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第86話 目を覚ました日と、その次の封筒

 アメリカ政府の担当官から、保冷ケースごとP-Dropを受け取った時、俺はしばらく何も言えなかった。


 透明な小瓶一本。

 たったそれだけなのに、今まで世界中を飛び回って積み上げてきたもの全部が、その中に詰まっている気がした。


 プロメテウス・ドロップ。

 通称、P-Drop。


 魔力を肉体に適応させ、定着させる。

 その過程で余剰の魔力を全身回復に回し、さらに副産物として、ごく少量だが永続的な回復を繰り返す状態を作る。

 怪我が治りやすくなり、リハビリも短くなる。


 資料で何度も読んだ。

 値段も調べた。

 今や月ごとに値札が逃げていく、俺にとって最悪で最高の薬。


 それが、今、俺の手の中にある。


「条件達成を確認した」

 担当官は、相変わらず感情の薄い声でそう言った。

「譲渡はこの場で正式に行う」


 ケースのロックが外される音が、妙に大きく聞こえた。


 受け取る。

 冷たい。

 小さい。

 なのに、重い。


 リアムが横で肩をすくめる。


「今回はちゃんと約束を守ったぞ」

 通訳越しでも、少しだけ得意げなのが分かる。

「次にアメリカのダンジョンで困ったことがあれば、また頼らせてくれ」


 冗談めかした口調だった。

 周囲にはそれなりに受けていた。

 だが、俺には笑えなかった。


「……やめてくれ」

 思わず本音が出た。

「今はさすがに笑えない」


 リアムが一瞬だけ目を細め、それから珍しく素直に言った。


「そうだな。悪かった」


 それで終わった。

 たぶん、こいつなりの気遣いだったのだろう。

 今の俺には、それを深く考える余裕もない。


 優奈が、俺のすぐ横からケースの中を覗き込んだ。

 薬そのものを見ているのに、その目はどこか母の病室の方を見ているみたいだった。


「……本当に、手に入ったんですね」


「ああ」


 それ以上の言葉が、すぐには出なかった。


 勝った。

 報酬を受け取った。

 ここまでの因果関係は、ちゃんと頭では分かっている。


 でも今は、達成感より先に焦りが強い。


 早く帰らないといけない。

 早く病院へ行かないといけない。

 早く母さんに使わないといけない。


 そういう気持ちだけが、胸の内側でずっと急かしていた。


 帰国までの移動時間が、ひどく長く感じた。


 優奈は途中で何度か話しかけようとして、でもやめた。

 俺の顔色がたぶん、かなりひどかったのだろう。


 それでも一度だけ、飛行機が日本へ近づいた頃に小さく言った。


「唯ちゃんには、連絡しましたか」


「ああ」

 短く答える。

「病院に来てもらう」


 それだけで、優奈はもう何も言わなかった。


 母が目を覚ますかどうか。

 そこはまだ分からない。


 P-Dropは希望だ。

 だが、万能じゃない。

 長期意識不明者に対しては個人差が大きい。

 それもちゃんと聞いている。


 それでも、賭ける価値はある。

 今はそれだけで十分だった。


 日本へ着いて、まっすぐ病院へ向かう。


 クランにも学校にも寄らない。

 家にも寄らない。

 向かう先は一つだけだ。


 病院の入口をくぐると、消毒液の匂いがいつも通り鼻を刺した。

 何度も来た場所だ。

 見慣れている。

 でも今日は、全部が少し違って見える。


 受付で事情を伝えると、主治医がすでに準備を進めていた。

 唯も先に着いていて、病室の前で待っていた。


「兄さん」


 呼ばれて顔を上げる。

 唯は、緊張で顔がこわばっていた。

 それでも、逃げる顔じゃない。


「持ってきた」

 俺はケースを少しだけ持ち上げて見せる。


 唯が小さく息を呑んだ。


「……それが」


「ああ」


 それだけで、もう十分伝わる。


 主治医がこちらへ歩いてきた。

 何度も顔を合わせた医師だ。

 疲れた顔をしているが、目だけは真剣だった。


「持ってきてくれましたか」


「はい」

 俺はケースを差し出す。

「P-Dropです」


 医師は慎重にそれを受け取り、確認用の番号と封印を見たあと、小さく頷いた。


「本物です」

 それから、俺と唯を順番に見る。

「予定通り、病院側で立ち会いのもと投与します。意識がない状態ですから、経管投与用に調整します」


 唯がぎゅっと手を握る。

 俺もたぶん、似たような顔をしていた。


