第78話 あと一億と、式神ダンジョン
八階層を突破してからも、休める感じはしなかった。
体力の話じゃない。
時間の話でもない。
気持ちが、止まれなかった。
母のこと。
唯のこと。
あと一億という数字。
そこまで見えてしまったせいで、逆に一歩も無駄にできないような焦りが強くなっていた。
だからその日のミーティングで相良が「今回は少し特殊です」と切り出した時、俺は最初から嫌な予感しかしていなかった。
「今度はどこだよ」
最近、もうこの一言が挨拶みたいになっている気がする。
そして大体、その嫌な予感は外れない。
相良はいつもの柔らかい笑顔のまま、端末の画面を切り替えた。
「カナダです」
優奈が小さく「カナダ……」と繰り返す。
興味はある。
でも今の流れだと、たぶんそれだけで済まない。
俺も同じことを思っていた。
「正確には、カナダとアメリカからの合同依頼です」
そこで、さらに嫌な予感が強くなった。
カナダ単独じゃない。
そこにアメリカが乗っている。
つまりカナダ側の問題でありながら、アメリカですら単独処理を嫌がった案件、ということだ。
「嫌な言い方するな」
俺は眉を寄せた。
「どうせろくでもないんだろ」
「ろくでもないですね」
相良が即答した。
優奈が少しだけ困ったように笑う。
「最近、相良さんの“ろくでもない”って信用できますよね」
「したくねえ信用だな」
俺がぼそっと言うと、相良はそのまま説明を続けた。
「カナダに新規ダンジョンが出現しました」
「カナダ側も、まったくの無準備というわけではありません。具体的には、これまでアメリカのダンジョン攻略を部分的に手伝ってきました」
「多少はノウハウがあるってことか」
「はい。ただし、自前の人員はそこまで多くありません」
相良が頷く。
「国土に対して、攻略者の絶対数が足りていない。だから本来なら、アメリカへ本格的に依頼を出すつもりでした」
そこまでは分かる。
アメリカはダンジョン攻略の経験値が高い。
企業も軍も動きが早い。
人も装備も回せる。
だったらカナダがアメリカへ支援を求めるのは自然だ。
問題は、そこから先だった。
「ですが、今回のダンジョンが少し特殊です」
相良は端末の画面をさらに切り替えた。
そこに表示された単語を見て、俺は本気で顔をしかめた。
「……式神?」
優奈も目を瞬かせる。
「しきがみ……?」
それから、ほとんど俺と同時に言った。
「私も聞いたことも見たこともないです!」
「俺もだよ!」
思わず声が出た。
「何それ⁉ 初めて聞いたんだけど⁉ なんだその魔物⁉」
相良は少しだけ肩をすくめる。
「日本語だとそう訳すのが近いだろう、ということで現在はそう呼ばれています」
「カナダ側の報告では、“核になる存在が、状況に応じて別種の魔物を召喚する”タイプのダンジョンです」
俺は少し黙った。
嫌な予感が、嫌な形で当たる時の沈黙だった。
「……召喚型か」
「はい」
相良は頷く。
「しかも、かなり適応力が高い」
優奈が真面目な顔になる。
「適応力、っていうと」
「同じ手が通じにくい、ですか?」
「その通りです」
相良は画面に、現地から届いた簡易ログの抜粋を表示した。
「近接を増やすと飛行型を多めに呼ぶ」
「遠距離主体で削ると、高速接近型と盾役を優先して出す」
「同じ攻撃手段を続けると、次の波ではそれに明確に相性のいい個体を呼ぶ傾向がある」
優奈が顔をしかめる。
「うわあ……」
その一言に全部入っていた。
俺も同感だ。
式神ダンジョン。
なるほど。
固定の最適解が通じにくい。
戦い方そのものを見て、次の札を変えてくる。
「アメリカは、正攻法で攻略法を見いだせないわけじゃありません」
相良が続ける。
「ただ、正確には“割に合わなさすぎる”」
俺はその意味をすぐ理解した。
アメリカの強みは、運用だ。
人数。
装備。
物流。
そして一度型が決まったあとの反復。
でも式神ダンジョンは、その“一度決めた型”をずらしてくる。
「勝てるけど、コスパが悪いってことか」
俺が言うと、相良は頷いた。
「はい。人員と装備を増やせば押し切れる可能性はある」
「ただし、そのたびに呼び出される魔物構成が変わる。毎回最適化し直さないといけない。アメリカの得意分野である“固定化して回す攻略”と相性が悪いんです」
優奈が小さく言う。
「それは……嫌ですね」
「かなり嫌だ」
俺も即答した。
つまり、相手がこちらの正攻法に対して“はい、その対策です”を返してくるわけだ。
真正面からやっても勝てる。
勝てるが、かかるコストが見合わない。
そして、そういう時に限って話がこっちへ来る。
「そこでyumaに依頼を出せば、何とかしてくれるだろう、と」
相良が穏やかに言った。
「何とか出来るわけねえだろ⁉」
俺は本気で言った。
「式神って何⁉ 初めて聞いた魔物なんだけど⁉ こっちは召喚型とか適応型とか、その辺のゲームみたいな単語だけで話されても困るんだよ⁉」
優奈もすかさず乗る。
「私も何も分かってません!」
勢いよく手を挙げるみたいに言う。
「見たことないです!」
「だろ⁉」
思わず優奈と変なところで息が合う。
けれどそれで状況が楽になるわけじゃない。
俺は端末の画面を見ながら、内心でため息を吐いた。
聞く限り、かなり厄介だ。
しかもカナダとアメリカの合同案件。
つまり規模もでかい。
嫌な予感しかしない。
