第93話 糸で首を落とす妹
結城唯がゲートの向こうへ消えたあと、俺はしばらく呼吸の仕方を忘れていた。
視界はモニターを向いているのに、頭だけがついていかない。
何でここにいる。
どうして受験している。
母さんは目を覚ましただろ。
もう、お前が命を賭ける理由なんて――。
そこまで考えて、すぐに自分で自分の思考を止めた。
違う。
分かっている。
あそこまで俺が言って、それでも唯がここへ来たということは、誰かに無理やり連れてこられたんじゃない。
あいつが、自分で選んで、自分の足でここまで来たということだ。
分かっている。
だからこそ、余計に苦しい。
右手にはまだ、優奈が握ってくれていた温度の残りがあった。
優奈はもう手を離していたが、さっきの「落ち着いてください」という声だけは、まだ頭の奥に残っている。
今ここで俺が騒いでも、何にもならない。
むしろ唯を追い詰めるだけだ。
だから俺は、止める代わりに見るしかなかった。
モニターが切り替わる。
受験番号。
名前。
抽選階層。
――結城唯/三階層。
その表示に、思わず目を見開いた。
「三階層……」
優奈も小さく息を呑む。
三階層。
オークとキングオークの層。
俺が当たりだと判断した階層だが、それは俺だからだ。
唯は俺じゃない。
あいつに高速移動はない。
圧倒的な身体能力もない。
《貫通》もない。
正面から切り抜ける力押しの適性は、どう考えても低い。
最悪だ、と思った。
だが次の瞬間、その最悪は少しだけ形を変えた。
唯は、三階層へ入ってすぐには動かなかった。
通路の入口。
まだ魔物の反応が近くにいない、最初の数秒。
普通の受験生なら、その時間はただ周囲を見て、少しでも早く前へ進もうとする。
なのに唯は、最初の一歩を遅らせた。
両手を胸の前で軽く重ね、目を閉じる。
「……環境魔力」
その呟きに、俺はようやく理解した。
先に取り込む気か。
周囲に魔物がいない今が、一番安全だ。
そして三階層は、他の低層より魔力濃度が少しだけ高い。
なら、先に環境魔力を引き込んで手元の総量を増やす方が正しい。
「最初が一番の狙い目って判断か……」
俺がそう呟くと、優奈がすぐに頷いた。
「はい。敵がいる状態で集中して取り込むより、最初に少しでも仕込んだ方が安全です」
芽依のところで環境魔力について学んでいた。
その成果だろう。
次の瞬間、唯は目を開き、まっすぐ前を見た。
そして、魔法名を唱える。
「≪魔力変化(糸)ー極≫」
「≪付与≫」
「≪拡張魔力ー切断≫」
三種同時発動。
俺はその瞬間、さっきまでとは別の意味で言葉を失った。
「……は?」
思わず口から出た。
魔力変化シリーズ。
それ自体は珍しい系統じゃない。
魔力の形を板状、槍状、弾丸状、膜状みたいに変える系統は、国内外の共有資料にもいくつか載っている。
俺も当然知っている。
でも。
糸状?
