第87話 国立ダンジョン学園と、休ませてくれない世界
母が目を覚ました翌日、俺はクラン本部へ呼ばれていた。
正直に言えば、行きたくはなかった。
母はまだ病院だ。
P-Dropの効果で意識は戻ったが、身体はまだ思うように動かない。
少しずつ指が動き、視線が合い、声にならない空気が喉を震わせるところまでは来た。
だが、一年眠っていた身体が、そう簡単に元へ戻るわけがない。
医者も言っていた。
回復は確かに始まっている。
でも、ここから先はリハビリが必要だと。
だから本来なら、今日は病院へ行きたかった。
母のところへ顔を出して、昨日よりどこが動くようになったのか確かめて、唯と今後のことを話して、そういう時間を過ごしたかった。
なのに、現実はそうさせてくれない。
家へ帰った時、ポストへ入っていた白い封筒。
クラン本部からの正式通知。
そして大きく書かれていた文言。
――ダンジョン学園開設に伴う編入のご案内。
その嫌な予感の正体を、今日は聞きに来ていた。
クラン本部の会議室に入ると、すでに相良が資料を広げて待っていた。
その横には優奈も座っている。
優奈は俺の顔を見るなり、小さく会釈した。
「おはようございます」
「……おはよう」
短く返しながら、席へ着く。
相良はいつもの仕事用の笑顔を崩さない。
だが、机に並べられた資料の厚みを見た瞬間、ろくでもない話が始まるのは確信できた。
「早速だが、昨日届いた封筒の件だ」
相良がそう切り出す。
「だろうな」
俺はため息を吐いた。
「先に言っとくけど、俺ダンジョン学園で学ぶことなんてないんですけど」
優奈が少しだけ困ったように笑う。
でも、そこはたぶん優奈も同じことを思っていたのだろう。
「なんなら最前線の情報に関わってるし」
俺は続けた。
「最近のダンジョン事情だけ見れば、普通の教師より俺の方が新しい情報持ってるまである」
「そうだな」
相良はあっさり頷いた。
「その認識自体は、だいたい正しい」
「じゃあ何で呼んだ」
「そこから説明する」
相良は手元の資料を一枚、こちらへ滑らせた。
見出しには大きく、国立ダンジョン学園設立に関する基本方針、とある。
いかにも役所が作りましたという感じの、固くて読みづらそうな文章だ。
俺が露骨に嫌そうな顔をしたのを見て、相良は簡単に要点だけを拾って説明し始めた。
「これまでは、どの国も基本的に同じ方針だった」
「自国ダンジョンの攻略を進め、スタンピードを防ぎ、自国の混乱を最小限に抑える。それが第一だった」
「まあ、そりゃそうだろ」
俺は答える。
「他国より先に、自分の国が潰れたら意味がない」
「その通りだ」
相良は頷いた。
「だからノウハウも人材も、基本的には各国で囲い込む流れが強かった」
そこまでは分かる。
というより、ここまで世界中を回ってきて嫌というほど見てきた。
イギリスはイギリスで、強い探索者を喉から手が出るほど欲しがっていた。
ロシアは中国から飴を融通してもらっていた。
中国は中国でネクロマンスをどう扱うかに神経を尖らせていた。
どの国も、自分たちの余裕なんて本当はそこまで大きくない。
そんな中で、攻略ノウハウを他国へ流すのは、普通に考えれば後回しになる。
でも。
「今回、アメリカが主張した」
相良が続ける。
「隣国でダンジョン由来のスタンピードが起き、その結果、その国家が再起不能になった場合、その影響で自国も危機に陥る」
俺は少しだけ目を細めた。
なるほど。
カナダの件だ。
式神ダンジョン。
あの面倒くさい適応型のダンジョン。
あれが十年後、本格始動した時にカナダが抑えられなかった場合、当然アメリカだって無傷じゃ済まない。
相良は言う。
「強い国は、周辺諸国に最低限のダンジョン攻略ノウハウを教えないと、いつか自分たちも滅びる」
「アメリカのその主張は、かなり理にかなっていた」
優奈が小さく呟く。
「たしかに……」
「助けない方が、あとで自分に返ってくるってことですよね」
「そういうことだ」
相良が答える。
「一国だけが強ければいい段階では、もうなくなってきた」
会議室の空気が少しだけ重くなる。
これはたぶん、もうカナダだけの話じゃない。
今後、隣国同士のダンジョン攻略支援は増える。
つまり攻略者の需要が増える。
知識も、人材も、今よりもっと必要になる。
「そこで出てきたのが、ダンジョン配信者やダンジョン探索者を増やすための制度改革だ」
相良は資料の別ページを開いた。
「その一つとして、日本政府が考案したのが国立ダンジョン学園」
俺は机に肘をついて、わざとらしく天井を見た。
「……嫌な予感しかしない名前だな」
「名前に文句を言う前に話を聞け」
相良は事務的に返す。
「はいはい」
そこで優奈が少しだけ首を傾げた。
「でも、どうして“学園”なんですか?」
