第45話 庭園に残る“魔窟”の影
香港の夜は、眠らせてくれない。
ネオンが明るすぎるからじゃない。
湿気が肌にまとわりつくからでもない。
――手紙が、喉に刺さったままだからだ。
『手を引け』
『“yuma”は未来予知ではない』
あの一文が意味するものを考えれば考えるほど、胸の奥が冷える。
相手は俺の正体を“未来予知ではない”と断言できる。
なら、未来予知の正体にも手が届いている可能性がある。
優奈の親戚。
日本政府が探している正体不明の特級。
もしそこまで繋がったら――優奈の人生の土台が崩れる。
いや、それどころじゃない。
政治案件が、命の案件になる。
だから、早く会う必要がある。
ネクロマンスと。
会って、目的を確かめる。
革命なのか、亡命なのか、復讐なのか。
それを拾って、盤面を冷やす。
――だが、ここで問題が一つあった。
「どこで会う?」
香港は広い。
そして相手は、こちらの動きを見ている。
ホテルに“使い”を寄越した時点で、監視は始まっている。
検索履歴も、問い合わせも、余計な足跡になる。
足跡は刃だ。
刃を握るのは俺じゃない。
だから、俺は“足跡を残さない”ための準備をしていた。
未来予知の親戚に――行動指針を聞いていたのだ。
「困った時、どういう基準で動けばネクロマンスと対話できる?」
俺がそう聞いた時、未来予知の彼女はすぐには答えなかった。
言葉を選ぶのではなく、“言えない”顔だった。
そして、淡々と言った。
「直接教えることはできません」
「……」
「でも、遠回しに教えるなら可能です」
遠回し。
つまり、ヒント。
そしてヒントは、読み解ける者だけが読み解ける形で落ちる。
彼女は、目を伏せて言った。
「かつて陽の光が届かず、法すらも立ち入れなかった魔窟」
一息。
「今はただ、静かな緑と水が、かつての罪を洗い流す庭園にて」
詩みたいな言葉だった。
俺はその場で思考強化を入れた。
頭の中に情報を広げる。
地理、歴史、都市伝説、犯罪、政治。
でも――分からなかった。
魔窟。
陽の光が届かない。
法が立ち入れない。
庭園。緑。水。
該当しそうな場所が多すぎる。
そして何より、俺は香港の地理に詳しくない。
詳しくないことは罪だ。
それでも、俺は香港に来てしまった。
――来た時点で、やることは決まっている。
現地の知恵を借りる。
ただし“足跡を残さない形”で。
翌朝。
優奈は眠れていない顔をしていた。
なのに笑顔を作るのが上手い。
それが逆に心配だ。
「ユウマくん……今日、どうしますか?」
敬語じゃなく、でも声は小さい。
「昨日の……あれ……」
「動く」
俺は短く答えた。
「今日中に、会う」
優奈が頷く。
「はい!」
いつもの「!」が少しだけ戻る。
怖がりながら前に出る。
俺は端末を開いた。
だが検索はしない。
検索した瞬間、履歴が残る。
残れば、相手が拾う。
だから、別のやり方でいく。
俺は優奈に言った。
「クイズを出す」
「……クイズですか?」
優奈が首を傾げる。
可愛いが、今は余裕がない。
「日本語クイズだ」
俺は言った。
「“ヒントの文章”をそのまま出す。回答者には千円相当のギフトを出す」
優奈が目を丸くする。
「えっ、いいんですか!?そんな……!」
「安い」
俺は即答した。
「検索履歴より安い。問い合わせより安い」
優奈が一瞬で理解した顔になる。
「……足跡を残さないため、ですね」
「そう」
優奈は配信者だ。
配信の企画として“日本語クイズ”は自然に見える。
観光で来た日本人配信者が、遊びでやる企画。
それなら、偶然の会話に紛れる。
優奈がスマホを握り、配信アプリを開いた。
「じゃあ、やります!」
深呼吸。
そして、笑顔を作る。
「こんにちは!優奈です!」
カメラに向かって、いつもの明るさ。
「今日は番外編です!香港からお届けしてます!」
俺は横で黙って、影になる。
優奈が表。俺が裏。
いつもの運用。
「突然なんですけど、日本語クイズをやります!」
優奈が言う。
「この文章が指している場所、どこだと思いますか?当たった人には、千円相当のギフトをプレゼントします!」
優奈がヒント文を読み上げる。
「『かつて陽の光が届かず、法すらも立ち入れなかった魔窟。今はただ、静かな緑と水がかつての罪を洗い流す庭園にて』!」
チャットが一気に流れた。
日本語のコメントも、英語のコメントも混ざる。
香港という場所の強みだ。
「え、何それ怖い」
「魔窟って何w」
「香港の場所?」
「九龍?」
「昔の犯罪地帯?」
「公園になってるとこ…?」
「九龍城砦?」
「九龍寨城公園じゃね?」
――来た。
