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第72話 名前と、知らなかった妹の話

 インドの囚人ダンジョンは、入った瞬間から空気が悪かった。


 湿っているわけじゃない。

 暑いわけでもない。

 むしろ温度は一定で、肌にまとわりつくような不快さもない。


 それでも、空気が悪いとしか言いようがなかった。


 理由はたぶん、静けさの質だ。


 ここは普通のダンジョンみたいに、魔物がその辺をうろついているだけの場所じゃない。

 見られている。

 試されている。

 そして、失敗した瞬間に「囚人」として扱われる。


 そういう意志が、空気そのものに染みついている。


 俺と巫女服少女――いや、もうこの呼び方もそろそろ限界か――は、第一階層の石造りの通路を進みながら、最初のルールをもう一度だけ頭の中で反芻していた。


 フロアに侵入してから一定時間内に、「視界に入った全ての魔物」を倒しきること。


 見えたのに残したら終わり。

 逃がしたら終わり。

 一匹でも見逃した時点で、床から黒い鎖が現れる。


 そして、捕まったら最後。二十四時間以内に救助されなければ、魔物化する可能性が高い。


 あまりにも嫌なルールだ。

 しかも初見じゃほぼ確実に引っかかる。


 インドの特級魔法使いも、まさにそこを突かれた。


 強敵だけを瞬殺し、雑魚は眼中になかった。

 その結果、ネズミみたいな一匹の雑魚魔物が“告発者”になった。


 その末路を、俺たちはもう知っている。


「右の柱の陰」


 俺が言うと、巫女服少女は頷くより先に手を上げた。


 白い袖口から覗いた指先に、熱が集まる。

 火力に特化した魔法。

 十年前、俺が初めて見た時と同じ、あの理不尽なまでの圧縮熱量。


 赤い線が一閃した。


 柱の陰に隠れていた小型魔物ごと、石壁が半ばまで焼け落ちる。

 悲鳴は一瞬。

 残るのは焦げた匂いだけだ。


「次、天井左奥。二体」


「了解」


 返事が軽い。

 だが軽いからといって、気が抜けているわけじゃない。


 むしろ逆だ。


 こいつは、本当に“見えた敵を全部消す”という条件に適していた。


 広範囲。

 高火力。

 迷いのなさ。

 そして何より、発見した相手を即座に射程圏へ変える反応速度。


 優奈だとこうはいかない。

 優奈は単体処理速度が高い。

 だが、このダンジョンに必要なのは“処理速度”というより“殲滅速度”だ。


 それを考えると、今回の組み合わせはたぶん正しい。


 通路を曲がった先で、ネズミ型の小型魔物が三匹、こちらを見て固まった。

 小さい。

 弱い。

 でも、このダンジョンでは最も危ない。


 逃げる雑魚は、そもそも俺の敵じゃない。

 強い奴だけ倒せばいい。


 そんな思考が、あの特級をここまで落とした。


 だから俺は、一匹たりとも目の前から逃がすつもりはなかった。


「三匹とも見えてる。右から二、左一」


「はいはい」


 巫女服少女が面倒くさそうに言いながらも、しっかりと指先を振る。


 細い火線が三回走り、三匹とも床に伏した。

 その確認が終わるまで、俺は前に進まない。


 ここでは、それが正しい。


「なんかさ」


 小型魔物の死骸を飛び越えながら、巫女服少女が唐突に言った。


「何だ」


「私が一方的に知ってただけで、まだちゃんと名前名乗る機会なかったよね」


 その言葉に、俺は一瞬だけ足を止めかけた。

 だが止まらない。

