第68話 病室の静けさと、十億の理由
ルクセンブルクから戻った翌週、俺は珍しく、クランのミーティングの時間よりかなり早く家を出た。
早く出た理由は単純だ。
寄り道をしたかったから。
けれど、その「寄り道」を優奈にどう言うべきか、駅へ向かう間ずっと迷っていた。
言わなくてもいい。
別に今さら、わざわざ話す義務があるわけでもない。
これまでだって、言わずにやってきた。
優奈に協力したのは本当だ。
助けたいと思ったのも本当だ。
強くしてやりたいと思ったのも、間違いなく本音だった。
でも、それだけじゃない。
それだけじゃないのに、俺はたぶん、これまで“それだけ”みたいな顔をしていた。
駅前で優奈と合流すると、いつものように優奈は小さく手を振った。
「おはようございます!」
明るい声。
けれど、ここ最近の優奈はただ明るいだけじゃない。
ルクセンブルク、アメリカ、六階層――色々なものを見て、それでも前を向けるだけの芯ができている。
「おはよう」
俺が短く返すと、優奈はすぐに首を傾げた。
「あれ? 今日ちょっと早いですね」
「……まあな」
そこで言うべきだった。
けれど、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
優奈はそんな俺を見て、少しだけ表情を引き締める。
「何かありました?」
「いや」
俺は一度だけ息を吐いた。
「ミーティングの前に、少し寄り道していいか」
優奈は一拍置いてから、すぐに頷いた。
「はい、もちろんです」
それから、少しだけ困ったように笑う。
「私、ついて行って大丈夫なやつですか?」
そこを聞くあたり、優奈はちゃんと優しい。
「……たぶん、大丈夫だ」
「たぶんですか」
「たぶんだ」
優奈はそれ以上は聞かなかった。
ただ、「じゃあ行きましょうか」と言って、俺の半歩後ろに並んだ。
ありがたかった。
変に詮索されるより、その沈黙の方がずっと助かった。
病院は、駅から少し離れた場所にあった。
大きい病院ではない。
けれど小さすぎるわけでもなく、長期入院の患者を受け入れる設備はちゃんと整っている。
白い外壁。
自動ドア。
消毒液の匂い。
見慣れているはずなのに、何度来ても好きにはなれない場所だった。
優奈は入口をくぐった瞬間、ようやく行き先の意味を理解したらしい。
小さく息を呑み、それでも何も言わずに受付の横を通った。
病棟へ向かうエレベーターの中で、機械の駆動音だけが小さく響く。
「……ここ」
優奈がようやく声を出した。
「誰か、入院してるんですか」
「ああ」
それだけ答えると、優奈はまた黙った。
余計なことを聞かない。
でも、引かない。
その距離感が、今はありがたかった。
病室の扉の前で、俺は一度だけ立ち止まった。
病室番号は覚えている。
何年通っていても、さすがに間違えない。
優奈が小さな声で言う。
「入りますか」
「……ああ」
扉を開ける。
中は静かだった。
窓際にベッドが一つ。
白いシーツ。
脇に置かれた機械。
一定のリズムで鳴る電子音。
それ以外には、ほとんど音がない。
ベッドに横たわっている人影は、細かった。
髪はきちんと整えられている。
顔色は悪くない。
眠っているように見えなくもない。
だが、“眠っている”のとは違うことを、俺は知っている。
優奈が、ほとんど息だけで聞いた。
「……お母さん、ですか」
「ああ」
俺はベッドの脇まで歩いていって、小さく椅子を引いた。
優奈は少し離れた位置で立ったまま、どう振る舞うべきか迷っている顔をしていた。
「座れよ」
俺が言うと、優奈は慌てて小さく頭を下げた。
「あ、はい……失礼します」
パイプ椅子が小さく軋む。
それでまた病室の静けさが戻る。
しばらく、誰も喋らなかった。
何から話せばいいのか分からなかったし、そもそも、説明しようと思って連れてきたくせに、言葉を選ぶのに少し時間がかかっていた。
けれど、黙っていても始まらない。
「……父さんが死んだだろ」
ようやく出た声は、自分でも驚くくらい平坦だった。
