第74話 最強のつもりだった男へ
黒い牢の奥で、床がゆっくりと波打った。
まるで底なし沼が逆流するみたいに、闇が盛り上がる。
そこから最初に現れたのは、手だった。
次に腕。
肩。
そして、全身。
インドの特級魔法使いは、黒い床から吐き出されるようにして監獄の石床へ転がった。
生きている。
それを確認した瞬間、俺はようやく肺の奥に溜まっていた息を吐いた。
人間の形を保っている。
目も濁っていない。
少なくとも、魔物化は始まっていない。
芽依が隣で小さく肩をすくめる。
「間に合ったっぽいね」
「ああ」
短く返して、俺は牢の前まで歩いた。
助け出された男は、石床に片膝をついたまま、しばらく咳き込んでいた。
年齢は二十代前半か、それより少し上か。
顔立ちは整っている。
髪は長めで、乱れてもなお妙に様になる。
そして何より、目つきに“負けた人間”の色がない。
そこだけ見れば、牢から這い出してきた直後にはまったく見えなかった。
男はようやく顔を上げると、まず俺と芽依を見た。
それから、実に不機嫌そうに眉を寄せた。
「……遅い」
第一声がそれだった。
芽依が吹き出しそうになる。
だが俺は笑わなかった。
「助けられた直後の第一声がそれかよ」
「事実だろ」
男は喉を鳴らして立ち上がる。
拘束されていたせいか、少しだけ動きは重い。
だが声には妙な張りがあった。
「別に助けを求めた覚えはない。もう少し待てば自力で何とかなってた」
「自力で?」
芽依が片眉を上げる。
「床に飲まれてたのに?」
「飲まれてたんじゃない。閉じ込められてただけだ」
言いながら、男は服についた黒い汚れを払う。
その仕草までどこか癇に障るほど余裕ぶっていた。
なるほど。
確かにこれは、“最強だと信じて疑わない奴”の顔だ。
こいつはたぶん、本当に強い。
少なくとも自分が弱いなんて、一度も思ったことがない類の人間だ。
だからこそ、こういう顔になる。
芽依が面白そうに覗き込む。
「ねえ、助けたんだから一言くらいないの?」
「あるよ」
男は即答した。
「もっと早く来い」
芽依がついに吹き出した。
「うわ、ムカつく!」
それでも、妙に納得する。
たぶんこういう男なのだろう。
俺は短く息を吐いてから言った。
「軽口叩けるなら歩けるな。とりあえずここを出る」
「案内しろ」
「偉そうだな」
「偉いからな」
……本当に反省している顔じゃない。
だが、その顔が逆に気になった。
こいつは今回、自分がどうして捕まったのか、本当に理解しているのか?
答えは、おそらくノーだ。
地上へ戻るまでの道中、俺たちは必要最低限しか喋らなかった。
監獄ダンジョンは、ボスを倒しても急に優しくなったりはしない。
ただルールが一段緩んだだけだ。
見えた雑魚を残せば拘束の危険は依然としてあるし、救出直後の相手を抱えた状態で余計な会話をする理由もない。
だから俺は、先に状況だけ整理した。
「今いるのは第一階層ボス部屋の先だ」
「雑魚は見えた分だけ全部処理した。だから今は歩けてる」
「出口まで黙ってついて来い」
インドの特級魔法使いは、少しだけ不満そうに「はいはい」と返した。
その軽さに芽依がまた肩を揺らす。
だが、火力担当としてはちゃんと周囲を警戒している。
そこが芽依の偉いところだ。
途中、小型魔物が一匹だけ壁際から顔を出した。
俺が指差すより早く、芽依の火線がそれを焼く。
「まだ雑魚見るとイラつくね」
芽依が言う。
それには俺も同意だった。
このダンジョンにおいて、小さいことは弱い理由にならない。
むしろ逆だ。
見落としやすいという意味で、一番危険ですらある。
その事実を、俺たちはもう痛いほど理解していた。
そして今、そのことを理解していない人間が一人、すぐ後ろを歩いている。
地上へ出た時、インド側の担当者たちは本気で安堵した顔をした。
「よかった……」
「人間のままだ」
「意識もある」
通訳越しにそんな声が飛び交う。
インドの特級魔法使いは、その歓迎を当然みたいな顔で受けていた。
やはり、少しも懲りていないように見える。
だから俺は、休ませる前に聞くことにした。
