第40話(過去編・前半) 最初の飴と、止まれない魔法
十年前。
世界がまだ“ダンジョン”という言葉を知らなかった頃――いや、正確には「知らされていなかった」頃。
政府が隠して、封じて、なかったことにしていた頃。
俺にとっても、ダンジョンは「父さんの仕事の延長」だった。
父さんは強かった。
誰より強くて、誰より冷静で、家に帰ってくると俺の頭を雑に撫でて「大丈夫だ」と言った。
その「大丈夫」を、俺は疑ったことがなかった。
――その日までは。
父さんが戻らない。
時計の針が進むほどに、胸の奥が冷えていく。
母さんの顔は平静を装っていたが、目の奥が揺れていた。
電話は繋がらない。
連絡は来ない。
子どもの俺が理解できたのは、ただ一つだけだった。
(父さん、危ない)
俺は止まれなかった。
玄関の鍵を静かに開け、靴を履き、外へ出る。
夜の空気が冷たい。
心臓がやけにうるさい。
父さんが向かった場所は知っていた。
言葉にしない会話で、察していた。
「裂け目」――政府が封鎖している場所。
近づくな、と言われていた場所。
でも、近づくなという言葉は、子どもにとって「危ないから行くな」じゃない。
「大事なことがあるから隠している」だ。
子どもの好奇心は、恐怖より強い。
恐怖より強いから、死ぬ。
今なら分かる。
でも当時の俺は、分からなかった。
ただ、父さんを追った。
封鎖は、甘くなかった。
鉄柵。
立ち入り禁止の札。
見張り。
それでも“完璧”じゃない。
完璧にするには、人が足りない。
秘密にするには、世界が広すぎる。
俺は草むらを這い、暗がりを使い、柵の隙間を抜けた。
子どもは小さいから、抜けられる。
抜けた先で、空気が変わった。
肌が粟立つ。
匂いが違う。
音が遠い。
裂け目は、そこにあった。
夜の闇の中で、空間だけが薄く揺れている。
水面みたいに揺れているのに、触れたら冷たい予感がした。
俺は一瞬だけ立ち止まった。
(……帰ろう)
理性が言った。
でも次の瞬間、理性は別の声に潰された。
(父さんが死ぬ)
俺は、裂け目に手を伸ばした。
触れた瞬間、世界が反転した。
胃が浮く。
視界が白くなる。
音が消える。
次の瞬間、俺は湿った石の床に膝をついていた。
ダンジョン。
冷たい。暗い。
水滴の音だけが響く。
子どもの足音は小さいのに、やけに大きく聞こえる。
「……父さん……」
声が震えた。
返事はない。
俺は立ち上がって歩き出した。
壁沿い。
足元を見ろ。
誰にも教わっていないのに、体が勝手にそう動いた。
怖い場所では、体が一番正しいことを知っている。
――そして、見つけた。
死にかけの魔物。
通路の端に、血のような黒い液体を撒き散らして横たわる影。
呼吸している。
生きている。
でも、弱っている。
俺は息を飲んだ。
(こいつ……倒せる?)
子どもの俺の手には、武器なんてない。
でも、弱っている。
弱っているなら――。
父さんが言っていた言葉が頭をよぎった。
「生き残るために、躊躇するな」
俺は落ちていた石を掴み、震える腕で振り下ろした。
何度も。
何度も。
嫌な感触。
嫌な音。
魔物が動かなくなった。
息が詰まる。
吐き気がする。
でも、吐いたら終わる気がして、俺は必死で飲み込んだ。
――そして。
魔物の体が、ふっとほどけるように消えた。
残ったのは、床に落ちた小さな飴。
丸い。
透明に近い。
光を少し含んでいる。
(……これが)
魔法ガチャ飴。
噂だけ聞いたことがあった。
政府が隠しているもの。
企業秘密。
でも、実物を見るのは初めてだ。
俺は恐る恐る拾い上げた。
指先が冷える。
飴なのに温度がない。
口に入れるべきか、一瞬迷った。
でも、迷う時間が一番危ない。
父さんを追うなら、迷うな。
俺は飴を口に入れた。
甘い――いや、甘さが“後から”くる。
最初に来たのは、頭の奥が熱くなる感覚だった。
視界の端に、言葉が浮かぶ。
《高速移動》
短い。
シンプル。
直感的。
(……速くなる?)
次の瞬間、足の裏が軽くなった。
体が前へ引っ張られる感覚。
走らないのに、走っている。
俺は驚いて足を止めようとして――止まれなかった。
「うわっ……!」
壁が迫る。
俺は慌てて体をひねって、壁にぶつかる直前で止めた。
止めた瞬間、膝が笑う。
怖い。
でも――速い。
(これなら、父さんに追いつける)
俺は走り出した。
いや、走っていない。高速移動が俺を運ぶ。
通路に魔物が出る。
でも、弱っていないやつには近づかない。
スルーする。
父さんが目的だ。
高速移動は便利だった。
使いやすい。
直感的。
だが、弱点があった。
空中で発動できない。
最初にそれを知ったのは、落とし穴だった。
床が抜けた。
足元が消えた。
落ちる。
(高速移動!)
