第95話 妹が兄を超えると言った夜
国立ダンジョン学園の受験が終わったあと、試験会場で最後に告げられた一言は、妙なところだけやけにアナログだった。
「合格発表は後日、郵送にて行います」
その説明を聞いた瞬間、俺は思わず眉をひそめた。
「……郵送?」
隣で優奈も小さく首を傾げる。
「郵送なんですね」
「そこなんだよな」
俺は思わずため息を吐いた。
「最新の魔力認証ゲートだの、受験状況のリアルタイムモニターだの、海外からの情報監査枠だの、色々最新設備取り入れてるくせに、そこはアナログなのかよ⁉」
相良は、そんな俺の反応に慣れた顔で肩をすくめた。
「正式な記録が残るからだろうな。後で揉めた時に厄介なんだろう」
「いや理屈は分かるけど」
「分かるならいいだろ」
よくない。
よくないが、たしかに国が噛んでいる制度なら、変に電子化しすぎるより紙の方が安全な場面もあるのだろう。
それでも、ダンジョン学園なんて大仰なものを作っておいて、最後の結果通知だけ昔ながらの封筒というのは、どうにも拍子抜けする。
だが、その小さな拍子抜けは、家へ帰る頃にはもうどうでもよくなっていた。
気になっていたのは、一つだけだ。
唯。
試験会場で、俺の目の前に現れた妹。
三階層でキングオークの首を、糸鋸みたいに落としてみせた妹。
あいつが、どうしてここへ来たのか。
母は目を覚ました。
まだ病院でリハビリ中ではあるが、少なくとも“このまま何も分からないまま眠り続けるかもしれない”という最悪からは抜けた。
だから、終わったはずだった。
いや。
少なくとも、家族のために命を削るような理由は、もうなくなったはずだと思っていた。
なのに、唯は自分の意志で試験会場へ来ていた。
俺が何を言っても、それを聞いた上で、なお来ていた。
だから、その夜。
家へ戻ってから、俺は唯を呼んだ。
母はまだ病院にいる。
リハビリが軌道に乗るまでは退院を急がない方がいいと医者に言われている。
だから家の中は、いつもより静かだった。
父さんが生きていた頃なら、こういう話は居間でなんてしなかったかもしれない。
母さんがいたら、たぶんもっと別の言い方もできたのだろう。
でも、今は俺と唯だけだ。
食卓の上には、飲みかけの湯呑みが二つ。
時計の音だけが妙に大きく聞こえる。
唯は俺の向かいへ座った。
逃げる顔ではなかった。
かといって、開き直ってもいない。
言われるべきことは分かっていて、その上で座っている顔だ。
俺はしばらく黙ってから、ようやく口を開いた。
「……なんで、ダンジョン探索者になろうと思った?」
唯はすぐには答えなかった。
俺も続ける。
「もしお前に何かあって、その結果、母さんがどうなるか想像つかなかったのか?」
「お前までいなくなったら、母さんはどうなる」
「俺は、あの時、待ってくれって言ったよな」
言葉にしていくほど、自分でも声が硬くなっていくのが分かった。
責めたいわけじゃない。
でも、平然ともしていられない。
唯は一度だけ視線を落として、それから俺を見た。
「じゃあ兄さんはいいの?」
予想していた。
でも、実際に言われるとやっぱり痛い。
「今、実質兄さんの金で生活できてるよね」
唯は静かに続けた。
「兄さんに何かあった時の方が、うちへの影響は大きいのに」
「それに関して、私に何も言わせないのはどうして?」
正論だった。
痛いほど、正しい。
俺が唯へ言ったことは、そっくりそのまま俺自身にも返ってくる。
危ないからやめろ。
家族がいるんだぞ。
母さんのことを考えろ。
そんなこと、俺だって言われたら返せない。
「兄さんはいいの?」
唯がもう一度言う。
「兄さんが世界中飛び回って危ないことしてる時、私は何も言っちゃいけないの?」