優奈はこくりと頷く。
それはもう、優奈も知っている話だ。
十年前、ダンジョンで死んだ。
俺の原点で、罅割れの始まり。
「母さん、あの時に壊れた」
俺は、母の顔を見たまま言った。
「鬱病っていうのか、精神的にかなり弱って……ずっと、あんまり良くならなかった」
優奈の表情が少しだけ曇る。
「……そうだったんですね」
「まあな」
うなずいて、それから少しだけ言葉を探す。
「父さんが死んだあとも、生活そのものはどうにかなってたんだ」
「いや、どうにかするしかなかった、が近いか」
「でも、母さんは前みたいには戻らなかった」
仕事の話。
家の話。
細かく言い出せばきりがない。
だからそこは省いた。
大事なのは、そこじゃない。
「それで、一年前」
俺は病室の白い床に視線を落とした。
「ダンジョンが世界中で本格的に出現して、稼働し始めたタイミングで……母さんが倒れた」
優奈が息を止める気配がした。
「倒れた、って……」
「意識不明」
俺は短く言う。
「原因ははっきりしない。ただ、時期が時期だから、医者も研究者も“魔力絡みじゃないか”って見てる」
確定ではない。
でも、ただの偶然で片づけるには出来すぎていた。
世界の魔力濃度が変わった。
ダンジョンが増えた。
その前後で、母は倒れた。
「何らかの病気だとは言われてる」
「でも、はっきりした病名はまだない」
「ただ眠ってるみたいに見えるけど、ずっとこのままだ」
優奈は何も言わなかった。
それでよかった。
変な慰めを言われるより、ずっとましだった。
機械の電子音が一定のリズムで続いている。
その音を聞いていると、時々、本当に時間が止まっているような気がする。
「……シュウさんたちに聞いて、最新層の薬とか……」
優奈がやっと絞り出すみたいに言った。
「そういうの、ないんですか」
その善意がありがたくて、少しだけきつかった。
「今までは、なかった」
俺は正直に答えた。
「少なくとも、可能性すら見えなかった」
優奈が唇を噛む。
「じゃあ……」
「でも、最近になって一つだけ出てきた」
俺は言った。
「アメリカだ」
優奈が顔を上げる。
「アメリカ?」
「ああ」
俺は頷いた。
「向こうで研究が進んで、似た症例向けの薬が出たらしい」
病室の空気が、ほんの少しだけ動いた気がした。
「ただし」
俺は続ける。
「安くない」
優奈は少しだけ苦笑するみたいに言った。
「すごく高いんですか」
「十億」
俺は言った。
優奈の表情が固まる。
「……え?」
「十億で売られるようになった」
俺は繰り返した。
「正確には、研究段階に近い超高額治療薬だ。効く保証も、たぶん完璧じゃない」
それでも、“可能性がある”と言われたのはそれが初めてだった。
世界中がダンジョンで壊されて、その副作用みたいな病気が出て、ようやく向こうで研究が進んだ。
そしてその果てに出てきたのが、十億の薬。
高い。
高すぎる。
けれど、無いよりはましだ。
優奈は言葉を失ったまま、しばらく何も言えなかった。
それはそうだろう。
十億なんて、普通の生活の中では現実感がない。
「……だから」
俺はそこで、ようやく本題を口にした。
ここへ来た理由。
優奈に見せたかったもの。
そして、言わなきゃいけなかったこと。
「優奈に協力する理由、俺はこれまで、ちょっと正確に言ってなかった」
優奈がゆっくりこちらを見る。
「正確に……?」
「お前のためだけじゃない」
俺は言った。
「もちろん、お前を助けたいのは本当だ。強くしてやりたいのも本当だ」
そこに嘘はない。
それだけは、絶対に曲げたくない。
「でも、それだけじゃない」
「俺は、今までなかった可能性に賭けたい」
「……十億稼いで、母さんを助けたい」
言ってしまうと、驚くほどあっさりしていた。
もっと言いづらいかと思っていた。
もっと重くなるかと思っていた。
でも、言葉にした瞬間に、俺の中では妙に静かになった。
優奈はすぐには何も言わなかった。
病室の電子音だけが鳴っている。
母は眠ったまま。