「普通に訓練施設とか、探索者育成校とかじゃなくて」
いい質問だった。
というより、そこは俺も少し気になっていた。
相良は資料を指先で叩きながら説明する。
「理由はいくつかある」
「一つは年齢層だ。現状、若い探索者の発掘と育成が圧倒的に足りていない。もう一つは、既存の学校教育と切り離すと、逆に人材が集まりにくい」
「要は、若いうちから半ば正規ルートとして乗せたいってことか」
俺が言うと、相良は頷く。
「そうだ。部活動や進学と同じように、“ダンジョンを学ぶ進路”を制度化する」
「探索者を、特殊な変わり者ではなく、一つの職能予備軍として扱う方向に寄せたいらしい」
優奈は少しだけ納得した顔になった。
「なるほど……」
「増やしたいなら、最初から道が見えてた方がいいですもんね」
「その通りだ」
そこで俺は口を挟んだ。
「で、それと俺に何の関係がある」
「ある」
相良は即答した。
「かなり」
嫌な言い方だ。
その時点で、ろくでもない続きがあるのは分かる。
相良はページを一枚めくり、別紙を取り出した。
そこには“協力要員候補”という一覧があり、いくつかの上位クラン名と、その所属探索者の属性や実績らしきものが書かれている。
「ダンジョン学園には、教師が不足している」
「まあ、だろうな」
俺は言った。
「そんなの、急に用意できるわけない」
「急に用意しようとしているから不足している」
相良は淡々と返す。
「それに、仮に教育免許持ちの教師を集めたところで、ダンジョン実戦の最新知識には追いつけない」
たしかにその通りだ。
ダンジョンは、教科書ができた頃にはもう古くなる。
昨日までの最適解が、今日には死んでいることだってある。
「本職の教師だけでは、授業が机上論になる」
相良は続けた。
「若い探索者を増やすには、“実際に生きて帰っている人間”が近くにいる必要がある」
そこでようやく、俺は嫌な話の全体像が見えてきた。
「……教師をやれってことか?」
口にすると、優奈が少しだけ目を見開いた。
だが、相良は首を横に振る。
「正式な教師ではない」
「そこまでは求めていない。というか、お前に今の形で教壇に立たせたら、多分苦情が出る」
「何でだよ」
「言い方が雑だからだ」
相良は迷いなく言った。
横で優奈が小さく吹き出す。
納得したらしい。
ちょっと腹が立つ。
「じゃあ何だ」
「生徒枠だ」
相良は答えた。
「ただし、普通の生徒ではない。上位クランから実力者を募って、生徒として編入させる。その実力者が授業や実戦演習に混ざることで、教師側の負担を減らし、日本全体のレベルを上げやすくする」
言っている意味は分かった。
つまり、教師が足りないから、現役の強い探索者を“学生側”へ入れて、授業の質そのものを底上げするわけだ。
変な制度だ。
でも、現実的ではある。
優奈が少し考えてから言う。
「強い人が教室に一人いるだけで、空気って変わりますもんね」
「そうだ」
相良は頷く。
「それに実技演習では特に大きい。最新層の情報を知っている現役探索者がいるだけで、授業そのものが古くなりにくい」
俺はそこで、心底疲れたみたいに椅子へ背中を預けた。
母が目を覚ましたばかりなのに。
ようやく一息つけるかと思ったのに。
今度は国家規模の人材育成だ。
本当に、世界は休ませてくれない。
「何とも言えない顔してますね」
優奈が小さく言う。
「何とも言えないだろ」
俺は返した。
「昨日までP-Dropだのカナダだのやってて、今日は学園って。振れ幅がでかすぎる」
「それは……そうですね」
優奈もさすがに苦笑した。
相良は俺の反応を見ても構わず続ける。
「もちろん、強制ではない」
「だが、お前が入る意味は大きい」
「意味って何だよ」
「知識だ」
即答だった。
「お前は今、最前線の情報にかなり深く関わっている」
「各国のダンジョン事情を見ているし、攻略の成否も、何が足りないのかも、普通の探索者よりずっと広い視点で把握している」
そこは否定しづらい。
自慢じゃない。
でも事実として、イギリス、香港、ロシア、アメリカ、ルクセンブルク、インド、カナダと、ここまで回ってきた高校生なんて、そうそういない。
「その知識を、全部授業で喋れとは言わない」
相良は言う。
「ただ、生徒側にお前のような人間が一人いるだけで、教師の説明がズレた時に修正が利く。実戦演習も、現実寄りに調整しやすくなる」
「要するに、便利屋か」
「言い方は悪いが、近い」
相良はあっさり認めた。
「それと、若い探索者にとって“実在する目標”が近くにいることも大きい」
俺はそこで少しだけ考えた。
実在する目標。
それはつまり、配信でしか見ない強者ではなく、同じ教室にいて、同じ空間で息をしている“本物”がいるということだ。
