま。朽ちた指がピンセットを握り、子宮の裏の「何か」を掴んだまま、動きを止めている。
なぜ止まっているのか、すぐにはわからなかった。
女医も、こちらを見ていなかった。その黒い目は、私を通り越して、開け放たれたドアの方を向いていた。廊下の闇の奥で、何かが床を擦っている。
ひた。ひた。
濡れた布を引きずるような音。それにまじって、聞き慣れた、あの軋み。
傘の、骨の鳴る音。
「――まだ済んでいないのよ」
女医が言った。私にではない。ドアの向こうへ向かって。
「この子は、私のところで済ませる」
返事はなかった。代わりに、戸口の闇がゆっくりと膨らんだ。
廊下の幅いっぱいに、それは現れた。せり出した腹を先に立てて、短い足で、重い体を運んでくる。手にはあの小さな傘。だが、もう傘はささず、たたんだまま、杖のように床を突いている。
ひた。ひた。
太った女は、私を一瞥もせず、じっと女医を見ていた。
二人の女が、台を挟んで向かい合っている。
腹に入れる女と、台で終わらせる女。その間に、私がいた。
脚台に開かれたまま、どちらのものでもなく、どちらのものにもなろうとしていた。
女医の指が、ほんのわずか、緩んだ。
子宮の裏の「何か」を掴んでいた力が、抜けたとき。
今だ、と思った。
なぜそう思ったのかはわからない。考える前に、手が動いていた。
指が触れたのは、台の脇の器具棚の、いちばん下の段だった。手を差し入れ、奥で何かに触れる。冷たい金属ではない。紙の、乾いた角だった。
引き出したのは、折りかけの小さな箱だった。
骨と皮の女が、病室でずっと折り続けていた、あの箱。なぜここにあるのか、考えなかった。掌に乗せた瞬間、ずっと前からこれを知っていた気がした。手技ではない。指の使い方を覚えていたわけでもない。ただ、この箱だけは、自分のものだと、手のひらが知っていた。
子宮の裏の「何か」が、女医の緩んだ指の隙間から、するりと抜けた。
それは、私の腕の方へ来た。
掌に乗るほどの、白い、赤子になりきれなかった何か。それが私の指にしがみつこうとした。腹の中へは戻りたくないと、震えていた。
私は、箱の蓋を開けた。
中には、もう一つ箱があった。その中に、また一つ。入れ子の奥のいちばん小さなひとつだけが、空いていた。
「おいで」
子が、箱に入った。
閉じる前に、ひとつ、名前をつけた。とっさに浮かんだ、なんということもない名前を。名前をつけられたその子は、もう「何か」ではなくなっていた。いた、と言える者になった。
カチ、と音がして、箱が閉じた。
「やめなさい」
太った女の声から、優しさが消えた。
「それは、わたしの子。みんな、わたしが抱いていなければならない」
「ちがう」
気づくと、私は言っていた。
「抱いてるんじゃない。閉じ込めてるだけ」
女の顔から、表情というものが抜け落ちた。母の顔でも、怒りの顔でもない。ただ、ルールに従えない事態を前にした、機械の止まる前のような、空白の顔だった。
子たちが、来た。
壁から、床から、天井から。塗り潰されたひび割れの奥から、底の抜けた桶の中から、塗り潰されたカルテの理由の欄から。生まれそこねた者たちが、いっせいに、私の方へ来た。
お母さん。お母さん。
太った女が腕を広げた。廊下を埋めるほどの体で、子たちを腹へ戻そうとした。けれど子たちは、女の腹を避けて、私の手元の箱へ流れ込んでいった。
私は、数えた。
ひとつずつ、箱を開けて、子を入れて、名前をつけて、閉じる。開けて、入れて、名前をつけて、閉じる。骨の女が病室で繰り返していた、あの動きそのものだった。あの女は、ずっとこれを練習していたのだ。終われないまま、誰かが終わらせに来る日まで、折り続けていた。
何人いたのか、わからない。
途方もない数だった。けれど、ひとりも飛ばさなかった。ひとりずつ、名前をつけた。掌に乗るほどの白い者たちが、名前をもらって、箱の奥へ、奥へと納まっていった。
太った女の体が、しぼんでいく。
抱えていたものが抜けていくたびに、せり出した腹がたわみ、肉が垂れ、傘が床に落ちた。やがて女は、ただの小さな、皺だらけの老婆になった。それでも母の形だけは崩さず、最後まで腕を広げたまま、薄れて、消えた。
最後の子を、納めた。
箱は、もう、いちばん小さなひとつを残すだけになっていた。
それを、開けた。
中は、空だった。
その空白を見たとき、私は、自分がここで何をするべきか、わかった気がした
この箱は、わたしのものだ。
私は、堕胎専門の分娩台という冷たい鉄の上で、奇跡のように生まれ落ちた。
生への執着ではなく、あれはきっとただの、構造の「隙間」だったのだろう。
私は、空の箱をしばらく見ていた。
蓋に指をかける。
あとは、閉じるだけだった。
けれど、できなかった。中に何も入れないまま閉じてしまえば、もう二度と開けられない気がした。
そのとき、どこかで、カチ、と音がした。
女医の手が、動いた。
私のことなど、もう見ていない。空になった台に向き直り、緑色の布の下へ、また器具を差し込んでいる。
――キチキチキチ。
手首を返し、引き抜き、琺瑯の桶で二度叩く。
カン。カン。
誰もいない台に、女は穏やかに言った。
「力を抜いてちょうだい。すぐ終わるから」
その女を、私は止めなかった。あの人もまた、終われない人なのだ。
私は、処置室を出た。
*
気づくと、朝だった。
旧棟の入り口に、私は座り込んでいた。火事の跡はどこにもなく、煙も、焦げた匂いもない。ただ、立ち入り禁止の札のかかった渡り廊下の向こうに、ドアのない暗い入口が、ぽっかりと口を開けているだけだった。
警報が鳴ったことも、煙に巻かれたことも、誰も知らないようだった。
退院の日は、よく晴れていた。
手続きは、何事もなく済んだ。看護師は事務的で、私のことなど、もう覚えていないようだった。同じ病室にいたはずの骨と皮の女は、いつのまにかいなくなっていた。ベッドはきれいに整えられて、誰かがそこにいた痕跡もなかった。
会計を待つあいだ、売店の前を通った。
入院した日、私はここで雑誌を買おうと思っていた。表紙のいちばん派手なやつを。芸能人の誰がどうしたとか、今年の流行とか、どうでもいいことだけを目で追って、あの病室の空気を塗り替えてしまいたかった。
私は、売店の前で、足を止めなかった。雑誌の表紙は、もう、私の目に入ってこなかった。
鞄の中には小さな箱が、ひとつ入っている。そのいちばん奥に、空いた区画がひとつだけある。箱を捨てることも、閉じることも、できなかった。
外に出ると、光がまぶしかった。タクシーが客を待ち、人が行き交い、世界はいつも通り、健やかに回っていた。私が帰りたいと願った、正しい世界。
私は、そのなかへ歩き出した。
箱を抱えたまま。
数えきれなかったものを、ひとつだけ、抱えたまま。
*
それから、ときどき、壁を見る癖がついた。
家のタイルでも、駅の柱でも、どこでもいい。細いひびが走っているのを見つけると、目で追わずにいられない。たいていは、途中で枝分かれして、止まっている。
けれど、まれに。
一本だけ、まっすぐに、床のすぐ下まで伸びているのがある。
そういうときは、その先を、追わないようにしている。
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――怪異蒐集録 蒐集第二号 「空き箱」 終




