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第83話 現物一つと、引き換えにするもの

 式神ダンジョンの追加検証を終えたあと、俺はようやく一つ、はっきりと言える結論に辿り着いていた。


 少なくとも、今見えている三つの問題は、全部「詰み」ではない。


 会議室のホワイトボードに簡単な図を描きながら、俺はリアムとカナダ政府の担当者、それからアメリカ側の実働部隊へ向けて順番に説明していった。


「まず一つ目。通常付与担当の魔力量不足」


 ボードに丸を一つ打つ。


「これは、採用基準を上げるしかない」

「ボス前の雑魚処理から付与を回し続ける構成を前提にするなら、“普通に優秀”じゃ足りない。最低でも、長時間運用に耐えられるだけの魔力量が必要だ」


 カナダ側の担当者が、メモを取りながら聞き返した。


「つまり、付与担当そのものの希少性が高くなる、と」


「そうだ」

 俺は頷く。

「逆に言えば、そこを満たせる人材さえ引ければ一つ目は処理できる。改善不能じゃない」


 次に二つ目。


「火力不足」

 今度は丸を二つ。

「これは、ある意味仕方ない」


 部屋の空気が少しだけ揺れた。

 アメリカ側の何人かは、そこで眉をひそめた。

 だが俺は気にせず続ける。


「今回の六人編成は、そもそも“撃破”より“生存”を重視して組んだ」

「通常付与一、頑丈専門付与一、タンク二、《貫通》持ち槍使い二。これは、“安居楽業一式を殺す”ための編成じゃない。“死なずにボス条件を踏み抜く”ための編成だ」


 リアムが腕を組んだまま言う。


「つまり、倒し切れないのは織り込み済みだったと」

「そうだ」

 俺は即答した。

「五十分でHP五〇%まで持っていけたなら、それだけで役割は果たしてる。撃破できないこと自体は、攻略に支障があるわけじゃない」


 優奈が俺の横で、小さく頷いた。

 ボス部屋に実際に入った側として、その感覚は分かるのだろう。


「問題は」

 俺は三つ目の丸を打つ。

「式神の残数と、二体目召喚だ」


 あの光景は、まだ目に焼きついている。


 ボスのHPをようやく半分まで削り、撤退の目が見えた瞬間。

 残っていた式神五体が、自分たちの命を薪にするみたいに崩れ始めた。

 あと一歩、槍使いの判断が遅れていたら、二体目の安居楽業一式が召喚されていた。


「でも、これも問題ない」

 俺は言い切った。

「理由は簡単だ。ボス戦開始後、最低でも式神を一体倒しておけばいい。五体残しが危険ラインなら、四体以下に保てば召喚は失敗する」


 カナダ側の担当者が顔を上げる。


「つまり、式神の管理さえ忘れなければ……」

「そういうことだ」

 俺は答えた。

「槍使いの片方、もしくは余力のある前衛に“式神を最低一体は必ず処理する”役割を持たせればいい。再召喚阻止そのものは、そこまで難しくない」


 会議室の空気が、そこでようやく少しだけ軽くなった。


 三つの問題。

 付与担当の魔力量。

 火力不足。

 二体目召喚。


 全部が嫌な問題ではあったが、全部が解決不能というわけじゃない。

 少なくとも、生存重視のボス攻略までは現実的に持っていける。


 俺はホワイトボードへ最後に一本線を引いた。


「結論。ボス撃破まではまだ遠いが、式神ダンジョンに対する現実的な初期攻略は成立する」

「雑魚〜中層は銃五+付与一。ボスだけ六人編成へ切り替え。付与担当の採用基準を上げ、式神残数の管理を徹底すれば、生還率重視の攻略は可能だ」


 リアムがゆっくり頷いた。


「悪くない」

 通訳を待たずとも、顔で分かった。

「ルクセンブルクほどではないが、ボス以外ならこの戦い方でかなり回せる」


「ああ」

 俺は答えた。

「少なくとも、今のカナダに必要なのはその段階だろ」


 生存重視。

 撃破より、踏破。

 無茶なテンプレを作るより、現場で死なない運用を作る。


 それが今の答えだ。


 だから俺の役目も、ここまでのはずだった。


 俺はペンを机に置き、息を吐いた。


「引き継ぎはこんなもんだ」

 ホワイトボードを指で軽く叩く。

「後は現地で回しながら細部を詰めればいい。俺の役目は終わりだ」


 優奈がちらっと俺を見る。

 たぶん、帰るつもりだと分かったのだろう。


 そう。

 本来ならここで日本へ帰る。

 式神ダンジョンの初期運用指針は渡した。

 少数精鋭で行くべき理由も説明した。

 必要魔法と必要人員の方向性も示した。


 これ以上は、カナダとアメリカが自分たちでやるべき領域だ。


 何より――俺には、時間がない。


 P-Drop。

 母を救うために必要な、十億の薬。

 いや、もう十億と決めつけていいのかも怪しい。

