第56話 第五層は矢の雨――“速度寄り”の思考強化
ロシアの盤石は、最低限整った。
四角形の拠点。
一本の安全道。
罠の再設置。
解除時間の運用。
重工業化の装備循環。
もちろん、完璧じゃない。
天使は賢い。いつか必ず適応してくる。
だが今すぐ崩壊する盤面ではなくなった。
――だから一度、日本に戻る。
俺たちがロシアでやったのは、“勝つ”ためじゃない。
“負けない形”を作っただけだ。
そして日本には、別の期限がある。
第五層。
階層が上がるほど、情報格差は広がる。
広がった格差は死者で埋まる。
埋まった死者を後から悔やんでも遅い。
だから進む。
優奈が、優奈のまま進む。
帰国して最初の週末。
クランの施設に集まり、簡単な共有を済ませる。
相良は相変わらず笑顔の圧で「ロシアの件は英国と同じく“燃やさない運用”で回します」と言い、俺は「燃えたら終わるからな」とだけ返した。
優奈はその間、ずっと落ち着かなかった。
落ち着かないのは怖いからではない。
進みたがっているのだ。
第四層を越えた今、優奈の中には“次”がある。
「ユウマくん!」
ミーティングが終わるや否や、優奈が駆け寄ってくる。
「第五層、行きましょう!」
敬語ではない。
学校の時と同じ呼び方。
距離が近い分、勢いも強い。
「行く」
俺は短く頷いた。
「ただし下見は短く。五層は空気が変わる」
優奈が頷く。
「はい!」
語尾に「!」が戻っている。
その「!」は今、怖さより期待で出来ている。
ダンジョン入口。
いつもと同じゲート。
だが“第五層”という数字が、空気を変える。
武器制限のチェック。
刀、銃、予備の刃物。
優奈の《携行許可》に、必要最低限の物資と緊急用の煙幕、止血具、簡易シールドの材料。
準備が整い、俺たちは第五層へ降りた。
最初の一歩で分かった。
――ここは、矢で殺す階層だ。
足場は広い。
森でも洞窟でもない。
見通しが利く場所が多い。
つまり、狙撃が通る。
そして狙撃が通る場所で狙撃が飛んできたら、人は死ぬ。
矢が飛んできた。
一本じゃない。
数本でもない。
雨だ。
優奈が反射で前に出ようとするのを、俺は腕で止めた。
「止まれ」
短い命令。
次の瞬間、矢が地面に突き刺さる音が連続する。
ヒュン、ヒュン、ヒュン――と空気が裂ける音。
その間に、別の音が混ざる。
ズン、と重い音。
盾。
オークアーチャーが盾を構えながら、隙を見て矢を放っている。
そしてさらに奥――。
空気が一瞬だけ“歪んだ”。
回転する魔力矢。
貫通に特化した狙撃。
壁を抜くタイプ。
遮蔽物が安心にならない。
優奈が息を呑んだ。
「……これ……!」
敬語が消えかける。
「矢が……多すぎます……!」
俺は短く言った。
「第五層の雑魚は弓だ」
「前がゴブリンアーチャー。連射担当」
「中がオークアーチャー。盾持ちで隙撃ち」
「後ろがウィッチ。貫通の狙撃」
言いながら、俺は優先順位を組む。
(後ろのウィッチが最優先)
(貫通は遮蔽を殺す)
(遮蔽が死ぬと、雨で死ぬ)
優奈が小さく言った。
「……どうしますか?」
声が震える。
でも逃げない声。
「撤退」
俺は即答した。
「今は情報だけ取る。ここで粘る意味がない」
優奈が頷く。
「はい!」
迷わない。
迷わないから生き残れる。
俺たちは最短の動きで階段へ戻り、第五層から離脱した。
地上へ出た瞬間、優奈が肩で息をした。
「……やばいです」
敬語に戻る。
「今までで一番、初動が危なかったです!」
「正しい感想だ」
俺は短く言った。
「五層は“反射”じゃない。処理速度の階層だ」
優奈が首を傾げる。
「処理速度……?」
「矢が多いと、避けるのは反射だけじゃ無理になる」
俺は続ける。
「どれを避けるか、どれを捨てるか、どれを掴むか、どれを切るか――判断が必要になる」
優奈が唇を噛む。
「……判断が遅れたら……」
「死ぬ」
俺は即答する。
言い切るのが優しさだ。
優奈は頷いた。
怖がっている。
でも目は死んでいない。
「じゃあ……どうすれば……」
優奈が小さく問う。
俺は答えた。
「ある魔法を取る」
短く。
「思考強化だ。速度寄り」
優奈が目を見開く。
「思考強化……!?」
その単語は、優奈にとって“ユウマの過去”の匂いがする単語だ。
だから驚く。
「俺の持ってるのは分析寄りだ」
俺は言う。
「お前が欲しいのは速度寄り。頭の回転を速くする方」
優奈が息を呑む。
「それがあれば……矢に対応できるんですか?」
「対応“しやすくなる”」
俺は言い直す。
「魔法は万能じゃない。でも処理が速くなれば、矢の雨でも“優先順位”が付けられる」
優奈が頷く。
「……狙撃の位置も、分かりやすくなりますか?」
「なる」
俺は即答した。
「ウィッチの貫通矢は、角度で分かる。速度寄りならそれが見える」
優奈は拳を握った。
「取りましょう!」
強い声。
「思考強化(速度寄り)!」
問題は――出ないことだ。
思考強化は、本来初ランクでもかなり出にくい。
そして速度寄りはさらに少ない。
分析寄りと違って、“直感”に寄るからだ。
だが選り好みしている暇はない。
狙う。回す。回数を稼ぐ。
それが運用だ。