 止まるのは、このダンジョンでは悪手だ。


「……今それ言うのか」


「今だからでしょ」

 巫女服少女は笑った。

「静かな時に言うと変に気まずいし」


 その理屈は意味が分からない。

 だが確かに、今はまだ魔物が湧くペースに余裕がある。


 俺が黙っていると、巫女服少女は少しだけ得意げに続けた。


「私は、結川芽依。結ぶ川に、芽に、依るって書いて芽依」

 それから、くすっと笑う。

「妹さんは知ってたみたいだけど、関わりが深いはずの兄が知らないって、変な話だよね」


 ――今、何て言った。


 脳が一瞬だけ、その情報を受け取り損ねた。


 妹。


 知ってた。


 俺は反射的に聞き返していた。


「……なんで、俺の妹が知ってるって知ってるんだ?」


 芽依が「え?」と、本当にきょとんとした声を出す。


「え、ユウマ知らなかったの?」


 足元が一瞬、空いた気がした。


「何をだよ」


 声が思ったより低く出た。


 芽依は少しだけ困った顔になった。

 そこでようやく、自分が何か共有されていないことを口にしたらしいと気づいたのだろう。


「あー……」

 珍しく歯切れが悪い。

「ごめん、知ってると思ってた」


「だから何を」


 俺の言葉が少し強くなる。

 それでも芽依は、変に誤魔化さなかった。


「最近、私に弟子入りしてきたんだよ」

 軽く言う。

「環境魔力について教えてほしいって。ダンジョン配信者になるからって」


 言葉が、すぐには意味にならなかった。


「……は?」


 芽依はそこで、やっと少しだけ申し訳なさそうな顔をした。


「ユウマの妹」

「何回か会ってるよ。まだ浅い階層だけだけど、一緒に入ったこともある。配信そのものはしてないけど、本気だった」


 俺は何も言えなかった。


 言葉が、出てこない。


 妹が。

 ダンジョン配信者に。

 芽依に弟子入りして。

 環境魔力を習っていて。

 俺はそれを、知らなかった。


 頭の中で言葉だけが回る。

 だが意味にならない。


 病院で母の顔を見た時の空気が、急に胸の奥へ戻ってきた。


 父は死んだ。

 母は眠ったままだ。

 そのうえ妹まで、ダンジョンに入ろうとしている?


 そんな話、聞いたことがない。


 妹は、俺が病院代を一人で十分賄えると言えば、素直に頷いていたはずだ。

 バイトしたいような素振りもなかった。

 金に困っている顔も見せなかった。


 なのに何で。


 どういうことだ。


 何でそんな危険な道を、黙って選ぶ。


 父さんが死んで、母さんが倒れて、それで妹まで死んだら、俺は――。


「ユウマ」


 芽依の声が、珍しく真面目だった。


 そこで初めて、自分が立ち止まりかけていたことに気づく。

 危ない。

 このダンジョンで思考を止めるな。


 俺は歯を食いしばって、視線を前へ戻した。


 通路の先。

 小型魔物一。

 右壁際。

 左天井に中型が一。

 見えている。


 見えているなら、全部殺す。


「右壁際、小型。天井左に中型。先に小型だ」

 声だけはちゃんと出た。


「了解」


 芽依が一歩前へ出る。

 火線。

 小型消滅。

 続けて角度を変え、中型も焼き落とす。


 戦闘の手順だけが、かろうじて頭を繋ぎ止める。


 だが胸の内側は、ひどかった。


 知らなかった。

 本当に知らなかった。


 何で言わなかった。

 いつからだ。

 どこまで進んでいる。

 芽依と一緒に浅い階層へ入った?

 環境魔力を学んでる?