 それでも、俺は日本へ帰って、次の金策を探すつもりだった。


 少なくとも、数時間前までは。


「待ってくれ」


 そう言ったのは、リアムではなかった。


 会議室の奥、ずっと黙っていたアメリカ政府の担当官が、そこで初めて口を開いた。

 スーツ姿。

 無駄のない姿勢。

 笑っていない目。


 こういう人間が喋り出す時は、大抵ろくでもない。


「追加で依頼したいことがある」


 俺は眉を寄せた。


「断る」

 即答だった。

「こっちはボランティアじゃない。今の引き継ぎで十分だろ」


「内容を聞いてからでも遅くない」


「遅くないけど、面倒くさい予感しかしない」


 リアムが横で、少しだけ楽しそうに口元を歪めた。

 嫌な予感しかしない。


 担当官はそれを無視して続ける。


「我々が欲しいのは、ボスを生存重視で処理する戦術だけではない」

「多少のリスクを許容してでも、安居楽業一式を倒せる戦術を考えてほしい」


 会議室の空気がまた重くなった。


 優奈が小さく息を止めるのが分かった。

 リアムも今度は笑わなかった。


 当然だ。

 今の六人編成は“生き残る”ことを前提にしている。

 倒し切るための火力には届いていない。

 そこを無理に伸ばすなら、どこかで生存率を削るしかない。


「理由は?」

 俺は短く聞いた。


 アメリカ政府の担当官は一瞬だけ視線を下げ、それから答えた。


「カナダのダンジョンを、長期的に放置できないからだ」


「それは分かる」

 俺は言った。

「でも“今すぐボス撃破戦術が必要”になる理由にはならない」


「十年後だ」


 その言葉に、部屋が静かになった。


 十年後。


 日本。

 ルクセンブルク。

 インド。

 ここまで世界中を見てきて、その数字がどういう意味を持つのか、今さら分からないわけがない。


 ダンジョンの本格始動。

 そして、難易度の跳ね上がり。


 担当官は続けた。


「我々は、日本のダンジョンが他国と比べて、少なくとも“最初から無茶な難易度ではなかった”理由を研究してきた」


 俺の視線が自然と細くなる。


「……で?」


「仮説がある」

 担当官は言う。

「一度ランダムでダンジョンが発生し、その後、最初期の攻略度が高いほど、十年後の本格始動時の難易度が低くなるのではないか、という仮説だ」


 優奈が目を見開く。


「じゃあ、日本が……」

「比較的まだ“やれている”理由が、そこにあるかもしれない」

 担当官が答えた。

「逆に言えば、カナダの式神ダンジョンを今のうちに十分押さえ込めなかった場合、十年後、北米全体が巻き込まれる可能性がある」


 リアムがそこで低く言った。


「カナダだけの問題じゃない」

「そういうことだ」

 担当官は頷いた。

「我々が恐れているのは、カナダで十年後この式神ダンジョンが本格始動した時、阻止できないこと。そして、そのままアメリカが巻き込まれることだ」


 北米全体の安全保障。

 国家予算。

 軍。

 企業。

 全部ひっくるめて見れば、安居楽業一式を“今のうちに倒せる形”へ持っていく意味はたしかにある。


 でも、それは俺の都合とはまるで関係ない。

 本来なら、そう言って断るべきだった。


 担当官が、そこで一つのケースを机の上へ置いた。


 黒い保冷ケース。

 無駄に頑丈そうな留め具。

 会議室の照明を鈍く弾く表面。


 嫌な予感しかしない。


「報酬はこれだ」


 留め具が外れる。

 蓋が開く。


 中にあったのは、透明な小瓶一本だった。


 冷たく光る液体。

 わずかに青銀色に揺れて見えるそれを見た瞬間、喉の奥がきつく締まった。


 P-Drop。


 プロメテウス・ドロップ。


 資料で何度も見た。

 値段を調べた。

 市場の流れも追っていた。

 母を救うために、ずっと手を伸ばしていたもの。


 それが、今、目の前にある。


 現物で。


 優奈が息を呑んだのが分かった。

 リアムでさえ、その箱を見て表情を消していた。


「……まじか」


 声が、自分でも驚くくらい低く出た。


 担当官は淡々としている。


「本物だ」

「規格番号も流通経路も確認済み。条件を満たした場合、結城悠真個人へ譲渡する」


 俺はすぐには何も言えなかった。


 頭の中で、いくつもの感情が同時にぶつかる。


 欲しい。

 今すぐ欲しい。

 これがあれば母が助かるかもしれない。

 いや、完全治癒が確定じゃないのは知っている。

 でも、賭ける価値がある。

 それは何度も資料を読んだ上で、もう結論が出ている。


 しかも“金”じゃない。

 現物だ。