そんな変化形、聞いたことがない。
少なくとも、俺が知る範囲の共有情報にそんな記述はなかった。
日本国内だけじゃない。
海外の攻略資料まで含めても、糸なんて聞いたことがない。
その驚きは、どうやら俺だけじゃなかったらしい。
少し離れた位置で見ていたイギリスの金髪ツインテールが、初めてわずかに眉を動かした。
ピンク髪のイタリア人も、さっきまでの軽い笑みを引っ込めて画面に見入っている。
合法的な情報監査枠――要するに各国のスパイ連中まで含めて、今の一手には驚いた顔をしていた。
知られていない。
少なくとも、広くは。
唯の両手の間に、細い魔力の線が生まれる。
最初は不安定な蜘蛛の糸みたいに見えたそれが、《付与》によって一気に輪郭を持った。
強度が上がる。
張りが出る。
そこでさらに、三つ目の魔法が重なる。
本人は「≪拡張魔力ー切断≫」と唱えた。
だが、やっていることは実質、付与拡張の切断特化だ。
糸に“ただ鋭い”ではなく、“切断するための性質”を上乗せしている。
優奈が小さく呟いた。
「《付与》で糸の強度を上げて……三つ目で切断特性を足してる」
「そうだな」
俺はモニターを睨んだまま答える。
「細いだけなら脆い。強いだけなら切れない。だから両方やってる」
つまり、唯の答えはこうだ。
速さで圧倒できない。
火力で押し切れない。
力にも、自信がない。
だから形状と性質を組み合わせて、“自分でも切れる状態”を作る。
それは弱さから逃げた答えじゃない。
弱さを全部認めた上で、その条件の中から引いた最適解だった。
最初のオークが通路の先へ現れる。
唯は正面から踏み込まない。
少しだけ壁際へ寄り、指先を動かす。
糸が走った。
ぱっと見では見えないくらい細い。
だが、オークの喉元へ触れた瞬間に赤い線が走り、遅れて上半身がずれる。
切れている。
しかも一撃で。
そのまま二本、三本と糸が増える。
唯は大きく腕を振るわない。
必要最低限の指の動きと、手首の返しだけで糸の角度を変えている。
通路を塞ぐように張るのではない。
それだと火力が散る。
細く、短く、でも一撃で届く長さだけを作って、首筋や関節へ通している。
「範囲で押してないのか」
俺は小さく言った。
優奈が答える。
「広げたら火力が薄まるって、最初から分かってるんだと思います」
その通りだった。
糸は便利だ。
でも万能じゃない。
細いままでは脆い。
太くすれば本数が減る。
長く伸ばせば制御が甘くなる。
だから唯は最初から欲張っていない。
“広く切る”じゃなく、“必要な場所だけ確実に断つ”に絞っている。
その判断が、いかにもあいつらしかった。
オークが二体、三体と倒れる。
小型だけじゃない。
中型に近い個体も、膝裏や肘、首元へ糸が入った瞬間に姿勢を崩し、そのままばらばらにされる。
斬るというより、解体に近い。
でも、押し切るだけの魔力量があるわけじゃないのもすぐに分かった。
糸は便利だが、火力の暴力ではない。
相手の急所へ通せなければ、決定打にならない。
だから唯は位置取りが慎重だった。
曲がり角を使う。
壁を使う。
正面から数で押されないよう、通路の幅そのものを味方にする。
運や瞬発力や膂力に頼る戦い方じゃない。
それが、逆に唯らしい。
「……自分が何を持ってないか、ちゃんと分かってる動きだな」
口の中だけでそう言うと、優奈が静かに頷いた。
「はい。だからこそ、なんだと思います」
そうだ。
唯は俺みたいに速くない。
優奈みたいに正面から押し切る火力もない。
だから、自分に足りないものを全部認めた上で、糸という答えを選んだ。
それは弱さの逃げじゃない。
弱さを前提にした最適解だ。
三階層の途中、オークジェネラル級の個体が現れた。
軽鎧を付けた、普通なら少し面倒な相手だ。
でも唯は慌てなかった。
糸を一本だけ伸ばし、鎧の継ぎ目へ引っかける。
次の瞬間、左右から同時に引いた。
鎧そのものを切るのではない。
隙間を広げ、動きを止める。
そこへ二本目。
三本目。
喉と脇と膝裏へ、細い切断糸が入り、オークジェネラルはまともに反撃もできないまま崩れた。
なるほど。
鎧相手でも、まともに打ち合わない。
切れないなら切れる形へ持っていく。
その考え方も、実に唯らしい。
そうして気づけば、唯はかなりの速度で三階層を進んでいた。
点数だけを稼ぐなら、途中で大型を拾い続ける方がいい。
でも唯は途中の足止めを最小限にして、かなりまっすぐボス部屋を目指している。
「ボス狙いか」