 それはもう、ただの憧れじゃない。

 準備だ。

 本気の準備だ。


 俺はひどく嫌な予感に襲われた。


 妹は、俺が思っているよりずっと前から、こっち側へ来るつもりだったんじゃないか。


 俺が病院代を出せるとか、生活を守るとか、そんなこととは別に。

 自分の意思で。


 だとしたら、俺は何を見ていたんだ。


「ユウマ、前」


 芽依の声で意識が引き戻される。

 反射で視線を上げると、通路の分岐から鼠型の小型が二匹、こちらを見ていた。


 逃がすな。


 俺は短く言った。


「二匹とも視界に入った。左から焼け」

「はいはい」


 芽依が焼く。

 一瞬だ。

 一瞬で終わる。


 なのに、こっちは全然追いつかない。


 戦闘を続けながら、ようやく俺は絞り出すように聞いた。


「……何でだ」


「何が?」

 芽依はまだ軽い。

 だが、軽さの下で俺の機嫌の悪さは分かっている顔だった。


「何で、妹がそんなことしてる」

 自分でも、質問が曖昧だと思った。

 けれど、それしか出なかった。


 芽依は少しだけ考えてから答える。


「何で、って言われても」

「本人はすごく真面目だったよ。ダンジョン配信者になるって」

「環境魔力を知りたいっていうのも本気だった。遊び半分じゃなかった」


「そういうことじゃなくて……!」


 声が少しだけ荒くなる。


 でも、芽依はそこで初めて少しだけ表情を引き締めた。


「ユウマ」

 今度は本当に、静かな声だった。

「それ、私に怒っても意味ないよ」


 分かってる。

 分かってる。

 分かってるけど、怒りの向き先がすぐには定まらない。


 芽依に怒るのは違う。

 妹に怒るのも、今は違う。

 自分に対して苛立っているのかもしれない。


 知らなかった。

 何も。


 そう思った瞬間、足元から黒い何かが伸びかけた。


 鎖。


 俺は反射で一歩下がる。

 間一髪だった。

 黒い鎖は床の上を這うように伸びたが、すぐに消えた。


 見えた魔物を処理しきった判定がギリギリ間に合ったのだろう。


 背筋が冷える。


「……最悪」


 思考が乱れただけで、こうなる。


 芽依が小さく舌打ちした。


「だから今はそっち考えない方がいいって」

「分かってる」

 俺は低く答える。

「分かってるけど、もう優先順位が変わった」


 言い切った瞬間、自分でも驚くほどはっきりしていた。


 母のこと。

 十億のこと。

 世界中の案件。

 全部大事だ。


 でも今、妹が俺の知らないところでダンジョン配信者になる準備をしていたと分かった以上、それを放っておけるわけがない。


 父の死がある。

 母の病室がある。

 それで妹まで失ったら、俺はたぶん本当に壊れる。


 芽依が俺の顔を見て、少しだけ困ったように笑った。


「……あー、そっか」

 そして小さく肩をすくめる。

「急ぎの用事、できちゃったか」


 俺は短く頷いた。


「この戦い、さっさと終わらせよう」

 声が自分でも驚くほど冷たかった。

「最優先で調べる用事ができた」


 芽依は一瞬だけ目を丸くして、それからいつもの軽い笑い方に戻る。


「了解!」

 それから、ぐっと指を鳴らすみたいに手を上げた。

「急ぎの用事なら仕方ないよね」


 次の瞬間、声の温度が変わる。


「……それじゃあ、まとめて一気に『お掃除』開始――!!」


 空気が変わった。


 それまで通路ごとに処理していた火力が、一段階上がる。

 芽依の周囲に集まった熱量が、明らかに今までと違う。


 広範囲。

 高出力。

 雑魚を見逃さないためだけの、火力の塊。


 通路の先で小さな影が動いた。

 右天井。左壁際。床下の隙間。


「三匹見えた」

 俺が言うより早く、芽依が手を振る。


 赤い線では済まない。

 面で焼いた。


 通路の奥まで一気に熱が走り、潜んでいた小型魔物ごと石壁が溶ける。

 悲鳴も何も残らない。


 さらに前方。

 角を曲がった先に大きな反応。

 中型。

 その背後に小型二。


「見えてる」

 俺が言う。

「全部まとめて行ける」


「任せて」


 芽依が笑う。

 こいつが“本気の殲滅”を始めると、本当に景色が変わる。


 火線が扇状に広がり、先の空間ごと焼き払う。

 逃げる雑魚に逃げ道を与えない。

 視界に入ったものは全部消す。

 このダンジョンのルールを、火力で正面から叩き潰すようなやり方だ。


