第69話 七層は暗闇――魔力探知という基礎
七階層の情報を最初に見た時、俺は珍しく、少しだけ優奈向きかもしれないと思った。
もちろん、楽という意味じゃない。
ダンジョンで「楽」な階層なんて、基本的に存在しない。
ただ――噛み合う。
七階層は、慣れれば優奈にとってボーナスステージになり得る。
そう判断できるだけの理由があった。
問題は、その“慣れ”に辿り着くまでが、かなり面倒なことだった。
クラン施設のミーティングルームで、相良が七階層の暫定資料を表示した瞬間、優奈が最初に漏らした感想は、とても素直だった。
「……真っ黒ですね」
画面いっぱいに映し出されていたのは、ほとんど何も見えない映像だった。
正確には、映っている。
だが、黒い。
光源が死んでいるというより、暗闇そのものがそこに詰まっているみたいな映像。
壁も床も天井もあるはずなのに、それが全部、真っ黒な煙幕に飲まれている。
「七階層は暗闇ダンジョンです」
相良がいつもの落ち着いた声で言う。
「視界がほぼ機能しません。松明やライトなどの通常光源も、現時点では有効性が低いと見られています」
優奈が顔をしかめた。
「有効性が低いって、どういうことですか?」
「光は出る」
俺が先に答える。
「でも、暗闇に呑まれる。照らしてるつもりでも、見える範囲がほとんど広がらない」
「うわあ……」
優奈が素直に嫌そうな顔をした。
「それ、かなり嫌です」
「かなり嫌だ」
俺も頷く。
「でも、パーティーよりはソロ向きだ」
優奈が目を瞬かせる。
「え?」
「暗闇で一番面倒なのは、味方がいることだ」
俺は資料の一部を指で叩いた。
「周囲が見えない状態で複数人が動けば、味方の攻撃線が分からなくなる。誰がどこにいるかも曖昧になる」
相良も頷く。
「誤射や誤爆、連携ミスの危険が高いということですね」
「そう」
俺は言う。
「チームならそこで揉める。どう動くか、どこまで前に出るか、誰がどの範囲を担当するか。全部細かく決めないと死ぬ」
優奈が小さく「あ」と言った。
「でも、私ソロだから……」
「その心配がない」
俺は続ける。
「そこは明確な利点だ」
優奈はそこで、少しだけ表情を明るくした。
暗闇階層と聞いて最初は嫌そうだったが、噛み合う要素があると分かると、すぐに前を向けるようになっている。
それは今の優奈の強さだ。
「じゃあ問題は……」
優奈が資料を見つめながら言う。
「敵の位置、どうやって把握するかですよね」
「そうだ」
七階層では、下手に《発射(自身)》も使いづらい。
普段の優奈なら、位置取りの不利を機動力でひっくり返す。
だが、周囲が見えない場所で高速移動をすると、壁に突っ込む。
それで死ぬのは馬鹿らしすぎる。
だから、七階層で最初に必要になるのは別のものだ。
俺は端末を閉じて、優奈を見た。
「魔力探知を覚えろ」
「魔力探知……?」
優奈が首を傾げる。
相良が補足するより先に、俺が説明した。
「基礎スキルだ」
「周囲に薄く魔力を広げて、返ってくる一瞬の反応を拾う。ソナーみたいなもんだと思え」
「ソナー……」
優奈が小さく繰り返す。
「じゃあ、魔法じゃなくて技術ですか?」
「技術寄りだな」
俺は頷いた。
「ガチャで引く類の魔法じゃない。魔力操作の基礎を応用した探索技術だ」
優奈は少しだけ目を輝かせた。
「それなら、覚えられればずっと使えるやつですね」
「その通り」
「やります!」
返事が速い。
だからこそ、一応釘を刺す。
「ただし、簡単じゃない」
俺は言った。
「探知を出しっぱなしにしたら、普通に魔力が尽きる」
優奈の勢いが少しだけ止まる。
「……あ、はい」
「だから運用が必要だ」
俺は続ける。
「壁沿いに移動しながら、定期的に探知する。探知した瞬間だけ周囲の情報を拾って、また切る。それの繰り返しだ」
相良が資料の横に簡単な図を出した。
暗い通路。
壁沿いに進むルート。
一定間隔で打つ探知波。
「探知の瞬間しか分からないってことですか?」
優奈が聞く。
「そう」
俺は頷く。
「探知した瞬間の位置関係しか取れない。敵がその後動けば情報はすぐ古くなる。だから“どの頻度で打つか”と“どれだけ薄く広げるか”が大事になる」
優奈が露骨に嫌そうな顔をした。
「なんか、思ったより難しそうです……」
「難しい」
俺は認めた。
「慣れてないと感覚が分からなくて、無駄に広く出したり、逆に弱すぎて何も拾えなかったりする」
そこで俺は、あえて名前を出した。
「シュウたちクラスだと、探知しっぱなしでも普通に動ける」
優奈が目を丸くする。
「えっ」
「ただし、あいつらは必要な広さだけ流せる。無駄がない」
俺は言う。
「お前はまだ、そこまでじゃない。だから最初は壁沿いで区切って使え」
「……頑張ります」