「おい」
男が振り返る。
面倒そうな顔。
でも、自分より弱いと思っている相手の言葉を、完全には無視しない目だ。
「何?」
俺は真正面から言った。
「どうして雑魚を一掃して、その後で大物に行かなかったんだ」
周囲の空気が一瞬止まった。
インド側の担当者も、芽依も、みんな俺の方を見る。
だが今、そこを曖昧にするつもりはなかった。
「初見殺しのシステム抜きでも」
俺は続ける。
「初めて入る情報なしのダンジョンで、大物相手に一対多数は無謀だろ」
男の眉がぴくりと動く。
気に入らない質問をされた顔だ。
だが、答えないわけにはいかないと判断したのだろう。
「魔力のロスがない俺の魔法で、倒せないことなんてないと思ってた」
吐き捨てるみたいに言った。
「実際そうだろ⁉」
強い。
それは事実なのだろう。
《魔力超回復》。
一瞬で魔力を全快できる特級。
元の魔力量が凡人以下でも、低〜中コストの魔法を永久機関みたいに回せるなら、普通の探索者相手には圧倒的だ。
男はさらに言った。
「あんなの結果論だ」
「ネズミ一匹であんな結果になるダンジョンだって予想がつくなら、そもそも初見のダンジョンになんて挑んでないだろ⁉」
その言葉に、少しだけ納得した。
こいつは本気でそう思っている。
負けを認めたくないだけじゃない。
心の底から、「今回は運が悪かっただけだ」と思っている。
だが――それで済ませるわけにはいかない。
「じゃあ、魔力探知は使えるのか?」
俺が言うと、男は露骨に呆れた顔をした。
「必要ないだろ?」
即答だった。
そこで芽依が横から「うわあ」と小さく漏らした。
俺も同感だ。
「目に見えないモンスターに奇襲しかけられたらどうする?」
俺は間髪入れずに言う。
「とあるダンジョンの話だが、自爆特攻する魔物が出る場所だってある。もしそのダンジョンに入ってたら、お前……死んでたぞ?」
男の表情がほんの一瞬だけ固まった。
そう。
今回の監獄ギミックは初見殺しだった。
それは認める。
でも、それを“例外”として切り捨てるな。
今回みたいなルール系の地雷を踏まなくても、こいつの立ち回りは別のダンジョンで普通に死ぬ。
そこを理解していないのが、一番まずい。
「もしそうするなら」
俺はさらに踏み込む。
「今回みたいな初見殺しシステムは例外にしても、それ以外の対策として、せめて自動防御くらい用意すべきだろ」
男が眉をひそめた。
「自動防御……?」
「ある」
俺は言った。
「シールド系の魔法で、《Perfect-protection》って魔法がある」
芽依が「うわ、懐かし」と小さく言う。
その名前を知っているあたり、さすが古い。
「名前は強そうだけど、実際は人気がない」
俺は説明を続けた。
「一秒ごとに魔力を消費する。しかも発動までに数秒ラグがある。だから普通の探索者には使いづらい」
男は黙って聞いている。
そこで俺は、わざと少しだけ言葉を区切った。
「でも、お前なら違う」
男の目が、初めて少しだけ真面目になった。
「……何?」
「《魔力超回復》なら常時展開できる」
俺ははっきり言った。
「ラグがあるって言っても、最初から張りっぱなしにしておけばいい。燃費が悪いって言っても、お前は一瞬で全快する。だったら実質敵なしだろ」
周囲が静まり返る。
インド側の担当者たちも、ぽかんとした顔でこっちを見ている。
たぶん今まで、誰もその発想に辿り着いていなかったのだろう。
男もまた、すぐには何も言わなかった。
だから俺は続ける。
「お前の魔法は“攻め放題”じゃない」
「本当に壊れてるのは、“守りを常時維持できる”ところだ」
その瞬間、男の表情が初めて変わった。
反論でも、怒りでもない。
ほんの少しだけ、言葉を失った顔だった。
おそらく今、初めて自分の特級の“別の使い方”を見せられたのだろう。
こいつはずっと、自分の魔法を“攻撃のための無限燃料”として使ってきた。
だから、大物だけを焼けばいいと思っていた。
強敵を先に消せば残りは掃除だと、本気で信じていた。
それ自体は、今まで通ってきたのかもしれない。