魔法ガチャ飴を集める。
第五層の矢の雨を避けるために、下層の安全な狩場で回数を稼ぐ。
効率の良いコボルト。
そして余計な火種を増やさないよう、配信は台本通りの安全回。
優奈はその裏で飴を集め、メン限の非公開で回す。
俺は横で数える。
「……一個目」
優奈が飴を口に入れる。
目を閉じる。
首を振る。
「外れです!」
すぐ次へ。
二個目。三個目。
外れ。外れ。外れ。
優奈が笑って言う。
「運、悪くないですか!?」
明るさを保つのが上手い。
でも内心は焦っている。
焦りは見える。
見えるから、止める。
「焦るな」
俺は短く言う。
「焦るほど当たらない」
「はい!」
優奈が頷く。
返事が早い。
――二十個目。
優奈の表情が少し固くなる。
当たりが来ない。
当たりが来ないほど、第五層が遠くなる。
だがここで折れたら、そもそも配信者は続かない。
二十五個目。
優奈が小さく言った。
「……このまま出なかったら、どうしますか?」
不安が本音になる。
「別の手で補う」
俺は言う。
「遮蔽の作り方を変える。煙幕を使う。盾で受ける。……でも最適解は思考強化だ」
優奈が頷き、最後の飴を指でつまんだ。
この回で集めた飴の――二十七個目。
「……行きます!」
深呼吸。
口に入れる。
数秒。
優奈の目が、ぱっと見開かれた。
「……出ました!」
声が弾む。
「思考強化……速度寄り、初以上……!」
“初以上”という言い方にしたのは正解だ。
初、中、上、極――上を目指す必要はまだない。
今は“処理速度”が欲しいだけだ。
優奈が両手を握りしめる。
「すごい……!頭が……頭がすごい回って……!」
言葉が追いつかない。
処理が速すぎて、言語化が遅れる。
「副作用は?」
俺はすぐ確認する。
優奈が瞬きをして、息を吸った。
「……今、ちょっと……世界が、音が増えた感じがします……!」
目が忙しい。
「でも、嫌じゃないです!むしろ……気持ちいいです!」
危ない。
気持ちいいは中毒の入口だ。
だが今は、試す必要がある。
「序盤だけ試す」
俺は言う。
「五層の序盤。撤退前提。動きだけ確認」
優奈が頷く。
「はい!」
強い返事。
再び第五層。
階段を降りた瞬間、矢が来た。
雨。
だが――優奈の目が変わった。
瞳が忙しい。
視線が一箇所に固定されない。
全体を見る目になる。
「……見えます」
優奈が小さく言う。
「矢の角度……どこから来てるか……!」
判断が速い。
優奈は反射で避けない。
優先順位で避ける。
貫通矢の角度を最優先で見切る。
遮蔽物が役に立たないラインだけ避ける。
次に、盾持ちのオークの矢。
速度は遅い。
その分、狙いが悪質だ。
逃げ道を塞ぐように打ってくる。
優奈は一歩だけ位置をずらし、その矢を“当たらないライン”に押し込む。
そして、ゴブリンアーチャーの連射。
数が多い。
全部は避けない。
避ける必要がない。
優奈は刀を軽く振り、最小限だけ弾く。
弾くべき矢と、無視していい矢を瞬時に分ける。
その動きの中で、優奈が一瞬だけ“素手”を出した。
――掴む。
一本。
二本。
矢を掴んで、投げ捨てる。
全部掴むわけじゃない。
掴むのは“致命ライン”だけだ。
その取捨選択が、格の違いになる。
優奈が驚いた声で言った。
「すごい……!体が勝手に……!」
言いながら、少しだけ顔が歪む。
処理が速すぎて、身体が追いつきかけている。
俺は即座に言った。
「切れ。欲張るな」
短く。
優奈が頷く。
「はい!」
そして、息を吐いた。
欲張らない。
それが生存のコツだ。
優奈は狙撃ウィッチの位置を見抜いた。
後ろだ。
岩陰の奥。
角度が鋭い。
「……奥です!」
優奈が言う。
「行くな」
俺が止める。
「今日は試運転だ」
優奈が一瞬だけ不満そうな顔をして、すぐ頷いた。
「……はい!」
従えるのが強い。
俺はタイマーを見る。
短い。
短く終える。
短期攻略の癖を、ここでも崩さない。
「撤退」
俺が言うと、優奈は即座に下がる。
下がりながらも矢を処理し続ける。
階段へ戻る直前、優奈が小さく呟いた。
「……違う」
その声が震える。
「何が」
俺が聞くと、優奈は言った。
「第五層……怖いのに……」
息を吸う。
「……楽しいです」
その言葉が、胸に刺さった。
戦いが楽しい。
強くなるのが楽しい。
それは優奈の才能だ。
そして同時に、危険でもある。
楽しいは前に出すぎる。
前に出すぎれば死ぬ。
俺は短く言った。
「楽しいなら、なおさら運用を守れ」
優奈が頷く。
「はい!」
その返事が強い。
地上へ戻った瞬間、優奈が額を押さえた。
「……ちょっと、頭が熱いです……」
副作用。
頭痛。
軽い吐き気。
「切れ」
俺は即座に言う。
「今すぐ切って休め」
優奈が頷き、思考強化を切る。
息を吐き、肩の力が落ちる。
「……でも、これなら……」
優奈が笑う。
「五層、行けます!」
「行ける」
俺は短く答えた。
「ただし次は“ボス戦の準備”だ」
優奈が背筋を伸ばす。
「はい!」
敬語の「!」が弾む。
矢の雨を“処理できる頭”が手に入った。
これで第五層の入口に立てる。
――さあ次は、ボス戦の準備だ。
(つづく)




