第41話(過去編・後編) 飴を渡した日、毒を吸った日
今でも夢に見る。
湿った石の匂い。
冷たい床。
耳の奥で鳴る水滴の音。
そして、あの巫女服の少女が笑って言う。
「ねえ、ひとつ頂戴」
――もし、この時飴を渡さなかったら。
その“もし”が、十年経っても俺の喉を締める。
締めるくせに、答えは出ない。
だって渡さなかったら、あの日の俺は“助けられなかった”かもしれないからだ。
だから夢はいつも中途半端だ。
後悔と正当化が、同じ場所で喧嘩している。
巫女服の少女と出会ってから数日。
俺は変わらずダンジョンを出入りしていた。
父さんの死を見て、シュウたちの目を見て、そこから先の記憶が穴だらけになって――それでも体だけは動いた。
人助けをしながら、情報を拾う。
弱った魔物だけ倒して、飴を拾う。
危険な魔物は避ける。
罠の匂いがしたら回り道をする。
子どもがやることじゃない。
でも、子どもだからこそ“見逃される穴”を抜けられる。
その日もそうだった。
出口付近。
帰還前の薄い緊張がほどける場所。
そこに、彼女はいた。
巫女服の少女。
汚れ一つない白と赤。
場違いなほど綺麗な服。
なのに、足元だけがしっかりしている。
俺が出口の光に近づくと、少女は横からぬるりと現れた。
「ねえ」
声が軽い。軽すぎる。
「さっきダンジョンから出てきたでしょ」
俺は本能で一歩引いた。
引いたのに、彼女は距離を詰めない。
ただ、観察するように俺を見た。
その視線が、嫌だった。
俺の中身を見透かす視線。
俺が何を引いたか、何を持っているか、知っているような視線。
少女は首を傾げて言った。
「次、私も一緒に行っていい?」
笑っている。
でも、断れない空気がある。
嫌な予感がした。
この出会いは避けられない。
そういう予感ほど当たる。
俺は、言葉を探しながら答えた。
「……危ない」
子ども同士の会話として、あまりにも重い言葉。
「死ぬかもしれない」
少女は笑う。
「死なないよ」
笑って言う。
「だって、私、運がいいもん」
運――その言葉が、なぜか妙に腹立たしかった。
父さんは運が悪かったのか?
俺たちは運が悪かったのか?
でも、言い返す余裕はなかった。
少女は続ける。
「ねえ、魔法の使い方教えてよ」
軽く言う。
「どうやって魔法使ってるの?」
俺は警戒した。
でも、教えない理由も見つからなかった。
政府が隠している。
大人が隠している。
でも目の前の相手は子どもだ。
子どもに秘密を守れと言うのは、無理がある。
何より――俺はその時、まだ“情報”の価値を理解しきれていなかった。
俺は言った。
「魔物を決まったルールで倒すと、たまに手に入るんだよ」
自分でも驚くほど冷静な声だった。
「魔法ガチャ飴ってのが落ちる」
少女の目が光る。
「本当だ!」
嬉しそうに言う。
「ねえ、ひとつ頂戴!お願い!だめ?」
――ここだ。
夢の中で何度も繰り返される分岐点。
俺は迷った。
迷って、迷って、最後に妥協した。
「……ひとつだけ」
声が掠れた。
「ひとつだけだぞ」
少女はぱっと笑った。
「やった!」
俺は飴をひとつ、指先で渡した。
それが失敗だった。
この時、俺はまだ分かっていなかった。
飴は武器だ。
武器は渡すものじゃない。
渡すなら責任が伴う。
でも、子どもの俺は責任を知らない。
知っていたら、そもそもダンジョンに入っていない。
少女は飴を受け取ると、迷いなく口に入れた。
恐る恐るじゃない。
まるで“自分のもの”だと確信している動き。
数秒後。
「……あ」
少女が小さく声を上げた。
目が開く。
「すごい」
嬉しそうに言う。
「結構複雑なんだ!魔法の条件!」
俺は思わず言った。
「ん?そんなに複雑じゃないだろ?」
飴は、食べたら魔法が出る。
その程度の認識だった。
少女は首を振る。
顔が真剣だ。
「違うよ」
彼女は、まるで説明書を読んだみたいな口調で言った。
「自前の魔力は使えない」
俺は眉を寄せた。
「……魔力?」
当時の俺にとって魔力は、まだ実感の薄い概念だった。
思考強化で“それっぽい感覚”はあるが、体系化されていない。
少女は続ける。
「自分に対して魔力の使用禁止」
淡々と言う。
「だから、自分の中の魔力を使うと弾かれる」
俺の背中が少し冷える。
“縛り”だ。
飴が“ただの当たり”じゃない。
少女は当たり前のように言った。
「代わりに、環境魔力を自分の魔力みたいに消費して魔法が使える」
そして、笑った。
「そんな感じ!」
……環境魔力?