でも、それは“正しかった”のではなく、“たまたま通っていた”だけだ。
芽依がにやにやしながら口を挟む。
「っていうかさ、ユウマの言う通りだよね」
「あなたの魔法、攻めに使うより守りに使った方が絶対イヤらしいもん」
「……イヤらしいって何だよ」
男が低く返す。
「褒めてる褒めてる」
芽依はまったく褒めている顔ではなかった。
男はしばらく黙っていたが、やがて舌打ち混じりに言った。
「でも、今回のはやっぱり結果論だろ」
「ネズミ一匹で牢屋行きなんて、誰が分かるんだよ」
「だから初見ダンジョンでは雑魚を無視するなって言ってる」
俺は即答した。
「強いのと、ルールを読めるのは別だ」
少しだけ声が鋭くなる。
「お前は強い。たぶん、かなり」
「でも、強いからって全部を踏み越えられるわけじゃない。雑魚一匹を残した時点で、今回は負けだったんだよ」
男は歯を食いしばるみたいに黙った。
そこで初めて、ようやく“反省”に近い沈黙が落ちた気がした。
インド側の担当者の一人が、おそるおそる聞く。
「では、今後は……」
男はその問いには答えなかった。
代わりに、俺へ向かって言う。
「……その魔法」
声はさっきよりずっと低い。
「《Perfect-protection》とか言ったな」
「ああ」
「後で詳しく教えろ」
その一言に、芽依が吹き出した。
「素直じゃん!」
「うるさい」
でも、その反応ならまだ救いがある。
こいつはプライドが高い。
最強だと信じて疑わない。
慢心もする。
雑魚を軽視する。
だから初見殺しで捕まった。
でも、完全な馬鹿じゃない。
自分に足りなかったものを突きつけられた時、それを“後で教えろ”と言えるだけの柔らかさは、まだ残っている。
俺は小さく息を吐いた。
「条件付きだ」
「何だよ」
「次から初見ダンジョンで雑魚を無視するな」
「……は?」
「探知を覚えろ。自動防御を張れ。せめてそれくらいはしてから最強を名乗れ」
男は心底面倒くさそうな顔をした。
だが、その顔の奥に、さっきまでみたいな“絶対に自分は間違っていない”という確信は、少しだけ薄れていた。
「……注文多いな」
「命拾いしたんだから安いもんだろ」
そこまで言って、ようやく少しだけ空気が緩んだ。
インド側の担当者たちも、助けられた特級本人も無事で、しかも今後に使える戦訓まで手に入ったことに安心したのか、張っていた肩の力を少しだけ抜いている。
芽依が横で小声で言った。
「ねえユウマ」
「何だ」
「説教のついでにちゃんと育成まで始めるの、ほんと軍師っぽいよね」
「うるさい」
そう返しながらも、心のどこかで分かっていた。
俺がこいつに言ったのは、ただの説教じゃない。
今後またどこかで、こういう特級が必要になるかもしれないからだ。
そしてもう一つ。
今回の件で、俺の中には別の焦りが消えていない。
妹。
芽依の弟子入り。
ダンジョン配信者になるつもり。
環境魔力を習っている。
今も頭の片隅じゃなく、かなり大きな場所を占めている。
だからこそ、この場を早く片づけたかった。
「話は終わりだ」
俺は言った。
「俺にはこの後、確認しなきゃいけないことがある」
芽依が横目でこっちを見る。
妹のことだと分かっている顔だ。
インドの特級はまだ少し不満そうだったが、それ以上は食い下がらなかった。
最後に一言だけ、ぼそっと言う。
「……でも助かった」
かなり小さい声。
聞こえないふりもできた。
でも俺は聞こえた。
「次は同じミスしない」
それだけ付け足して、ふいっと視線を逸らす。
芽依が楽しそうに笑う。
「ほら、ちゃんと感謝できるじゃん」
「してねえよ」
「したよ今」
「してねえって」
そのやり取りを聞きながら、俺はもう意識を別の場所へ向けていた。
帰る。
確認する。
妹と話す。
父が死んで、母が倒れて、それでまだ家族に何か隠し事をされていたとしたら。
その理由を、今度こそ知らなきゃいけない。
インドの特級がようやく“最強のつもりだった男”から少しだけ現実を見る側へずれたように、たぶん俺も、家族に対して見ていなかったものを見なきゃいけないのだろう。
それが嫌でも、だ。
(つづく)