反射で発動しようとして――できない。
空中では、体を運べない。
地面を蹴る前提の魔法。
俺は咄嗟に壁に手を伸ばし、指を引っかけ、必死に縁にしがみついた。
心臓が破裂しそうになる。
(……空中じゃ、使えない)
その事実が怖かった。
便利なものほど、弱点が致命傷になる。
でも、今は気にしていられない。
父さんが先だ。
俺は高速移動で走り続けた。
その途中で、また弱った魔物を見つけた。
さっきより強そうだ。
でも、弱っている。
なら、倒せる。
俺は震える腕で石を握り、殴った。
殴って、倒した。
そして、また飴が落ちた。
二つ目の魔法ガチャ飴。
俺は迷わず口に入れた。
視界の端に、言葉が浮かぶ。
《思考強化(分析寄-極)》
……なんだそれ。
次の瞬間、世界が“遅く”なった。
音が分解される。
水滴の落ちる間隔が見える。
自分の呼吸が、音として分かる。
そして、頭の中だけが異様に冴える。
(地形)
(敵の種類)
(床の色)
(音の反射)
(空気の流れ)
情報が勝手に入ってくる。
入ってきて、整理される。
整理されて、結論が出る。
(父さんは、奥へ行った)
(この通路の先が近道)
(罠の確率が高い)
(でも回避可能)
嫌な予感が背中を撫でた。
最速で追え。
俺は高速移動で走った。
空中で使えない弱点が、何度も足を引っ張った。
段差。穴。崩落。
そのたびに息が詰まる。
でも、思考強化が俺を救う。
罠の位置を読む。
床の違和感を避ける。
音の反射で敵を避ける。
そして――辿り着いた。
広い空間。
血の匂い。
鉄の匂い。
そこで俺が見たものは、今でも“映像”として残っている。
父さんの死体。
倒れている。
動かない。
目が開いているのに、何も見ていない。
その前に、数人の大人が立っていた。
シュウたち。
後に“最初の攻略者たち”と呼ばれる人間。
当時は、ただの知らない大人だ。
でも、その場の空気がすべてを語っていた。
誰も動けない。
誰も言葉を出せない。
足元に、剣が落ちている。
そして、誰かの声がした気がする。
「……遅かった」
その一言だけが、記憶に刺さっている。
そこから先のことを、俺はあまり覚えていない。
思考強化が働いていた。
働きすぎていた。
俺の脳は“悲しむ”より先に、“生き残る”を選んだ。
父さんの死を見た瞬間、世界が壊れたのに、壊れた世界の中で「次の死を防ぐ」ことだけに集中した。
泣く余裕がない。
叫ぶ余裕がない。
吐く余裕がない。
あるのは、思考だけ。
(シュウたちが死ぬ)
(このままじゃ全員死ぬ)
(敵がいる)
(逃げ道がない)
(なら、戦略を作る)
必死だった。
必死で、シュウたちが死なないように戦略を練ることで手一杯だった。
だから、その日の記憶は“穴”だ。
抜け落ちている。
ただ一つだけ確かなのは――父さんは死んだ、という事実だ。
そしてその事実が、俺の人生を作り直した。
その日から、俺はダンジョンに潜り続けた。
理由は簡単だ。
父さんは俺のせいで死んだ。
もっと早くダンジョンに入り、魔法ガチャ飴を引いていたら、父さんは死なずに済んだかもしれない。
その“かもしれない”が、俺を壊した。
壊れた俺を動かした。
人助けをしながら情報を集める。
危険な奴を見つけたら避ける。
弱った魔物だけ倒して飴を拾う。
思考強化で世界を読み、シュウたちが死なないように導く。
子どもがやることじゃない。
でも、子どもでもやれるように、ダンジョンは“選別”した。
そして俺は、世界の片隅で聞いた。
男たちの会話。
ダンジョンから戻ってきた二人組が、笑いながら話していた。
「……ああ!はずれだ……さっきは当たりだったのに」
男Aの声。
悔しさと笑いが混ざっている。
男Bが笑いながら返す。
「運を使い果たしたな。どんな魔法だったんだ?」
「体を特定の方向には発射できるって魔法だよ」
男Aが吐き捨てるように言った。
「制御が難しすぎるだろ!なんだこれ⁉」
男Bが面白がって聞く。
「止まる難易度がたっけえ、ってやつか」
「そう!止まるのが難しすぎる!」
男Aが声を荒げる。
「壁に突っ込む未来しか見えねえ!」
男Bが笑いを堪えながら、核心を聞く。
「消費する魔力は?」
男Aが肩をすくめた。
「ごく少数だよ」
そして、続けた。
「魔力消費の時間を自分で指定できる分コスパはいいんだがな」
俺は、その会話を覚えた。
発射。
方向に飛ぶ。
止まれない。
でも燃費がいい。
(どっちがいいんだ?)
高速移動は使いやすいが空中で使えない。
発射はコスパがいいが制御が難しい。
当時の俺は答えを出せなかった。
ただ、覚えた。
情報として。
情報を集め続けた俺は、数日前――巫女服の少女と出会う直前まで、そうやって生きていた。
そしてその数日前。
ダンジョンの出口付近で、背中に刺さる視線を感じた。
振り返ると、そこにいた。
巫女服の少女。
当時から、あまりにも場違いだった。
巫女服なのに、汚れがない。
子どもなのに、目が笑っていない。
なのに、口元だけが楽しそうだ。
彼女が言った。
「ねぇ」
軽い声。
「さっきダンジョンから出てきたでしょ」
俺は警戒して一歩引いた。
引いたのに、彼女は距離を詰めない。
ただ、観察するみたいに俺を見る。
「次、私も一緒に行っていい?」
笑って言う。
笑っているのに、断れない空気。
俺の喉が乾いた。
嫌な予感がした。
でも、思考強化が囁く。
(この出会いは、避けられない)
そういう時の予感は、当たる。
(つづく)