窓の外は、少しだけ曇っていた。
やがて優奈は、ゆっくりと息を吐いた。
「……じゃあ」
声は小さい。
でも、震えてはいなかった。
「じゃあ、稼ぎましょう」
それだけだった。
慰めも、同情も、涙もない。
ただ、前を向くための一言だけ。
俺は少しだけ目を閉じた。
その言葉が、変に救いになった。
「簡単に言うなよ」
俺が言うと、優奈は少しだけ困ったように笑う。
「簡単じゃないです」
それから、母の方を見た。
「でも……それしかないなら、やるしかないです」
まっすぐだった。
優奈はたぶん、俺が思っていたよりもずっと強い。
いや、強いというより、そういう時に“止まらない”人間なんだろう。
「yumaさんなら、世界中に貢献してるじゃないですか」
優奈は続けた。
「だから、その結果でお母さんを助けたいって思うの、悪いことじゃないです」
「悪いとは思ってない」
俺は答えた。
「ただ……最初からそれを表に出すのは違うと思ってた」
助けたい。
金が必要だ。
十億稼ぎたい。
そんな生々しい理由を最初から振り回したら、何かが歪む気がしていた。
だから、今まで黙っていた。
優奈は少しだけ首を傾げる。
「でも、言ってくれてよかったです」
「……そうか」
「はい」
短い沈黙。
それから優奈は、おずおずと立ち上がって、ベッドの脇へ歩いていった。
「お母さん」
小さな声。
「初めまして。空下優奈です」
俺は少しだけ驚いた。
そういえば、当然だが、母と優奈が会うのはこれが初めてだ。
優奈は少し緊張した声で続けた。
「勝手に来ちゃってすみません」
「でも……」
そこで一度だけ俺を見て、それからまた母へ視線を戻した。
「yumaさん、すごく頑張ってます」
やめろ。
そう言いかけたが、言えなかった。
「たぶん、すごく無理してます」
「でも、ちゃんと前に進んでます」
「だから……起きたら、怒ってあげてください」
最後の一言に、俺は思わず息を吐いた。
怒る、か。
たしかに、母が今起きたら、俺のやってることを知ってまず怒るかもしれない。
危ない。無茶するな。高校生が何をしてる。
そういうことを言うだろう。
その想像ができるだけで、少しだけ胸が痛くなった。
優奈は一礼して、静かに椅子へ戻った。
それから、もう一度だけ小さな声で言った。
「十億、稼ぎましょう」
「だから簡単に言うなって」
俺は同じことを返す。
優奈は笑った。
「でも、そういう目標がある方が、私、好きです」
「好き?」
「はい。漠然と強くなるより、“お母さんを助けるため”の方が、ずっといいです」
……そういう見方もあるのか。
今まで、俺は自分のこの理由をどこか後ろめたく思っていたのかもしれない。
優奈を助ける。
みんなを助ける。
世界に貢献する。
そういう大きな言葉の裏に、自分の私情を隠している気がしていた。
けれど優奈は、そこを咎めなかった。
むしろ、その方がいいと言った。
病室を出る時、俺は最後に一度だけ母の顔を見た。
相変わらず、眠ったままだ。
だが今日は、来る前より少しだけ“遠くない”気がした。
廊下へ出ると、病室の静けさが一気に遠のく。
看護師の足音。
ワゴンの音。
日常の気配。
優奈はエレベーターを待ちながら、ぽつりと言った。
「ミーティング、行きますか」
「行く」
俺は答える。
「今さら休めない」
「ですよね」
優奈はそこで、ふっと表情を引き締めた。
病室の中の優しさとは別の、いつもの前向きな顔に戻る。
「じゃあ、まずは今日のミーティングからですね」
「……そうだな」
「十億、遠いですけど」
「遠いな」
「でも、一歩ずつなら行けます」
エレベーターの扉が開いた。
俺は中へ乗り込みながら、少しだけ思った。
父の死が始まりだった。
母の眠りが、今の理由になった。
そして優奈は、その理由を知った上で隣に立った。
なら、もう言い訳はできない。
十億。
馬鹿みたいな金額だ。
それでも、やるしかない。
病院を出ると、空気は少し冷たかった。
でも、さっきまでより呼吸はしやすかった。
(つづく)