 価格が逃げる市場で、毎月一億ずつ値上がりする未来から切り離された、一つの確定した希望。


 でも、だからこそ怖い。


 ここで手を伸ばした瞬間、俺はまた一段深く危険な方へ行く。


 帰るつもりだった。

 引き継ぎも終わった。

 理性では、もう十分だと思っていた。


 その理性が、今、目の前の小瓶一つでぐらついている。


 情けない。

 浅ましい。

 でも、それでも、目を逸らせない。


 俺が黙っていると、担当官が追い打ちをかけるように言った。


「当然、簡単な依頼ではない」

「生存率重視の編成から一段踏み込み、撃破を見据えた高リスク構成を考えてほしい。こちらも人材と装備は出す」


 リアムがそこで、ようやく静かに口を開いた。


「ユウマ」

 俺はそちらを見ない。

「……何だ」


「今なら引いても誰も責めない」

 珍しく、冗談っぽさがない。

「でも、受けるなら本気で飲み込まれるぞ」


 そんなの、言われなくても分かっている。


 分かっているのに、箱の中の小瓶から目が離せない。


 母。

 病室。

 食事が取れない身体。

 唯の顔。

 “あと少しなんだよ”と叫んだ自分。


 全部が一気に押し寄せてきて、胸の内側を掴んでくる。


 P-Dropを買うために金を追っていた。

 でも今は違う。

 現物がある。

 手を伸ばせば届くかもしれない距離に、希望そのものが置かれている。


 だったら、答えはたぶん最初から決まっている。


 それでも、即答するのは嫌だった。

 即答したら、あまりにも金と薬に釣られたみたいで、あまりにも自分が薄く見える気がしたからだ。


 俺は一度だけ目を閉じた。


 そして、ゆっくり開ける。


「……条件を詰める」


 その言葉で、会議室の全員が少しだけ動いた。


「受けるとはまだ言ってない」

 俺は続ける。

「でも、検討はする」


 担当官は表情を変えない。

 リアムはわずかに口元を緩めた。

 優奈は、黙ったまま俺の横へ一歩だけ寄る。


 その気配だけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。


「まず確認したい」

 俺は言った。

「P-Dropは本物だな」

「もちろんだ」

「流通記録も寄越せ」

「あとで共有する」


「使用期限」

「問題ない」

「保管状態」

「万全だ」


 一つずつ、確認する。

 感情で飛びつくな。

 それだけは自分に言い聞かせる。


 でも、全部が確認されればされるほど、現実味が増していく。

 目の前の小瓶が、ただの餌じゃなく、本当に俺が追い続けていたものだという現実味が。


 担当官が最後に言う。


「我々も、ただ無茶を押しつけたいわけじゃない」

「だが十年後の北米を考えれば、安居楽業一式を“倒せる”ことには大きな意味がある」

「そのための報酬としては、これが最適だと判断した」


 最適。


 そうだろうな。


 俺にとって、一番効く報酬だ。

 分かっていて出してきている。

 そこが腹立たしいし、同時に拒否しきれない。


 優奈が、小さな声で言った。


「ユウマくん」


「……何だ」


「考える時は、ちゃんと全部考えてください」

 それだけだった。

 励ましでも、止めるでもない。

「欲しいから受ける、じゃなくて。何を引き換えにするかも」


 その言葉が、妙に刺さった。


 欲しいから受ける。

 たしかにそれだけなら、俺はもうとっくに「受ける」と言っている。


 でも今、まだそこに踏み切っていないのは、優奈の言う通り“何を引き換えにするか”を考えているからだ。


 高リスク編成。

 生存率を落とす。

 安居楽業一式の撃破を狙う。

 それは、俺だけが傷つけばいい話では終わらない。


 それでも――。


 俺はもう一度、保冷ケースの中の小瓶を見た。


 そこにあるのは、十億という数字じゃない。

 逃げる値札でもない。

 ただ一本の現物だ。


 届くかもしれない希望を前にして、理性だけで背を向けられるほど、俺は綺麗にできていなかった。


 会議室の沈黙の中で、俺は小さく息を吐いた。


「……詳細を聞かせろ」


 担当官が、ほんの少しだけ頷く。


 それが、たぶん答えだった。


 完全な返事じゃない。

 でも、もう帰るだけの自分ではなくなった合図。


 P-Drop実物一つ。

 それと引き換えに、俺はもう一段深く、危険な方へ足を踏み出そうとしている。


 分かっている。

 でも、分かっていても、手放せないものがある。


 それが現実なら、もう綺麗事だけでは動けなかった。


(つづく)

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