7. 温熱石
パン屋さんの角を曲がったとき、私の足は唐突に止まってしまった。
季節は冬の真っ只中にある。
連日吹き付ける凍てつく北風によって街全体が白く凍りつき、石畳の隙間からは足底を通して冷えが這い登ってくる。
だが、私の足を止めさせたのは、その厳しい寒さだけではなかった。
「おねがい! ほんの少しでいいんです。この『温熱石』の魔力の補充を! 子どもが……寒さで震えていて……っ!」
くたびれた薄い綿入れを着た若い女性が、霜の降りた石畳に膝をつき、道具屋さんの店主にすがりつくようにして泣きついていた。
抱えられた継ぎはぎだらけの布の中には、冷気で鼻を赤くした、ぐずりだしそうな1歳くらいの子どもがいる。
「ダメだ! その石は使えないって何度言ったらわかるんだ!懐炉を買いにいくんだな。ほら、どいたどいた!」
店主は心底嫌そうに手やちりとりを振って、追い払おうとする。
懐炉は魔女が作る物で、高価だし、温熱石のように広範囲で温めてくれるものではなかったはずだ。この女性が買えるとは思わないが……
店先から立ちのぼる焼きたてのパンや温かなスープの湯気とは対照的に、その言葉には一切のぬくもりがなかった。
周囲を行き交う街の人々も、チラチラと可哀想そうに視線を向けつつも、魔法省の厳しいお咎めや罰則が怖いのか、誰ひとりとして立ち止まろうとはしない。
関わらないように、さっと歩幅を速めて通り過ぎていく。
子どもを抱く母親の指には、冬のあかぎれと苦労で刻まれた痛々しい裂け目があり、髪の毛は安価な麻紐でひとつに括られているだけだった。
(……トロノーメよりもひどいな)
トロノーメは、全体的に家も綺麗で、治安もいい方ではある。
困っている人がいたら、だいたい助け合いになるし、お隣さんとのやり取りも多い。
何より、温熱石くらい、そこら辺の年寄りにお願いすれば新しいものと交換出来ていた記憶がある。ひとつの石の寿命が1~5年くらいなので滅多に交換に立ち会うことはなかったが。
私は、難しい政治も、細かい法律もわからない。でも、こんな真冬の日に目の前で小さな子供が寒さに震え、お母さんが泣いているのを、見て見ぬふりをして通り過ぎることなんてできなかった。
「ネロルちゃん?」
静かに佇む私に気づき、ウルエさんが振り返って声をかけてくれた。
ウルエさんは全てを察したようにふっと目を細めた。
そして、私を引き留めるどころか、いたずらっぽく口元をゆるめたのだ。
「よし、僕にまかせて」
ウルエさんはひらひらと手を振ると、すっとお母さんの元へ歩み寄った。
そして、周りの人に聞こえないほどの小さな声で、けれど安心させるような優しいトーンでお母さんに話しかけた。
「困っているようだね。ここだと目が多すぎる。ちょっとあっちの日陰で話を聞こうか」
突然現れた身なりのいいウルエさんに驚いていた様子だったけど、彼の落ち着いた雰囲気に縋るようにして、小さく頷いた。
ウルエさんは何気ない仕草で周囲の視線を遮るように立ち回り、ツールさんに子どもを抱えるよう指示を出している。
すぐに、お母さんを大通りの喧騒から外れた、静かな裏路地の奥へと自然に誘導していった。
古い建物の陰になり、凍てつく北風が遮られる人通りの途絶えた場所。
その路地裏で、お母さんはかじかんだ手で包んでいた布から黒い石を出した。
ツールさんに抱かれた子どもは、いつの間にか魔法によって、じんわりと広がる暖かさに包まれていた。
「あの……」
「僕じゃなくてね、この子が君たちの力になりたいそうなんだ」
ウルエさんに促され、私はお母さんの前でそっと膝をついた。
「あの……失礼します。これ、触らせてもらってもいいですか?」
「えっ……? あなたは……」
「優秀な僕の弟子ですね。」
早く2人を温めてあげたい。
お母さんの持っている温熱石に杖をあてる。
魔力が底をつき、氷のように冷たくなっていた石。昨日は失敗したけど、今日は……
私はゆっくりと息を吐き、胸の奥にあるあたたかな感覚を呼び澄ませた。
妹に線香花火を見せてあげたときのこと。お布団の中でみんなで笑い合ったときのこと。お日様が当たってぽかぽかする縁側の匂い。
そういった穏やかな記憶と感情を、細い絹糸を紡ぐようにして、優しく、丁寧に石の奥深くへと染み込ませていく。
魔法使いの魔法。大人たちが呪いと呼んで恐れるやり方だ。だけど、私にとっては誰かを傷つけるための力じゃない。
――じわ……
杖を通して、石がトクンと小さな鼓動を打った気がした。
次の瞬間、真っ黒だった石の表面から、ふわりと春の日差しみたいな優しい橙色の光が溢れ出した。
鼻をつくような焦げくさい魔力臭は一切しない。ただ、陽だまりの中にいるような心地よい温もりが、じんわりとお母さんの手から周囲に広がっていく。
「あ、あたたかい……!? 石が生き返った……!? ほんとうに……」
橙色の妖精がほわほわと石の周りを飛んでいる、成功した。
良かった。
お母さんは目を見開き、信じられないものを見るように自分の手元と私を交互に見つめている。
私は微笑みながら、さらに深く魔力を注ぎ足した。
今日だけじゃなくて……この厳しい真冬を乗り切れるくらい、ずっと長く温かさが続きますように。少しずつ、優しく熱を放ち続けますように……。
「秘密にしてくださいね。その子、たくさん温めてあげてください」
私は妹に秘密事を教えるときみたいに、口元に人差し指を立ててにっこりと笑ってみせた。
お母さんは大きな涙を溢れさせ、子どもを大切に抱きしめながら、何度も、何度も私に頭を下げた。
「ありがとう……ありがとうございます! 本当にありがとうございます……! 私の名前はシニクと言います。この御恩は一生忘れません……!」
「シニクさん、だね」
「はい。あの、もし可能だったらうちに来て欲しくて。」
名前を確認したウルエさんが、ふとポケットから懐中時計を取り出し、顔をしかめた。
「……ああ、ごめん! ちょっと今日は急用があって急いでいるんだ。シニクさん、詳しい話や何か困りごとがあれば、明日、出会ったのと同じ場所で朝の八時頃に会おう。いいね?」
「えっ、あ、はい! わかりました!」
突然の提案にシニクさんは驚きつつも頷いた。ウルエさんはツールさんに視線を送る。
「ツール、悪いけど君は準備をしておいてくれ。僕とネロルちゃんで先に用事を済ませて戻るから」
「……承知した」
ツールさんは短く答え、私に一度頷くと、寒風が吹き抜ける通りの中へと消えていった。
私もウルエさんの後に続いて買い出しなどの用事を済ませ、月が見え始めた頃に二人で屋敷へと戻ったのだった。




