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第75話 あと一億、だから待ってくれ

 インドから戻ったその日のうちに、俺は家へ向かった。


 芽依には「後は任せた」とだけ言って別れた。

 インドの特級魔法使いのことも、囚人ダンジョンの後始末も、今の俺にはもう優先順位が落ちていた。


 頭の中にあるのは、結城唯のことだけだった。


 妹が、俺の知らないところで芽依に弟子入りしていた。

 環境魔力について教わっていた。

 ダンジョン配信者になるつもりでいた。


 帰りの移動中、何度も考えた。


 聞き間違いじゃないか。

 芽依の勘違いじゃないか。

 同じ苗字の別人かもしれない。

 そういう都合のいい可能性を、頭の片隅で探していた。


 でも、無理だった。


 芽依はそういう冗談を言う時と、言わない時がある。

 今日のあれは、冗談じゃなかった。


 俺は、何も知らなかった。


 家の玄関を開ける。

 時間はもう遅い。

 けれど、居間の明かりは点いていた。


 靴を脱いだ瞬間に、妹がまだ起きていると分かった。


「……ただいま」


 俺がそう言うと、少しだけ間があってから、奥で椅子が引かれる音がした。

 居間へ顔を出した唯は、俺を見るなりほんの少しだけ目を見開いた。


 いつも通りの部屋着。

 髪もいつも通り。

 ぱっと見れば何も変わっていない。


 でも、今の俺には、何もかもが違って見えた。


「おかえり」

 唯はそう言った。

 声は普通だった。

 普通すぎて、逆に腹の底が冷える。


「話がある」


 俺がそう言うと、唯の表情が一瞬だけ固くなった。

 その変化が、もう答えだった。


 知っている。

 何の話か、分かっている顔だ。


「……私も」

 唯は小さく答えた。

「たぶん、あると思ってた」


 逃げない。

 誤魔化さない。

 それだけで、少しだけ救われた。


 けれど、救われたからといって、気持ちが落ち着くわけじゃない。


 俺は居間のテーブルの前に座らず、そのまま立っていた。

 座ったら、たぶん言葉が鈍る。


「芽依に会った」


 唯の肩が、小さく揺れた。


「……そっか」

 それだけだった。


「“そっか”じゃない」

 自分でも驚くくらい低い声が出た。

「何で黙ってた」


 唯はすぐには答えなかった。

 少し視線を落として、テーブルの端を見つめたまま、数秒黙った。


 それからようやく口を開く。


「言ったら、兄さん反対するでしょ」


「当たり前だろ」


 即答だった。

 そんなの、考えるまでもない。


「ダンジョン配信者になるって何だよ」

「芽依に弟子入りって、どういうことだよ」

「環境魔力って、お前……何考えてるんだ」


 語気が強くなる。

 抑えようと思っても、抑えきれない。


 唯はそれを正面から受けた。

 目を逸らさない。

 逃げもしない。


「お母さん、食事取れないから」


 唐突に、唯がそう言った。


 俺の言葉が止まる。


 唯は、今度は少しだけ強い声で続けた。


「食事取れないから、その分どんどん悪くなっていってる」

「早く何とかしないと、本当に……」


 最後まで言い切らなかった。

 言い切れなかったんだろう。


 でも、言いたいことは分かる。


 本当に、手遅れになる。


 その言葉を、俺が分からないわけがなかった。


「……だからって」

 絞り出すみたいに俺は言う。

「だからって、お前自身がダンジョンに潜ろうっていうのは、おかしいだろ」


「おかしいのは兄さんでしょ⁉」


 唯が初めて声を上げた。


 その瞬間、部屋の空気が変わる。


 唯は椅子から立ち上がっていた。

 目の奥が熱い。

 泣きそうなんじゃない。怒っている。


「あんなに知名度と実力があって、どうして配信しないのっ⁉」

「どうして表に出ないのっ⁉」

「十億あればお母さんは助かった!」

「そこまで分かってるなら、兄さんなら十億稼ぐくらい……!」


「無理だ」


 今度は俺が、唯の言葉を切った。


「俺の知名度は、十億稼げるほど高くない」


 唯が息を呑む。

 でも、俺は止まらなかった。


「そもそもダンジョン配信者自体、数が多い」

「それに対して需要はそこまで多くない」

「見てる側の大半は、“ダンジョン誰か何とかしてくれないかな”って、娯楽として消費してるだけだ」


 俺は自分でも驚くくらい冷静に言っていた。


「金儲けに向いてるかって言えば、そんなことはない」