返事は少し小さい。
でも萎れてはいない。
優奈はこういう“基礎技術の習得”も嫌がらない。
新しい魔法じゃなくても、自分が強くなるならちゃんと食いつく。
そこは本当に偉いと思う。
最初の練習は、七階層の入口手前で行った。
いきなり奥へ入る意味はない。
まずは暗闇そのものに慣れる必要がある。
階段を下り、七階層へ足を踏み入れた瞬間、優奈は本気で足を止めた。
「……何も見えない」
声が小さくなる。
当然だ。
真っ暗、という言葉では足りない。
普通の闇なら、目が慣れれば輪郭が見える。
だが七階層の暗闇は、慣れることを許さない種類の闇だった。
視界に黒があるんじゃない。
視界そのものが黒い。
床に足を置いている感覚だけが頼りになる。
壁の位置すら怪しい。
自分の手を顔の前に持ってきても、かすかな輪郭があるかどうか。
優奈が本気で困った声を出した。
「これ、ライトとか関係ないですね……」
「関係ない」
俺は短く答える。
「だから魔力探知だ。やってみろ」
優奈はその場で目を閉じた。
暗闇で目を閉じる意味は薄い。
だが、感覚を切り替えるには必要なのだろう。
「周囲に薄く……」
小さく呟き、魔力を広げる。
次の瞬間、優奈が「うわっ」と情けない声を出した。
「何だ」
「壁と床と天井しか分かんないです!」
半泣きみたいな声だった。
それはそうだ。
探知は、最初は世界全部を一気に拾おうとして失敗する。
壁。床。天井。
そういう“固定物”ばかりが強く返ってきて、肝心の敵の位置が分からない。
「広げすぎだ」
俺は即答した。
「もっと薄く、もっと狭く。欲張るな」
「薄くって言われても分かりません!」
「慣れろ」
「ひどい!」
だが、ここで甘やかしても意味がない。
七階層は甘えてどうにかなる場所じゃない。
優奈は文句を言いながらも、すぐに二度目を試した。
今度は狭く。
弱く。
すると今度は、何も拾えない。
「分かんないです!」
「弱すぎる」
「じゃあどっちなんですか!」
そのやり取りを何度か繰り返した後、ようやく“何か”の感覚を掴み始めた。
「……あ」
優奈が小さく言う。
「今、壁の角が分かりました」
「それでいい」
俺は頷く。
「いきなり敵を拾おうとするな。まずは固定物の形を安定して拾え」
七階層では、それが重要になる。
敵の位置だけじゃない。
壁と通路の形。
足場。
逃げ道。
発射が使えないなら、なおさら地形把握が命になる。
優奈は何度も探知を繰り返した。
一回打つ。
切る。
壁沿いに一歩進む。
また打つ。
そのたびに、魔力が少しずつ削れていく。
優奈が顔をしかめた。
「思ったより減ります……!」
「意外と多いだろ」
「かなり多いです!」
優奈は言う。
「これ、ずっとやってたら普通に魔力切れますよね?」
「切れる」
俺は即答した。
「だから出しっぱなしはするなって言ってる」
優奈は少しだけ悔しそうに唇を尖らせた。
「でも、探知しないと何も見えないです」
「その通りだ」
「ひどい階層です」
「知ってる」
そう言いながら、俺も少しだけ考えを修正していた。
七階層は優奈向きだと思った。
それ自体は変わらない。
だが“慣れれば”の部分が思ったより重い。
単独行動に向いているのは確かだ。
味方の位置を気にしなくていい。
誤射も誤爆もない。
動線を自分だけで決められる。
けれど、その代わり、索敵の責任も全部自分一人に乗る。
そこを越えられるかどうか。
「もう一回」
俺が言うと、優奈は露骨に嫌そうな顔をした。
「えぇ……」
「今ので少しマシになった」
「本当ですか?」
「本当だ。だからもう一回だ」
優奈はぶつぶつ言いながらも、素直に従った。
そしてその“もう一回”で、初めて敵を拾った。
右前方。
地面に近い位置。
形は曖昧。
でも、固定物じゃない。
優奈の呼吸が一瞬止まる。
「……何かいます」
声が小さくなる。
「位置は」
「右前」
「距離」
「……近いです。たぶん」
「たぶんでいい。切れ」
優奈が黒刀を構え、探知で拾った方向へ半歩だけ踏み込む。
その瞬間、暗闇の中から低い唸り声がした。
獣型。
速い。
だが、優奈はもう位置を知っている。
刀が横に走る。
手応え。
短い悲鳴。
何かが床に落ちる音。
優奈が息を吸った。
「……当たりました」
「そうだろうな」
ここで初めて、優奈の顔に少しだけ笑みが戻った。
「見えないのに当たるの、変な感じです」
「見えてないわけじゃない」
俺は訂正した。
「目以外で見てるだけだ」
優奈が小さく頷く。
「……なるほど」
それから少しだけ、楽しそうな声になった。
「なんか、分かってくると面白いかもです」
そう来たか。
俺は思わず小さく息を吐いた。
「慣れるの早いな」
「まだ全然です!」
優奈は言う。
「でも、さっきよりは分かります」