たしかに、それはたぶん効く。
配信や噂だけだと、どうしてもどこか遠い。
でも目の前にいるなら、人はそこへ寄ろうとする。
「兄さんに向いてるかはともかく」
優奈がぼそっと言った。
「必要かどうかで言えば、必要なんでしょうね」
「向いてるかはともかく、って何だ」
「えっと……」
優奈が少しだけ視線を逸らす。
「教える時、ちょっと厳しいので」
それはさっきも相良に言われた。
何だその評価。
とはいえ、俺自身も全否定はできなかった。
丁寧に説明するのは得意じゃない。
必要なことを必要なだけ言って、後はやれ、の方が早いと思ってしまう。
それは教育向きではないのだろう。
相良が資料を閉じながら、最後にこう言った。
「これは、世界の流れでもある」
「個人の英雄に頼る段階から、攻略知識を制度として残す段階へ移ってきている」
その一言で、妙に腹へ落ちた。
たしかに、ここまでの世界は“誰が強いか”で回っていた。
優奈。
芽依。
リアム。
ネクロマンス。
ロシアの重工業化。
そういう、飛び抜けた個人が流れを変えてきた。
でも、それだけではもう足りない。
隣国が潰れれば、自国も巻き込まれる。
だったら、最低限の攻略知識は広げないといけない。
そのために学校を作る。
強い探索者を“生徒側”へ混ぜて、教育の速度を上げる。
理屈としては、かなり筋が通っていた。
筋が通っているからこそ、面倒だ。
「……で」
俺はようやく口を開いた。
「俺は、入る前提で呼ばれてるのか?」
「打診だ」
相良は答える。
「ただし、かなり期待はされている」
「便利屋としてか」
「半分はな」
そこは否定しないらしい。
会議室に少しだけ沈黙が落ちた。
優奈が静かに俺を見ている。
相良は返答を急かさない。
たぶん、ここで変に圧をかけても逆効果だと分かっているのだろう。
俺は窓の外へ視線を流した。
国立ダンジョン学園。
名前からして面倒だ。
教師不足。
上位クランから実力者を募る。
実戦知識の底上げ。
制度として攻略を残す。
意味はある。
かなりある。
それはもう認める。
でも、今の俺にそれを背負う余裕があるのかと聞かれれば、正直よく分からない。
母は目を覚ましたばかりだ。
唯のこともある。
クランの案件だって終わったわけじゃない。
なのに、今度は学園か。
「休ませてくれないな、本当に」
思わず、そう漏れた。
相良はそこで珍しく少しだけ笑った。
「世界が動いている時は、そういうものだ」
「雑なまとめ方するなよ」
「雑でも本当だ」
相良は肩をすくめる。
「まあ、返事はすぐでなくていい。だが、開設はそう遠くない」
それだけ言って、資料の束をこちらへ押し出した。
「学園の概要と、想定カリキュラム、それから協力要員の扱いについてだ。目を通しておけ」
俺は受け取った。
重い。
紙の束なのに、妙に重かった。
優奈がそっと言う。
「私も……行くことになるんでしょうか」
「お前はほぼ確定だろうな」
相良が答える。
「若手の有望株として、外される理由がない」
「うわあ……」
優奈が露骨に複雑そうな顔をした。
でも、完全に嫌がっているわけじゃない。
そこが優奈らしい。
面倒でも、意味があるならちゃんと向き合おうとする。
俺は資料を抱えたまま立ち上がった。
「とりあえず、読む」
「そうしてくれ」
会議室を出る直前、相良が最後に言った。
「結城」
「何だ」
「お前が思っている以上に、今は“教えられる側”より“教えられる人間が近くにいる環境”の方が足りない」
その言葉は、少しだけ胸に残った。
たしかに今までは、自分が強くなることばかり考えていた。
母を救うため。
金を稼ぐため。
案件を片づけるため。
でも、世界全体がそこから次へ進もうとしているなら。
強い奴がただ強いだけでは、たぶん足りないのだろう。
分かる。
分かるが、だからといって嬉しい話ではない。
廊下へ出ると、優奈が小走りで追いついてきた。
「ユウマくん」
「何だ」
「もし本当に行くことになったら」
少しだけ言いづらそうにしてから続ける。
「……あんまり怖い先輩にならないでくださいね」
「俺が?」
「はい」
俺は少しだけ考えて、答えた。
「無理かもしれない」
「ひどいです!」
そう言って優奈が頬を膨らませる。
その反応を見て、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。
面倒だ。
本当に面倒だ。
でも、たぶん次の舞台はそこになる。
ダンジョン学園。
制度として攻略を残すための場所。
母が目を覚ました次の日に、その話を聞かされるのはどうかと思う。
それでも世界は、こちらの事情なんて待ってくれない。
だったらせめて、自分で納得できる形で飲み込むしかなかった。
(つづく)




