10. 呪われた家(3)
パタパタと小気味いい足音を響かせ、イトは嵐のように部屋を飛び出していってしまった。
残された子供部屋には、しんとした静寂と、先ほどイトが指摘した冷たい湿気、そして私の鼻腔を微かにくすぐる、奇妙な臭いだけが残されていた。
……本当に、なんて強引な子なんだろう。
思わず出そうになった溜め息をどうにか喉の奥で飲み込み、私はシニクさんに向き直った。
彼女は、1歳になる下の子を愛おしそうに、けれどどこか壊れ物を扱うような手つきでぎゅっと抱きしめていた。
その瞳には、半年前に失った長男への消えない思慕と、イトの突き放すような物言いに傷ついた色が混ざり合っている。
イトが家の歴史や構造を調べるなら、私はそれ以外をするしかない。
ややこしい事件に関わるのも本意じゃないけれど。
「シニクさん」
私は努めて穏やかな声を出した。
ウルエさんが街の人に接するときのような、トーンを真似て。
シニクさんはビクリと肩を揺らした。あの子のことは思い出したくもない、という拒絶が走ったのかもしれない。
けれど、私の目をじっと見つめ返すうちに、その強張った肩からゆっくりと力が抜けていった。
「……ハクトという名前だったんです」
ポツリと、シニクさんが呟いた。
「最初は、本当にただの夏風邪だと思っていました。半年前の梅雨の時期、しとしとと嫌な雨が降り続いた頃でした。あの子にこの部屋をプレゼントして、まだひと月も経たない頃です。最初は、なんだか身体がだるそうね、というくらいで……」
シニクさんは視線を落とし、記憶の糸をたどるように話し始める。
「でも、その後に激しい吐き気を訴えるようになったんです。食べたものを全部戻してしまって、水さえまともに受け付けなくなって……。お医者様を呼びましたけれど、『ただの胃腸の風邪だろう』と薬を処方されるだけでした。でも、薬を飲んでも一向に良くならなくて。それどころか……」
私を見つめながら話す、シニクさんの声が細く震えだした。
指は、手遊びをするように忙しく動かされていて、どこか自分を責めているようで、泣かないように堪えているようにみえる。
「数日のうちに、ハクトの髪が、枕にハラハラと抜け落ちるようになったんです。それで、そのあとは、病気で何年も伏せっている老人のように……そのまま……」
言葉が涙に詰まり、肩を震わせていた。
私は彼女の背中をそっと摩りながら、持っている限りの知識のパーツを当てはめていた。
とは言っても、本で読んだり、人から聞いた、偏った知識しかないけど……
激しい嘔吐、急激な脱毛……
胸の奥からゾワゾワとするなにかを感じた。 ……これはただの病気の症状では無さそうだな。
私は医療や病について知っていることは少ないけど。
もし食事や井戸水に毒が混ざっていたのだとすれば、同じものを口にしていたはずのシニクさんや、当時まだ赤ん坊だった下の子にも同じ症状が出るはず。
なぜ、3歳のハクトくんだけに、死に至るやうな症状が出たのか?
まだ幼いから死亡する確率が高いとはいえ、それより幼い子供は生きているし。
それに、この匂い……
もう一度、部屋の空気を深く吸い込んでみるが、やっぱり感じる。
「――あ」
思わず、声が漏れた。
そういえば昨日、中央へ向かう直前のツールさんが、ウルエさんに眉間に深い皺を寄せてぼやいていた言葉が、鮮明に脳裏に蘇った。
『あの毒物はどうするんだ?早く文献を出して公表してしまわないと、手遅れになる。死者が増えるぞ』
……あの時は聞き流してしまっていたけれど、ツールさんは確か、衣服や壁紙に使われる染料の研究について話していたはずだ。
「染料……」
ハッとして、私は子供部屋の壁を見つめた。 いま貼られている壁紙は、白地に可愛らしい小花が描かれた新しい壁紙だ。
しかし、イトがカビを指摘した家具の裏側、そこには壁紙の端が少しだけめくれ、内側が露出している部分があった。
そこに見えたのは――驚くほど鮮やかな、深い緑色の古い壁紙だった。
「シニクさん! この新しい壁紙を貼る前、元々はどんな壁だったんですか!?」
取り繕う暇もなく出てしまった私の切迫した声に、シニクさんは涙を拭いながら驚いた顔をした。
「え? ええと……元々は、祖父が昔どこからか仕入れてきた、綺麗な緑色の壁紙が一面に貼られていました。でも、ハクトの3歳の誕生日に部屋を綺麗にしてあげたくて、その上から私が新しい白い壁紙を重ねて貼ったんです……それが何か?」
「緑色で古い……」
もし、あの剥がれかけた内側の緑色が、その毒物を使った染料だとしたら?
私にはその染料がなんなのか、さっぱりわからない。
それについて調べなければ。
間違った答えの方向に進んでいるかもしれない。自分への疑いを持ちながらも、答えに近づくヒントがわかって来たかもしれない自分を、少し褒めたくなる。
……人がひとり死んでるというのに。
イトならわかるかも。きっと、そういう家の内部について調べているんだろう。
「シニクさん、私ちょっと街へ行って調べてきます! また、明日に来ますから、その温熱石の近くから離れないで、お子さんと一緒に温かくしていてください!」
「あ、ネロルさん……!?」
引き留める声を背に受けながら、私は子供部屋を飛び出した。冷たい冬の風が吹き付ける廊下を駆け抜け、玄関の重い扉を押し開ける。
目立ちたくない、面倒なことには関わりたくない。いつもの私ならそう思って足がすくんでいたはずだ。
けれど、今は一刻も早くこの謎の正体を突き止めなければいけないという衝動が、私の背中を強く、強く押していた。
あ、これじゃあイトと同じように部屋を飛び出てしまっってる。
少し前の自分の言動を後悔しながら、石畳を蹴り、白く凍りつく街へと歩き出した。