「効果の出方には個人差があります」

 医師はゆっくりと言った。

「ですが、お母様の症状には賭ける価値が十分にあります」


 分かっている。

 でも、その説明を改めて聞くと、やっぱり緊張する。


 俺たちは病室へ通された。


 母はいつも通り、ベッドの上に眠っていた。


 相変わらず細い。

 相変わらず静かだ。

 目を閉じたままの顔は穏やかで、それが逆に胸に刺さる。


 何も変わっていないように見える。

 この一年ずっとそうだった。


 唯がベッドの脇へ立つ。

 俺はその少し後ろにいた。

 近づきたいのに、足が動かない。


 医師と看護師が静かに準備を進める。

 ケースが開く。

 小瓶の中の液体が、専用の器具へ移される。

 手順自体は淡々としているのに、病室の空気だけが妙に張っていた。


「始めます」


 その一言で、時間が止まる。


 投与そのものは、数分もかからなかった。

 でも俺には、それがやけに長く感じた。


 終わってからも、すぐには何も起きない。


 当然だ。

 薬は魔法でも奇跡でもない。

 効くとしても、すぐ目に見えるとは限らない。


 医師が静かに言う。


「少し様子を見ましょう」


 唯が頷く。

 俺は頷けなかった。

 ただ、母の顔を見ていた。


 何も変わらない。

 呼吸は安定している。

 機械の音も変わらない。

 指先も、まぶたも、動かない。


 時間だけが過ぎる。


 五分。

 十分。


 もしかしたら駄目かもしれない、と一瞬だけ思ってしまった時だった。


 母の右手の指先が、ほんのわずかに動いた。


 唯が息を止める。


「……今」


 医師がすぐに前へ出る。

「反応が出ています」


 俺はベッドの脇へ寄った。

 今度は足がちゃんと動いた。


 まぶたが、ゆっくり震える。

 一度。

 二度。


 そして、少しだけ開いた。


 焦点は合っていない。

 視線もまだ定まらない。

 でも、閉じたままじゃない。


「母さん」


 ようやく出た声は、掠れていた。

 たぶん、自分でも驚くほど小さかった。


 その一歩遅れて、唯が声を上げた。


「お母さん……!」


 唯はもう泣いていた。


「良かった……目を覚まして……」


 その言葉が病室に落ちた瞬間、ようやく現実になった気がした。


 母は、まだ状況を理解していない顔だった。

 当然だ。

 一年ぶりに目を開けたのだから。


 視線が揺れる。

 俺と唯の顔を交互に見ようとしているのかもしれない。

 だが、首もうまく動かない。

 唇も何か言おうとしているのに、音にならない。


「無理に話さなくて大丈夫です」

 医師がすぐに声をかける。

「身体がまだ追いついていません」


 母の喉が小さく震えた。

 声は、出ない。

 右手を少しだけ上げようとして、途中で止まる。


 唯がその手を両手で包んだ。


「大丈夫」

 涙声なのに、唯は必死に笑おうとしていた。

「大丈夫だよ。兄さんもいるから」


 俺はそこでようやく、母の目が俺の方で止まったのを見た。


 認識している。

 分かっている。

 そう思えた。


 喉の奥が熱くなる。

 でも涙は出なかった。

 たぶん、感情が大きすぎて、まだ形になっていない。


「……母さん」


 もう一度だけ呼ぶ。

 それしか言えなかった。


 母はほんの少しだけ、目元を緩めたように見えた。


 それからしばらくして、母の反応は少しずつ増えていった。


 指先が前よりはっきり動く。

 視線が合う時間が長くなる。

 唇も、まだ掠れた空気しか出ないが、何か言おうとする形になる。


 P-Dropは、ちゃんと効いていた。


 ただし、劇的に全部が戻るわけじゃない。


 医師は投与から数時間の経過を見たあと、静かに説明した。


「覚醒は確認できました。薬はかなり有効に作用したと見ていいでしょう」

「ただ、すぐに以前と同じように身体が動くわけではありません」


 唯が涙を拭いながら聞く。


「……どれくらい、かかりますか」


「個人差があります」

 医師は答えた。

「P-Dropの副産物である永続的な少量回復は、確かに残るはずです。怪我も回復しやすくなるでしょうし、体力の戻りも早いはずです」


 そこで一度、母の方を見る。


「ですが、一年という期間は短くありません」

「筋力の低下もあります。神経系の再調整も必要です。慣れるためのリハビリは、どうしても要るでしょう」


 俺はそこで初めて、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