「儲けてるのはトップのクランだけだ」

「お前は十億を甘く見すぎだ」


 それは、事実だった。


 ダンジョン配信は目立つ。

 知名度もつく。

 だが、知名度と収益は別だ。


 話題になることと、十億に届くことの間には、気が遠くなるほどの距離がある。

 だから俺は表で派手に稼ぐ道じゃなく、裏で世界中を回って、一つずつ積み上げる道を選んだ。


 遠回りに見えて、あれが一番現実的だったからだ。


 唯は、歯を食いしばるみたいに俺を見ていた。


「そんなこと分かってる……!」


 声が震える。

 でも、それは弱さじゃない。

 感情が強すぎるだけだ。


「分かってるよ!」

「分かってるけど……だから私がやるしかないって思ったんだよ!」


 その言葉が、胸に刺さった。


 俺が全部背負えばいい。

 俺が稼げばいい。

 俺が危ないことをすればいい。


 どこかで、そう思っていた。


 唯は家にいてくれればいい。

 少なくとも、ダンジョンの外にいてくれればいい。

 そうやって勝手に、守る側と守られる側を決めていたのかもしれない。


 でも唯は、そんな役を引き受けるつもりはなかった。


「兄さんばっかり危ないことして」

 唯が言う。

「兄さんばっかり世界中飛び回って」

「私だけ何もするな、待ってろって、それ無理だよ」


 きつかった。


 正しいからじゃない。

 正しいかどうかとは別のところで、きつかった。


 妹は、ちゃんと見ていたのだ。

 俺が何をしているのか。

 どれだけ危ない橋を渡っているのか。

 何も言わずに、それでも見ていた。


 俺が黙っていると、唯は少しだけ息を整えてから続けた。


「お母さんのことだって、兄さん一人で背負うのおかしい」

「私だって家族だよ」

「何も知らないふりして待ってるだけなんて、そんなの嫌だよ」


 テーブルの上で、唯の指先が小さく震えていた。


 怖くないわけがない。

 危なくないわけがない。

 それでも、それでも前に出ようとしていた。


 そのことが分かるから、なおさら言葉が重くなる。


「……もう少しなんだよ」


 気づいたら、俺はそう言っていた。


 唯が顔を上げる。


「いま九億」

 俺は言った。

「あと一億だ」


 唯の目が大きくなる。


「……え」

「世界中飛び回って、やっとここまで来た」

「もう少しって段階まで来てるんだ」


 初めて言った数字だった。


 母の薬。

 十億。

 そして今の貯え。


 唯に隠していたわけじゃない。

 ただ、言っていなかった。


 言えば、それが唯にとっても“現実”になるからだ。

 現実になったら、唯はきっと、今みたいに動き出すと思っていた。

 そして、その予感は正しかった。


「あと少しなんだよ!」

 気づけば声が上がっていた。

「だから、今お前まで……!」


 そこで、喉が詰まる。


 言葉の続きは、叫びじゃなくて、ほとんど懇願だった。


「もしお前まで死んだら、俺は何のためにここまでやったのか分からなくなるだろ⁉」


 静かになった。


 言ってしまった。


 ずっと胸の底にあった本音を、そのまま吐き出してしまった。


 父は死んだ。

 母は眠ったままだ。

 その上で俺がここまでやってきたのは、せめて残っている家族を助けるためだった。


 なのに、その妹が自分から危険な方へ足を踏み出している。


 それが、どれだけ怖いか。


 どれだけ耐えられないか。


 今ので、たぶん全部伝わった。


 唯は何も言わなかった。


 さっきまでの勢いが、急に消えたわけじゃない。

 でも、今の俺の言葉は、ちゃんと唯に届いたのだと思う。


 しばらくして、唯が小さく口を開いた。


「……あと少しって、兄さんは言うけど」


 声は、もう怒鳴っていなかった。

 静かだった。

 でも静かな分だけ、深い。


「“あと少し”で何かが間に合わなかったこと、今まで何回あったの」


 その問いに、俺は答えられなかった。


 父の時。

 もっと早くダンジョンに入っていたら。

 もっと早く飴を引いていたら。

 もっと早く気づいていたら。


 “あと少し”で間に合わなかったことなんて、数え始めたらきりがない。


 唯は俺の沈黙を見て、少しだけ目を伏せた。


「私だって、兄さんが頑張ってるのは知ってるよ」

「九億まで来たの、すごいと思う」

「でも、それでも、もし間に合わなかったらって思うと……待ってるだけなんて無理なんだよ」


 その言葉は、本当に正しかった。