 たぶん、こいつだからできる。


 優奈には向かない。

 優奈は一体ずつの処理精度が高い。

 だがこのダンジョンで必要なのは、精度より“残さないこと”だ。


 それにしても、強い。


 十年前と同じようでいて、やっぱり違う。

 基礎が上がっている。

 環境魔力の扱いも、火線の制御も、明らかに昔より洗練されていた。


 俺が雑魚の位置を拾い、芽依が焼く。

 それを何度か繰り返すうちに、進行速度が目に見えて上がった。


 戦術としては単純だ。

 だが、だからこそ速い。


「右奥の格子の陰、一匹」

「焼いた」

「天井這ってるの二匹」

「落とした」

「床下、小型」

「そこも」


 まるで掃除だ。

 そういう意味では、芽依の言い方は間違っていない。


 けれど俺の頭の中は、戦闘に集中しながらも、別のことでいっぱいだった。


 妹。


 芽依に弟子入り。

 環境魔力。

 ダンジョン配信者になるつもり。


 嘘だろ。

 いや、芽依がこういう嘘をつく理由はない。

 だったら本当だ。


 何で。

 いつから。

 どこまで。


 病院代は俺一人でどうにかできる。

 それは事実だ。

 妹だって、それは知っているはずだ。

 じゃあ何のために。


 まさか、母さんのためじゃないのか。

 それとも、母さんのため“でもある”のか。

 父さんが死んだあの時、俺と同じように、妹の中にも何か残っていたのか。


 考えれば考えるほど、嫌な汗が出る。


 そして、そのたびに思う。


 この戦いを早く終わらせる。

 終わらせて、確認する。

 それが今、一番優先だ。


「ユウマ!」


 芽依が叫ぶ。

 反射で顔を上げると、前方の広間に出たところだった。


 通路が開けている。

 中央に黒い鉄格子。

 監獄区画へ繋がる前室かもしれない。


 そして、その広間には今までより多い魔物反応がある。

 小型が散っている。

 中型が二。

 しかも、全部がこちらを見ている。


 ――視界に入った。


 全部。


 ここで取り逃がしたら終わる。


「数が多い!」

 俺が叫ぶと、芽依はむしろ笑った。


「だからいいんでしょ!」


 両手を広げる。

 環境魔力が一気に流れ込む。

 熱が膨張し、視界の先が揺らぐ。


 次の瞬間、広間全体が白く燃えた。


 火球というより、面。

 壁から壁へ。

 床から天井へ。

 逃げる余地そのものを消すような火力。


 小型が消える。

 中型も、悲鳴を上げる暇なく焼ける。

 鉄格子の前だけが、まるで“生き残るために空けられた空間”みたいにぽっかり残った。


 熱風がこちらまで吹き抜ける。


 俺は思わず目を細めた。


「……やりすぎだ」

「急いでるんでしょ?」

 芽依が笑う。

「なら、このくらいでちょうどいいよ」


 その軽さに、少しだけ救われる。


 たぶん今、俺一人だったら、思考が妹の方に持っていかれていた。

 冷静にルールを処理しきれなかったかもしれない。


 でも芽依は、そういう隙ごと火力で押し流してくれる。


 頼もしい。

 腹立たしい。

 でも今は、その両方が必要だった。


 広間の奥。

 黒い鉄格子の向こうから、冷たい空気が流れてくる。


 監獄区画。


 たぶん、あの先だ。


 俺は短く息を吸った。


「行くぞ」

「了解、軍師」

 芽依が巫女服の袖を払うみたいにして、何事もなかったかのように歩き出す。


 その背中を見ながら、俺は心の中でだけ呟いた。


 父さん。

 母さん。

 妹。


 頼むから、これ以上俺から勝手にいなくならないでくれ。


 そう思ってしまうくらいには、俺は今、動揺していた。


 でも、止まれない。


 まずは目の前の監獄だ。

 それを終わらせてから、全部確かめる。


 黒い鉄格子の前で、芽依がこちらを振り向く。


「顔、やばいよ」

「うるさい」

「まあ、終わったらちゃんと聞きなよ」

 芽依は少しだけ真面目な目で言った。

「黙ってたのにも、たぶん理由あるから」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。


 ただ頷いて、鉄格子の向こうを見た。


 救出と確認。

 今日の優先順位は、もう決まっている。


(つづく)

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