暗闇の中で、それは大きい。
怖い。
見えない。
分からない。
その三つが揃うと、人は動けなくなる。
だが、少しでも“分かる”が増えれば、人は前に出られる。
優奈はそのタイプだ。
それからしばらく、優奈は壁沿い移動と魔力探知を繰り返した。
足音の重い敵は分かりやすい。
床の振動もある。
だが、音が小さい敵は厄介だ。
途中、一度だけ天井近くから何かが這うような気配がした。
優奈は探知を打つタイミングが遅れ、真上の存在を拾い損ねた。
「上!」
俺が叫ぶ。
優奈がとっさにしゃがみ、暗闇の中を何かが掠めた。
風だけが頬を打つ。
「今の絶対危なかったです!」
「知ってる」
俺は短く答えた。
「探知は万能じゃない。打った瞬間しか分からない。動かれると情報が古くなる」
優奈が肩で息をしながら頷く。
「だから、頻度……」
「そうだ」
「でも頻度上げると魔力が減るんですよね?」
「そうだ」
七階層は、そこが嫌らしい。
見る。
だが見続けられない。
知る。
だが知り続けられない。
だから運用になる。
優奈はそこで、少しだけ考えてから言った。
「壁沿いに動くの、やっぱり正しいですね」
「理由は?」
「少なくとも一方向は気にしなくていいからです」
優奈が言う。
「探知した時に、“壁がある側は安全”って前提が作れるだけで、頭がかなり楽になります」
俺は頷いた。
「正解」
短く。
「だから壁沿いなんだよ」
暗闇で一番怖いのは、全方位を警戒しようとすることだ。
それをやると探知が広がる。
広がると消耗する。
消耗すると長く持たない。
だから壁を使って、警戒方向を減らす。
七階層は、そういう地味な積み重ねが生死を分ける。
優奈はまた探知を打ち、また一歩進む。
「……シュウさんたち、これをずっとやれるんですか」
「やれる」
「やばくないですか?」
「やばい」
俺は認めた。
「でも最初からできたわけじゃない。必要な広さと強さを覚えたから、無駄なく回せるようになったんだ」
優奈がむっとした顔をする。
「じゃあ私もそこまで行けますよね」
「行ける」
俺は即答した。
「ただし、今日じゃない」
優奈は少しだけ不満そうに「ですよねぇ……」と漏らした。
でも、その不満の仕方が軽い。
諦めていない。
“まだ届いてないけど、届く前提”の不満だ。
それでいい。
地上へ戻った時には、優奈の額にじっとり汗が浮いていた。
七階層で激しい戦闘をしたわけじゃない。
それでも疲れる。
魔力探知はそういう基礎技術だ。
「思ったより、だいぶ疲れました……」
施設の椅子に座った優奈が、素直にそう言った。
頬は少し赤く、目にはまだ暗闇の緊張が残っている。
「意外と多いだろ、消費」
「かなり多いです」
優奈は即答した。
「最初、もうちょっと気楽な感じかと思ってました」
「気楽な基礎技術なんてない」
俺は言う。
「特にダンジョン内で使うやつはな」
優奈は苦笑した。
「基礎って聞くと、つい簡単そうに思っちゃうんですよね」
「分かるけどな」
俺は少しだけ肩を竦めた。
「でも慣れれば改善する。無駄打ちが減る。拾う情報も整理される」
優奈は机に突っ伏しかけて、でも途中で体勢を戻した。
「七階層、慣れたら本当にボーナスステージになると思いますか?」
「思う」
俺は迷わず答えた。
「少なくとも、パーティーよりお前向きだ。単独で動ける時点で有利だし、暗闇で誤射を気にしなくていいのはでかい」
優奈が小さく笑う。
「ソロでよかったってことですね」
「七階層に限ればな」
それから俺は付け加えた。
「ただし、発射はまだ雑に使うな」
「壁に突っ込むから、ですよね」
「そうだ。探知で空間の形が掴めるようになってからにしろ」
優奈は真面目な顔で頷いた。
「はい」
その返事のあと、少しだけ間があって。
優奈はふっと息を吐いた。
「……でも、なんか」
「なんだ」
「久しぶりに、“新しいこと覚えてる”感じがしてちょっと楽しいです」
俺は少しだけ目を細めた。
それは、分かる。
七階層は嫌な階層だ。
暗い。
見えない。
発射も雑に使えない。
基礎技術の習得まで要求してくる。
それでも、その基礎が身についた時、世界の見え方が変わる。
優奈が今感じている“楽しい”は、そういう種類のものだろう。
「だったら覚えろ」
俺は短く言った。
「慣れれば七階層はかなり楽になる」
「はい!」
今度の返事は、最初よりずっと強かった。
七階層は始まったばかりだ。
まだ敵の全容も見えていない。
探知も下手だ。
暗闇の中では発射も封じられているに近い。
だが、それでも優奈はもう“何も見えない”ところから一歩進んだ。
見えないのに当てた。
見えないのに、壁の形を取れた。
それは確かに前進だ。
なら次は、もっと奥へ行ける。
(つづく)