 完治ではない。

 即日退院でもない。

 でも、それでよかった。


 いきなり全部元通りになる方が、むしろ怖い。

 目を覚ました。

 戻ってきた。

 それだけで十分すぎるくらいだった。


 医師はさらに言う。


「退院は、リハビリの進みを見ながら判断した方がいいでしょう」

「少なくとも、今すぐ自宅へ戻すのはおすすめしません」


 唯がすぐ頷く。


「はい」

 俺も同意だった。


 母はベッドの上で、まだ思うように身体を動かせない。

 視線だけが俺たちを追う。

 それでも、その目はもう眠っていなかった。


「また来る」

 俺が言うと、母の指先がほんの少しだけ動いた。

 返事のつもりかもしれない。


 唯はその手をそっと握ってから、泣き笑いみたいな顔で立ち上がった。


「お母さん、ちゃんと待っててね」

「今度は、起きてる時にまた来るから」


 母は声を出せなかった。

 でも、目だけは確かに生きていた。


 病院を出た時には、もう夕方になっていた。


 冬でもないのに、空気が妙に冷たく感じた。

 たぶん、こっちの身体の中がようやく落ち着き始めたからだろう。


 唯が病院の外で、やっと大きく息を吐いた。


「……信じられない」


「俺もだ」


「でも、本当なんだよね」

「ああ」


 それだけの会話なのに、妙に長く感じる。


 さっきまでの緊張が一気に抜けて、代わりに疲れがどっと来た。

 でも、悪い疲れじゃない。


「兄さん」


 唯が少しだけ歩きながら言う。


「何だ」


「ありがとう」

 足を止めるほどじゃない。

 でも、ちゃんと聞こえる声だった。

「……本当に」


 俺は少しだけ視線を逸らした。


「まだ終わってない」

「リハビリもあるしな」


「それでも」

 唯は言う。

「目を覚ました」


 その一言には、どう返しても軽くなる気がして、結局何も言えなかった。

 ただ、「ああ」とだけ短く返した。


 家へ戻る道のりは、妙に静かだった。


 喧嘩のあとの気まずさじゃない。

 大きすぎることが起きた後に、言葉の方が追いついていない感じだ。


 母は目を覚ました。

 その事実が、まだ俺たちの中でうまく座っていない。


 玄関の前まで来て、唯がふっと空を見上げた。


「少しだけ、普通の日みたい」


「少しだけ、な」


 そう言いながらポストに目を向けて、そこでようやく違和感に気づいた。


 封筒が一通、入っている。


 白い。

 厚手。

 クランの紋章入り。


「……何これ」


 唯が先に気づいた。

 俺はポストからそれを取り出す。


 差出人を見て、嫌な予感がした。


 クラン本部。

 形式ばった案内状の封筒だ。


「ろくでもない気がする」

 思わず本音が漏れる。


 唯が少しだけ苦笑した。


「兄さん、それ最近いつも言ってない?」

「大体当たる」


 封を切る。

 中には数枚の書類。

 一番上の紙に、大きく題字が入っていた。


 ――ダンジョン学園開設に伴う編入のご案内。


 しばらく、意味が分からなかった。


「……は?」


 唯が横から覗き込む。


「ダンジョン学園?」

「何それ」

「俺が聞きたい」


 書類をめくる。

 開設目的。

 探索者育成。

 実戦教育。

 既存の学生探索者、および特殊な実績を持つ者への編入打診。


 頭痛がしてきた。


 今さっきまで、母が目を覚ましたことだけで手一杯だったのに。

 ようやく少しだけ日常へ戻れるかと思った直後に、今度は何だそれは。


 唯が、呆れ半分みたいな顔で言う。


「兄さん」

「何だ」

「休ませてくれないね」

「知ってる」


 思わず天を仰いだ。


 母は目を覚ました。

 そこは確かに、一つのゴールだった。


 でも、物語の都合みたいに、そこで全部が終わるわけじゃない。

 むしろ終わったからこそ、次が来る。


 ダンジョン学園。


 嫌な予感しかしない名前だった。


 でも、今はまだそれを開けて、ちゃんと読む元気が少しだけ残っている。


 唯が小さく笑った。


「とりあえず、今日は中に入ろうよ」

「お母さんも目を覚ましたんだし」

 

「……そうだな」


 俺は封筒を持ったまま、玄関の鍵を開けた。


 今日だけは、少しだけ普通の夜であってほしい。

 そう思いながら。


(つづく)

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