「兄さんに何かあったら、今のうちで一番困るのは私なのに」
俺は黙った。
反論はあった。
俺はもうある程度強い。
危険の質が違う。
判断できる場数もある。
でも、それは“妹を止めるための正しさ”にはならない。
少なくとも、今この場では。
唯は膝の上で手をぎゅっと握った。
それから、少しだけ声を震わせながら言う。
「私は、兄さんに何かあった時、最初に助けられるようになりたい」
その一言が、思った以上に深く刺さった。
「母さんが眠ってた時も」
「兄さんが世界中飛び回ってた時も」
「私は、待つことしかできなかった」
唯は、そこで一度だけ唇を噛む。
「病院で待ってるしかないのも、何もできないのも、あれが一番つらかった」
「だから、あのままじゃ嫌だった」
「それくらいできないと、私はこの先、自分に自信を持って生きていけないと思った」
正面から、そう言われる。
逃げ道のない顔だった。
誰かに言わされている顔じゃない。
勢いで言っている顔でもない。
時間をかけて、自分の中で何度も確かめた人間の顔だ。
「だからダンジョン探索者になって……」
唯はそこで、はっきりと言った。
「兄さんを超える」
その瞬間、時間が少しだけ止まった気がした。
兄さんを超える。
その言葉で、俺は思い出した。
父さんが死んだ時のことを。
あの日の匂い。
あの日の冷たさ。
あの日、自分の目で見た父親の死体。
何もできなかった自分。
どうしても届かなかった現実。
その時、俺は確かに思っていた。
俺が弱いんだから、俺自身の手でどうにかしないといけない。
責任を取るんだ。
俺自身の手で、父さんの上を行く。
父さんを超える。
だから母さんには、ダンジョン配信者であることを隠した。
普通の配信者として活動している設定で嘘をついた。
心配をかけたくなかったのもある。
でも本当は、それだけじゃない。
父さんを失ったあと、弱いままの自分でいたくなかった。
誰かに守られる側のまま、終わりたくなかった。
だから俺は、自分の手で上へ行くと決めた。
今、唯が言ったことは、その時の俺とまったく同じだった。
だから分かる。
多分、止めても止まらない。
たとえ今ここで怒鳴っても。
危ないからやめろと言っても。
家族のためを思えと言っても。
あの時の俺が、誰に何を言われても止まらなかったみたいに。
今の唯も、たぶん止まらない。
俺はしばらく何も言えなかった。
時計の音だけが、変に大きい。
唯も黙っている。
俺の返事を待っているが、急かしはしない。
その沈黙が、妙に長かった。
目を閉じる。
父さんの顔が浮かぶ。
病院の母さんの顔も浮かぶ。
今日の唯の試験中の背中も浮かぶ。
俺はずっと、守る側だと思っていた。
唯は守る対象だと思っていた。
でも、その見方だけではもう追いつかないところまで、唯は来てしまっている。
だったら、次に俺がやるべきことは何だ。
止めることじゃない。
無理やり折ることでもない。
それで余計に見えないところへ行かれたら、たぶん一番まずい。
だったら。
ゆっくり息を吐いて、俺はようやく目を開けた。
「……じゃあ」
唯が少しだけ顔を上げる。
「協力ぐらいはさせろよ」
言った瞬間、唯が本気で驚いた顔をした。
「え?」
たぶん、止められると思っていたのだろう。
怒鳴られるか、拒絶されるか、そのどちらかを覚悟していた顔だった。
俺はもう一度言う。
「手伝うって言ってるだろ」
「強くなりたいんだろ?」
唯は目を見開いたまま、しばらく何も言わなかった。
信じていいのか分からない顔。
本当に今、兄がそう言ったのか確認している顔だ。
「……いいの?」
「良いよ」
俺は答えた。
「その代わり、勝手に一人で突っ走るな。隠し事も減らせ。やるならちゃんと見えるところでやれ」