俺が言うと、優奈も少し驚いた顔になった。
「でも、三十分で三階層ボス撃破までって……」
「普通はきつい」
俺は答える。
「少なくとも、効率だけならかなりギリギリだ」
それでも唯は迷わない。
遠回りしない。
たぶん最初から、ポイントの最大値じゃなく、“自分の戦い方でどこまで行けるか”を基準にしている。
そして、ボス部屋へ辿り着いた。
モニター越しでも、会場の空気が一段張るのが分かる。
三階層ボス。
キングオーク。
俺は無意識に息を止めていた。
唯の糸は、オーク相手には強い。
でもキングオークは違う。
あれは肉体そのものが強く、魔力で身体強化もしている。
普通に糸を通しただけじゃ、切断まで届かない。
実際、開幕で首へ走らせた糸は浅かった。
皮膚は裂ける。
だが止まる。
唯もすぐにそれを理解したらしい。
そこで無理に火力を足そうとはしなかった。
代わりに、狙いを変える。
「……そこか」
俺は低く呟いた。
唯の狙いは、最初から“切り落とす”ことじゃなかった。
見動きを取れなくすることだ。
魔力の糸を、キングオークの首へ集中して巻き付ける。
一重、二重、三重。
ただ締め上げるのではない。
細く、密に、同じ場所へ。
キングオークが腕を振るう。
唯は真正面からは受けず、左右にずれて距離を保つ。
糸は切らない。
むしろ巻く。
「糸鋸か……!」
優奈が思わず声を上げた。
その言葉が正しかった。
唯は左右へ回り込みながら、首へ巻き付けた糸を交互に引いている。
鋸みたいに。
直線の切断じゃない。
回転運動と摩擦を利用して、少しずつ深く入れている。
キングオークの首が裂ける。
血が飛ぶ。
でも唯は止まらない。
足を止めれば振り潰される。
だから動き続ける。
左右に、半歩ずつ。
時々後ろへ抜けて、また巻き直す。
速くはない。
でも、確実だった。
切れ味で勝てないなら、構造で勝つ。
それがあいつの答えだ。
十秒。
二十秒。
三十秒。
長く感じた。
だが、キングオークの首は確実に削られていく。
そして最後、唯が一度だけ大きく手を引いた。
細い糸が、深く入った切断面に一気に食い込む。
遅れて、巨体の頭部がずれた。
首が、落ちる。
会場のあちこちから息を呑む音がした。
三十分以内に、三階層ボス撃破。
しかも俺みたいな高速制圧じゃない。
自分の戦い方で、ちゃんと首を落とした。
「……やった」
気づけば、俺の口からそんな言葉が漏れていた。
何に対してなのか、自分でも少し分からない。
驚きか。
安堵か。
それとも、もっと別のものか。
唯はボス撃破後、残り時間で少しだけポイントを積み、そこで帰還した。
モニターに最終結果が表示される。
四位。
数字だけ見れば、トップではない。
俺、イタリア、イギリス、その下だ。
でも、会場のざわめきはその順位以上に大きかった。
「三十分で三階層ボスまで……?」
「四位なのに、あのルートで?」
「効率だけ見たら、かなりおかしくないか」
そういう声が、あちこちから聞こえる。
当然だ。
点数だけなら、途中で雑魚や中型を多く拾った方が伸びる場合もある。
それでも唯は三階層ボス撃破まで届いた。
つまり、ボス部屋までの到達効率だけを見れば、かなり高い。
少なくとも、あの戦い方でも三十分以内にそこまで行けると証明した。
それが驚きだった。
優奈が隣で、小さく息を吐く。
「四位、ですけど……すごいです」
「ああ」
俺は短く答えた。
すごい。
それは認めるしかない。
認めるしかないし、もう一つ、胸の奥に重く沈むものもある。
あいつは俺の知らないところで、自分の答えを見つけていた。
しかも、ここまで来るくらいには磨いていた。
俺が守る側だと思っている間に。
俺が「待っててくれ」と言っている間に。
唯は帰還ゲートから出てきた。
息は上がっている。
手首も少し赤い。
でも、ちゃんと立っている。
視線もぶれていない。
その姿を見た瞬間、さっきまでの驚きとは別の感情が喉へ詰まった。
怒るのか。
問い詰めるのか。
抱きしめたくなるのか。
自分でも分からない。
ただ一つだけはっきりしていたのは。
――もう、見て見ぬふりはできない。
唯は試験官から結果を受け取り、静かにこちらへ向かってくる。
俺はその場から動けなかった。
優奈も何も言わない。
四位。
三階層ボス撃破。
糸で首を落とす戦い方。
全部が、俺の中でまだ整理しきれていない。
唯が目の前まで来た時、ようやく口が開いた。
「……唯」
その一言しか、出なかった。
(つづく)