 正しい。

 正しいけど、だからって認められるかは別だ。


 俺は両手を握りしめた。

 怒っているのか、泣きそうなのか、自分でも分からない。


「……待ってくれ」


 結局、最後に出たのはそれだった。


「あと一億なんだ」

「本当に、あと少しなんだよ」

「だから……もう少し待ってくれ」


 懇願だった。

 兄としてじゃない。

 立派な言葉でもない。

 ただの、みっともないお願いだった。


 唯はそれを聞いて、すぐには答えなかった。


 部屋の時計の音だけが、妙に大きく聞こえる。


 しばらくしてから、唯はゆっくり息を吐いた。


「……ずるい」


 小さな声だった。


「何が」

 俺が聞くと、唯は苦笑みたいな顔をした。


「そこまで言われたら、今すぐは動けないじゃん」


 その返答に、少しだけ力が抜けた。


 完全に納得した顔じゃない。

 諦めた顔でもない。

 でも少なくとも、“今すぐ勝手にどこかへ行く”顔ではなかった。


「ただし」

 唯が顔を上げる。

「私、やめるとは言ってないから」


 やっぱりそこはそう来るか。


「……ああ」

 俺は短く答えた。


「兄さんがあと一億を稼ぐまで、待つ」

 唯は言う。

「でも、その後も必要なら、私は自分で動く」


 その目は、本気だった。


 子どもの意地じゃない。

 反抗期の勢いでもない。

 ちゃんと考えて、それでも決めている目だ。


 俺はそこでようやく理解した。


 こいつはもう、“守られるだけの妹”じゃない。


 それが嬉しいわけじゃない。

 むしろ怖い。

 でも、見ないふりをしても意味がない。


「……芽依とは、どこまでやった」


 俺が聞くと、唯は少しだけ驚いた顔をした。


「今そこ聞くの?」

「聞く」

「浅い階層だけ」

 唯は素直に答えた。

「本当に浅いところ。環境魔力の感じ方と、混ぜ方の初歩だけ」


 まだ引き返せる。

 そう思う自分と、もう足を踏み入れていると知ってしまった自分がいる。


 唯は少しだけためらってから言った。


「……ごめん」

「黙ってたのは悪かったと思ってる」


 その謝罪は、効いた。


 正しいとか間違ってるとかじゃなく、ちゃんと悪いと思っているのだと分かるだけで、少し救われる。


「でも」

 唯は続ける。

「兄さんも、言ってなかったじゃん」

「九億のこと」


 返す言葉がなかった。


「家族なんだから、話してよ」

「私を守りたいのは分かるよ」

「でも、何も知らないまま守られるだけって、結構きついんだよ」


 それも、本当だった。


 俺は今まで、知っている側だった。

 決める側だった。

 隠す側だった。


 でも、隠される側がどれだけ息苦しいかを、あまり考えていなかったのかもしれない。


 しばらくして、俺は小さく言った。


「……悪かった」

 唯が少しだけ目を見開く。


「珍しい」

「うるさい」

「でも、ちゃんと謝った」


 そのやり取りだけで、少しだけ空気が戻る。

 さっきまでの張り詰めた感じが、ほんの少しだけ薄れる。


 唯は椅子に座り直して、ようやく疲れたみたいに背もたれへ寄りかかった。


「あと一億」

 小さく繰り返す。

「本当に、そこまで来てたんだね」


「ああ」


「……じゃあ、信じる」


 その一言に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 信じる。

 簡単な言葉だ。

 でも、それを唯は今、かなり無理して言っている。


 だからこそ、俺は絶対に外せない。


「待っててくれ」

 俺はもう一度言った。

「今度は、本当に間に合わせる」


 唯は少しだけ笑った。

 泣きそうでもあり、呆れているようでもある、妙な笑い方だった。


「兄さん、そういう時だけ格好つけるよね」

「うるさい」

「でも……」

 唯は言う。

「うん。待つ」


 それで十分だった。


 父のこと。

 母のこと。

 唯のこと。

 全部、まだ終わっていない。


 けれど少なくとも今夜、兄妹の間にあった見えない壁は少しだけ薄くなった気がした。


 俺は深く息を吐いて、ようやく座った。


 あと一億。


 数字としては、まだ遠い。

 でも、前よりはずっと形が見えている。


 だから本当に、あと少しなんだ。


 その“あと少し”を、今度こそ間に合わせるために。


(つづく)

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