断る。
普通に考えれば、そう言うべきだった。
母のために急がないといけないのは事実だ。
だからこそ、不確定要素の多い案件に飛びつくべきじゃない。
そう理屈では分かる。
だが。
相良が、そこで間を置いてから言った。
「今回の依頼は、数億規模です」
俺の思考が、一瞬だけ止まった。
優奈が「え」と小さく声を漏らす。
相良は、そのまま静かに続けた。
「yuma個人には、最低でも一億が支払われます」
喉の奥が、ほんの少しだけ乾く。
最低一億。
その数字の意味を、今の俺は嫌というほど知っている。
あと一億。
十億の薬。
九億まで来ている。
そして唯に、「あと少しなんだ」と言ってしまったばかりだ。
だから、話が変わる。
変わってしまう。
何とかできるわけがない、と思った。
思ったのに、一億と聞いた瞬間に、断れなくなった。
そのことに、自分で少しだけ吐き気がした。
金で態度が変わるのか。
そう言われたら、否定できない。
でも、否定できないからこそ、目を逸らせない。
「……最低一億」
自分の声が少し低くなる。
優奈が横で、ちらっとこっちを見た。
「ユウマくん」
「分かってる」
俺は短く返す。
「分かってるよ」
何を分かってるのか、自分でも曖昧だった。
危険な案件だということか。
金額に引っ張られてる自分の醜さか。
それとも、ここで断ったら唯に言った“あと少し”が遠のくことか。
たぶん全部だ。
相良は、そんな俺の顔を見ても何も言わなかった。
ただ事実だけを並べる。
「カナダ側の狙いは、初期の適応ルールを見抜きたいこと」
「アメリカ側の狙いは、どの条件でどの召喚反応が起きるのかを解析し、攻略を“固定化できる最低限のライン”を知りたいこと」
「固定化できる最低限のライン、か」
俺は繰り返した。
それなら意味は分かる。
式神ダンジョンが完全に自由適応するなら、どんな攻略も割に合わない。
でも、適応にもきっとルールがある。
そのルールが分かれば、“完全固定”じゃなくても、“この辺までは安定”という形は作れる。
それを読む役に、俺を使いたいわけだ。
「ようするに、相手の反応条件を見抜けってことだな」
「はい」
相良が答える。
「まさに結城さん向きかと」
「嬉しくねえ」
反射みたいに言った。
「全然嬉しくねえ」
でも、その後に「やらない」とは続かなかった。
優奈が小さく聞く。
「……行くんですか?」
その問いが妙に重かった。
たぶん優奈も分かっているのだろう。
この依頼が“面白そうだから行く”類じゃないことを。
そして今の俺にとって、一億の意味がどれだけ重いかを。
俺は少しだけ目を閉じた。
母の病室。
唯の顔。
あと一億。
待つ、と言った妹。
今度こそ間に合わせる、と言った自分。
そこまで思い出したら、もう答えは最初から決まっていた。
「……行く」
声にすると、思ったより淡々としていた。
優奈は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
相良が続ける。
「正式には、カナダ現地でアメリカ側の初動部隊と合流、その後現地政府と合同で調査開始になります」
「リアムも来ます」
そこで俺は思わず顔をしかめた。
「うわ、面倒くさいのまでセットかよ」
「資本主義の人ですか?」
優奈が聞く。
「そうだ」
俺が言うと、優奈は少しだけ納得した顔をした。
「アメリカ側も本気なんですね」
「本気だろうな」
俺は頷いた。
「金になるかどうか以前に、ああいう“固定化しづらいダンジョン”は放置すると面倒だ。隣国のカナダなら、なおさらだろ」
カナダ側としても、アメリカを全面的に頼るのは微妙だ。
アメリカ側としても、完全ボランティアで抱える気はない。
だからyumaが間に入る。
理屈としては、まあ分かる。
「出発は?」
俺が聞く。
「かなり早いです」
相良が答える。
「明日には動けるようにしておいてください」
当然だ。
数億の依頼が、のんびりしているわけがない。
優奈が「カナダって寒いですよね……」と少しだけ現実的なことを言い、俺は「そこからかよ」と返した。
けれど、そういう小さな会話のおかげで、ほんの少しだけ空気が和らいだ。
それでも、俺の中は和らがない。
一億。
最低一億。
その数字が、ずっと頭の後ろに引っかかっている。
嫌でも意識する。
意識したくなくても、今は意識しない方が嘘だ。
ミーティングが終わり、資料を回収しながら、優奈がそっと言った。
「ユウマくん」
「何だ」
「……頑張りましょう」
その言い方は、励ましというより確認に近かった。
「あと一億、ですよね」
俺は少しだけ息を止めた。
そして、短く答える。
「ああ」
「あと一億だ」
優奈は真面目な顔で頷いた。
「じゃあ、取りに行きましょう」
簡単に言う。
でも、その簡単さが今はありがたかった。
俺は端末を鞄に入れながら、小さく息を吐いた。
式神ダンジョン。
初めて聞く魔物。
アメリカでも割に合わない適応型。
何とかなるとは、正直まだ思えない。
それでも行く。
行かない理由が、今の俺にはもうない。
何とかできるわけがない、と思ったのに、一億と聞いた瞬間に話が変わった。
その事実はたぶん、今の俺の弱さだ。
でも同時に、それが今の俺の現実でもある。
弱くても、現実なら、やるしかない。
あと一億。
その数字のために、今度はカナダだ。
(つづく)