その言葉は、その時の俺の中に存在しなかった。
「環境魔力……?」
俺が疑問を口に出すと、少女は頷いた。
「うん」
軽い声。
「魔法のおまけで感じられるようになったの」
少女は指を空中に向けた。
「ダンジョンの中に多くある」
空気を掴むみたいな仕草。
「空中の、特殊な魔力。……ほら、ここにもあるよ」
俺は、半信半疑で目を閉じた。
思考強化を少しだけ使う。
頭の中が冴える。
耳が鋭くなる。
皮膚の外側に、薄い“膜”みたいなものを感じた。
「……本当だ」
俺は呟いた。
空気が、重い。
でもそれは湿気じゃない。
何かが、漂っている。
少女が言った。
「吸ってみて」
軽い命令。
「息を吸って、吐いて。身体の外側に薄い膜を作るみたいに」
……誘導。
後から思えば、完全に誘導だった。
でも当時の俺は、その意味が分からない。
俺は言われるまま呼吸を整えた。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
すると、本当に“入ってくる”感じがした。
空気が、身体に馴染む。
身体の一部になろうとする。
でも、違和感がある。
「……難しい」
俺は汗をかいた。
「神経が、はち切れそうだ……」
少女は楽しそうに笑う。
「でしょ?」
笑いながら言う。
「でも慣れたら、簡単だよ」
簡単なわけがない。
でもこの時の俺は、“簡単”に憧れた。
父さんを救えなかった俺は、強さに飢えていた。
俺は少しずつ吸い込む量を増やした。
一割。
身体が冷える。
でも立っていられる。
二割。
指先が痺れる。
視界の端が少し滲む。
(三割は限界)
そんな言葉は知らない。
知らないから進む。
三割。
ここまでなら、なんとかなる。
吐き気はある。
耳鳴りもする。
でも、立っていられる。
世界が少しだけ“鮮明”になる。
空気の重さが見える。
床の湿り気が見える。
魔物の気配が見える。
(……これが力?)
その瞬間、俺は――欲を出した。
もう少し。
もう少し増やせば、もっと強くなる。
四割。
瞬間、世界が裏返った。
めまい。
吐き気。
悪寒。
頭の中がぐにゃりと歪む。
「……っ」
膝が抜けた。
床に落ちる。
吐きそうになる。
(だめだ)
(終わった)
意識が遠のく。
音が遠い。
視界が黒い。
少女が焦った声で俺を支えた。
「えっ、待って!」
初めて焦りが見えた。
でも焦っているのに、どこか余裕がある。
周囲の気配が変わった。
魔物が近づいてくる。
俺は、終わったと思った。
ここで死ぬ。
父さんの後を追う。
シュウたちの前で死ぬ。
……でも。
少女が小さく言った。
「待ってて」
囁き。
「全員倒して、すぐ戻るよ」
その声が、妙に優しかったのを覚えている。
次の瞬間。
光。
光が走る。
全方向に伸びる。
ビームみたいな線。
空気が焼ける匂い。
熱。
でも、熱いのに痛くない。
魔物の気配が、一気に消えた。
全滅。
俺はうっすらとした意識の中で、疑問を抱いた。
(……あきらかに、あれは四割超えてる)
俺が四割で倒れたのに、こいつは倒れない。
倒れないどころか、全方向にビームを撃って全滅させた。
おかしい。
(どういうことだ)
(なぜこいつは俺みたいに倒れない)
疑問が湧く。
疑問が、恐怖に変わる。
“例外”だ。
環境魔力が毒だとしたら、こいつは毒を毒として扱っていない。
毒を燃料として扱っている。
俺は確かめないと情報が手に入らないと思った。
その思考が、俺を救うのと同時に壊す。
試そう。
ぎりぎりまで。
俺は朦朧とした意識のまま、もう一度呼吸を整えようとした。
身体が言うことを聞かない。
でも頭が命令する。
吸え。
耐えろ。
見ろ。
その直後。
意識が、完全に落ちた。
闇が、全部を塗り潰した。
次に目を覚ました時、ダンジョンの外だった。
空が眩しくて、涙が勝手に出た。
喉が焼けるように痛い。
胃が空っぽで、吐き気が残っている。
少女は、隣で何事もなかったみたいに座っていた。
巫女服が汚れていない。
顔色も変わっていない。
俺は声にならない声で言った。
「……お前……何だ」
震える声。
怖さが滲む声。
少女は首を傾げて、楽しそうに笑った。
「んー?」
軽い声。
「ただの巫女だよ」
嘘だ。
そんなわけがない。
でも、その時の俺は――反論できなかった。
反論できる材料がない。
ただ、怖かった。
そして、もう一つだけ確かなことがある。
俺は、この時の失敗を、今でも夢に見る。
もしこの時、飴を渡さなかったら。
もしこの時、四割に手を出さなかったら。
もしこの時、あのビームを見なかったら。
でも現実は変わらない。
飴を渡した。
倒れた。
救われた。
そして――“元凶”を知った。
その日から俺の中に、恐怖が住み着いた。
努力が無意味になる速度で追い越してくる存在。
毒を燃料として笑う存在。
巫女服の少女。
――俺が十年間、逃げ続けた相手。
(つづく)