その単語が、視界に刺さる。
九龍寨城公園。
優奈が読み上げる。
「『九龍寨城公園』ってコメントが多いですね!」
目が俺を見る。
「これ?」という目。
俺は頷いた。
「そこだ」
陽の光が届かず。
法が立ち入れず。
犯罪の温床だった“城砦”。
今は公園。緑と水の庭園。
文章と一致する。
一致しすぎている。
未来予知の彼女は、直接言えない。
でもここまで一致するヒントを出せる。
恐ろしい。
優奈が配信を切り、すぐ言った。
「行きましょう!」
鞄を持つ手が早い。
怖いほど早い。
「観光の顔を維持しろ」
俺は言う。
「不自然に急ぐな。急ぐとバレる」
「はい!」
優奈が頷く。
でも歩く速度が少しだけ早い。
怖いんだ。
九龍寨城公園は、想像より静かだった。
緑が多い。
水の音がする。
石畳が整い、観光客が穏やかに歩いている。
“魔窟”という言葉の残響が、ここでは嘘みたいだ。
だが、嘘じゃない。
ここは“洗い流した場所”だ。
洗い流したということは、染みが残っている。
俺は園内に足を踏み入れた瞬間、喉の奥が少しだけ冷えた。
空気の密度が違う。
人が多いのに、どこか“空白”がある。
優奈が小声で言った。
「……きれいですね」
敬語がない。
声が柔らかい。
「きれいな場所ほど、危ない」
俺は短く返した。
優奈が「うぅ……!」と呻く。
俺は思考強化を入れた。
軽く。ほんの少しだけ。
すると――ノイズが減った。
人の気配が、波として見える。
水の音が、線として見える。
そしてその中に、“芯”が見えた。
空気が重い場所。
そこだけ、空間が沈んでいる。
(……いる)
魔力の質。
一人だけ、明らかに違う。
量が多いのではなく、密度が違う。
そして、その周囲に“薄い影”が複数ある。
優奈が囁く。
「……人、多いですね」
「多い方がいい」
俺は言った。
「少ないと、殺される」
優奈が息を呑む。
俺は歩く速度を変えずに、芯へ向かった。
芯の近くに、数人が立っていた。
一見普通の観光客。
だが、歩き方が揃いすぎている。
視線が一定すぎる。
表情が薄い。
(……死体)
昨日の“使い”と同じ匂いがする。
呼吸が浅い。
いや、呼吸そのものがない。
俺は確信した。
護衛は死体だ。
そしてその中心にいる人物だけが、生きている。
“魔力の核”。
ネクロマンス本人だ。
優奈が小さく震えた。
「……ユウマくん……」
怖い声。
でも逃げない声。
俺は優奈を横目で見て、小さく頷いた。
ここで引けば、相手の思う壺だ。
引けば中国が燃える。
燃えれば世界が燃える。
燃えれば次は日本だ。
俺は一歩前に出た。
まず一礼。
礼は武器だ。
礼は盾だ。
礼は「私は敵ではない」を示す最低限の形だ。
そして、声を出す。
「初めまして」
できるだけ丁寧な日本語。
ここは香港だ。日本語が通じる可能性は低い。
だが、相手は俺を呼んだ。日本語の可能性はある。
「日本から参りました。yumaです」
俺は言った。
「よろしくお願いいたします」
一拍。
周囲の“護衛”――死体が、微かに動いた。
反応。
命令待ちの反応。
中心の人物が、こちらを見た。
まだ顔はよく見えない。
帽子で影が落ちている。
でも、視線だけで分かる。
冷たい。
そして、疲れている。
彼は――ゆっくり口を開いた。
「……ようやく来たか、yuma」
日本語だった。
発音が少し硬い。
でも確かに日本語。
優奈が息を呑む。
彼は続けた。
声が低い。
「手紙は読んだな」
「読んだ」
俺は短く答える。
彼が、口元だけで笑った。
「“未来予知じゃない”のに、ここまで来た」
目が細くなる。
「大したものだ」
その一言が、背中に釘みたいに刺さった。
こいつは――知っている。
俺が未来予知ではないことを。
そして、未来予知の正体に触れられる位置にいる可能性がある。
俺は心の中で、盤面を組み替えた。
当初の案――英国への亡命。
丸く収まる可能性。
だが、この相手は“革命”だけの男じゃない。
情報戦の男だ。
死体を護衛にして歩く男だ。
交渉の前提が違う。
俺は息を吐いて言った。
「話をしよう」
短く。
「燃やしたくないなら、なおさらだ」
ネクロマンスが、ゆっくり頷いた。
「いい」
そして、淡々と言う。
「だが先に確認する。“yuma”――お前は、誰の味方だ?」
優奈が息を止める。
水の音だけがやけに大きく聞こえる。
俺は答えた。
迷わず。
「生き残る側だ」
それが、俺の運用だ。
ネクロマンスが小さく笑った。
でも目は笑っていない。
「……なら、話は早い」
その言葉が、交渉の始まりの合図だった。
(つづく)