唯の喉が小さく動く。
「兄さん」
「それに」
俺は少しだけ視線を逸らした。
「いつまでも、あいつに迷惑かけるわけにもいかないからな」
唯が瞬きをする。
あいつ。
つまり、芽依だ。
環境魔力の扱いも、唯の基礎も、たぶんかなりあいつの世話になっている。
それが悪いとは思わない。
でも、いつまでも巫女服少女――結川芽依に頼りっぱなしというわけにもいかない。
俺の妹なら。
俺が見られるところは、俺が見るべきだ。
唯はしばらく黙っていた。
それから、ようやく小さく笑った。
泣きそうなのを、必死で堪えるみたいな笑い方だった。
「……ありがとう」
「まだ礼言う段階じゃない」
俺は即座に返す。
「まず、お前が何をどこまでできるのか、最初から全部聞く」
「《魔力変化(糸)》もそうだし、環境魔力をいつからどう使ってるのかもだ。学園の試験見ただけじゃ足りない」
唯はその言葉に、今度は少しだけ居住まいを正した。
「うん」
「ちゃんと話す」
俺はそこで、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
本当は、まだ全然整理しきれていない。
唯が受験していたことに納得したわけでもない。
心配が消えたわけでもない。
でも、少なくとも一つだけは決まった。
もう“守るだけの妹”として扱うことはできない。
唯は自分で選んで、自分の意思で危険の側へ足を踏み入れた。
だったら、俺も兄として、別の形で向き合うしかない。
唯が少しだけ表情を柔らかくしてから、ぽつりと言った。
「でも、兄さんが協力してくれるなら……」
「たぶん、私、本当に兄さん超えられるかも」
「調子乗るな」
俺は思わず言った。
「まだ一回試験受けただけだろ」
「でも、超えたいのは本当だから」
その返しが妙に真っ直ぐで、少しだけ笑いそうになった。
父さんを超える、と本気で思っていた頃の自分も、たぶん周りから見たらこうだったのかもしれない。
そう思うと、変な話だが少しだけ救われる。
止められなかったことに対してじゃない。
分からなかったわけじゃなかった、ということに対してだ。
この衝動は、俺にも覚えがある。
だから俺は、唯を完全には否定できなかった。
居間の窓の外は、すっかり暗くなっていた。
家の中は静かだ。
でも、さっきまでとは静けさの意味が少し違う。
気まずい沈黙じゃない。
何かが決まった後の静けさだった。
唯が湯呑みに手を伸ばし、少し冷めたお茶を一口飲む。
俺も同じように飲んだ。
「学園、たぶん受かるよね」
唯がそう言う。
「落ちたら逆に困る」
俺は正直に答えた。
「お前、三階層ボスまで行って四位だぞ」
「兄さんも優奈さんもいたから、あんまり実感なかった」
「周りが異常なだけだ」
それは本当だった。
俺。
優奈。
イタリア。
イギリス。
そういう連中に囲まれていたから、四位が普通みたいに見えるだけだ。
唯は普通じゃない。
少なくとも、もう“何もできない側”ではない。
その事実を、これから俺も受け入れていかなければならない。
「じゃあ」
俺は湯呑みを置きながら言う。
「まずは学園の結果待ちだな。合格通知、郵送なんだろ」
唯が少しだけ吹き出した。
「そこだけ古いよね」
「本当にそこだけだよ」
さっきまでの重い空気が、そこでようやく少しだけ緩んだ。
母さんは目を覚ました。
唯は自分の道を選んだ。
俺はその唯を、今度は別の意味で支えることにした。
全部が一気に片づいたわけじゃない。
むしろ、また新しく始まることの方が多い。
それでも、たぶん今日はこれでいい。
少なくとも、この家の中でまた一つ、言葉にして決められたことがあるのだから。
(つづく)




