4. 不思議な館
どれくらい揺られただろうか。
列車を降り立つと、寂れたホームのささやかな灯りだけが私たちを静かに見送っていた。
その先へ一歩踏み出すと、視界は途端に濃密な暗闇へと呑み込まれた。
民家は存在しているはずなのに、夜の闇に沈み込んでしまって何ひとつ判別できない。
少し前まで一雨あったのだろう。湿り気をおびた土と、濡れた草木の青く甘い匂いが混ざりこんでいた。足元には時折水たまりがあり、雲の切れ間から覗く僅かな月影をかろうじて映し出している。
満月であったなら、この心細さも少しは和らいだだろうか。歩みを進めるたび、靴先へ泥がへばりついていく感触が不快だった。
そんな悪路を、ウルエさんはまるで日中の道を往くかのように、迷いのない足取りでカツカツと進んでいく。
「……っ」
木の根に爪先を取られ、私は不格好に体勢を崩した。
「どうする? 視界が利かないと不便だろう」
右斜め上の高いところから、降ってくるような声。
煽るような含みのある声質に少し腹が立つ。
「君の故郷であるトロノーメの街は、夜でも眩しいほどだったけれどね」
そうだ。あそこは私の家をはじめ、町中が光石を利用していたから、夜の静寂など存在しなかったのだ。
「……靴の先を、光らせてみてもいいですか?」
「いいんじゃないかな」
返ってきたのは、少しばかり不満げで、けれどどこか称賛を含んだ声だった。
だって、光らせる魔法はそれしかしらない。
私はその場に屈み込み、両手で両足のつま先をそっと包み込んだ。胸の中で、あの慣れ親しんだ光石の輝きを思い描く。
次の瞬間、爪先からふわりと、芽吹いたばかりの葉のような淡い緑色の光が灯った。
「緑色か。……君は本当に、どこまでも目立たないことを選ぶんだね」
ウルエさんが少しだけ落胆したように、けれど愛おしそうな声を漏らした。
「光石のような、暖かくてハッキリした橙色にだってできたでしょう?」
「……目立つと、誰かに見つかりますから」
「ここには誰もいないよ。僕と、君と、夜の虫くらいだ」
そう笑うウルエさんの言葉を、私はただ黙ってやり過ごした。
目立たないこと。それがあの街で、私が私を守るために身につけた一番の防具だったのだから。
ささやかな光が私のスカートの裾をくっきりと浮かび上がらせた。歩くたびに跳ね上げた暗い泥が飛び散り付着している。
湿った土の冷たさが布地を透かして皮膚に伝わってくる気がして、……。
いつも身なりを整えて清潔でいるよう心がけてきた私にとって、この薄汚れた裾は、故郷から追い出された惨めな現状そのもののように思えた。
「着いたよ。中に僕の親友がいるから」
ウルエさんの声に顔を上げると、彼は何もない空間に向かって、透明な布を手繰り寄せるような奇妙な仕草をした。
途端に、暗闇の奥から一棟の屋敷が立ち現れる。肝試しにでも使われそうな古びた佇まいだが、三階建てほどの大きな館だった。その窓々には、まるで星を散りばめたように色鮮やかな明かりが点々と揺らめいている。
呆然と立ち尽くし、入って良いものかとウルエさんの顔を仰ぎ見る。
「ん? 中に入ろうか」
彼が古びたドアノブに手を触れて軽くひねると、そこにあるはずの扉の存在そのものが、煙のように消え去ってしまった。
「……!?」
「扉に刻名しておくと、登録された者以外は開けられなくなるんだ。記名の魔法陣と記銘薬を組み合わせた応用技術だよ」
不思議な仕掛けに胸が跳ねると同時に、見たことも触れたこともない魔法の世界にほんの少し恐怖が混じる。いつか私も、こんな魔法が扱わないといけないのだろうか。学び直し、新しい世界。能天気に楽しいとは言ってられない。
……それ以前に、私はどのような名目でここへ連れてこられたのだろう。
殺しはしないと彼は言っていたけれど。
扉の先は、外の静けさが嘘のような温かな光と、ハーブと古い紙の匂いに満ちていた。
驚きで固まっている私を余所に、奥の暗がりから低く凛とした声が響いた。
エントランスの奥、乱雑に本が積み上げられたソファから立ち上がった男性は、光の届く場所へとゆっくり歩み寄ってくる。
整った容姿に、隙のない佇まい。その瞳は、冷ややかな知性の光を湛えていた。
「そうした真似は、天賦の才が無ければ不可能だ。というかウルエ、また何か拾ってきたのか?犬猫や魔獣ではないのだから、速やかに返して来るべきだと私は思う」
暗闇の中から現れたその人へ向けて、ウルエさんはあきれたように肩をすくめて言い返す。
「失礼だなあ。想像力さえあればネロルにもできるようになるさ。……それに、ただの落とし物じゃない。魔法使いの女の子だよ。かわいいだろう?」
「魔法使いの女の子……」
親友と紹介されていたその人は、眼鏡の奥の切れ長な目をいっそう細め、私の足元へと視線を落とした。
「……なるほど。靴の先を淡い緑に光らせているな。道具も触媒も介さず、魔力の出力と色彩をここまで安定させて固定しているのか」
「ね、綺麗でしょう?トロノーメの光石とはまた違った繊細さがある」
ウルエさんが少し誇らしげに胸を張る。
親友さんは溜息をひとつ吐くと、細い指先で自身の眉間を揉んだ。
「あきれたな。君の適当な連れ出しに付き合わされた挙句、そんな原石を拾ってくるとは。……それで、君」
凛とした声で呼ばれ、私は思わず背筋を伸ばした。
「名前は?」
「ネロル、です」
「そうか。私はツールと言う。使えない魔法が得意なもので、ウルエの手伝いをさせられている。……立ち話も何だ、中に入りなさい。スープが冷めてしまう」
ツールさんに促され、私たちは奥の食堂へと向かった。
木製の長いテーブルに置かれていたのは、湯気が立つ野菜と香草の温かい人数分のスープ。いつの間にか冷え切っていた手先に、その温もりがじんわりと染み渡っていく。
「美味しいです……」
呟くと、ツールさんは「なら良い」と短く応え、ウルエさんは嬉しそうに自分のスープにパンを浸していた。
「で?彼女をどうするつもりだ、ウルエ。魔法省に追われる身にした以上、責任は持つんだろうね」
「顔は見られてないからきっと大丈夫。こちらが処理したって思ってるはず。それに、ネロルちゃんは皆が幸せになれる魔法を勉強したいんだってさ」
ウルエさんがにこりと笑う。その笑顔には軽薄さではなく、教導者のような鋭さが宿っている。
「言うのは易いな」
ツールさんは静かにスープを見つめていた。
不意に視線を落とした足元で、あの泥汚れが、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく消えていた。




