第28話 五分で確信、三十分で決着、黒い刀
ボス部屋に入った瞬間、空気の匂いが変わった。
湿った石の匂いに、鉄の匂いが混ざる。
そして――鼻の奥がツンとする、毒っぽい匂い。
「……うっ」
思わず口を押さえる。
でも、息を止めるのは危険だ。息を止めると判断が鈍る。判断が鈍ると死ぬ。
私は深呼吸を一回だけして、カメラに向けて笑顔を作った。
「みなさん……!空下優奈です!番外編、イギリスダンジョン単独攻略――続き、やっていきます!」
言いながら、手が震える。
震えるのを誤魔化すみたいに、刀の柄を握り直す。
コメント欄が速い。
『英国ボス!?』
『単独やば』
『大丈夫?』
『yumaいないの!?』
『帰れるの?』
私は一回だけ頷いた。
「帰ります!絶対帰ります!無理そうなら撤退します!」
――撤退。
言葉としては言った。
でも、心の中では分かっている。撤退したら、戻る道が地獄だ。
だから“撤退”は、最後の最後。
ボスが見えた。
でかい。
通路の敵とは比べ物にならないほどでかい。
体の輪郭が大きすぎて、視界に収まりきらない。
ただ――動きが単純だ。
私の目が、自然に観察モードになる。
(でかすぎて動きの規模が大きい)
(でもその分、予備動作も大きい)
(読みづらいけど……読めなくはない)
ブレスはない。
遠距離もない。
体当たりだけ。
体当たりの直後、毒っぽい煙がふわっと広がる。
あれは“追い打ち”だ。
近距離に残ったら、じわじわ削られる。
(なら……できることは一つ)
鎧はない。
皮膚は分厚い。
でも、頭部だけは違う。
目の周り。
こめかみ。
額のあたり。
色が少し薄い。
硬さが違う。
――弱点っぽい。
(頭を狙う)
点の攻撃じゃ意味がないボスもいる。
でもこのボスは、自己回復がないなら、点でも線でも“積み重ねれば勝てる”。
(……自己回復がないなら)
私はゆっくり距離を詰めた。
早く動くと、床罠を踏む。
英国ダンジョンは、最後まで床で殺してくる。
ボスが動いた。
肩が沈む。
腰が落ちる。
――体当たりの予備動作。
(見える!)
私は《発射(自身)》で横に跳ぶ。
跳ぶと同時に、刀を振る。
届かない距離の斬撃を、最小で飛ばす。
頭に当たった。
ボスが吠えた。
耳が痛い。
でも、嬉しい。狙いが通った。
『今、当たった!?』
『頭狙い?』
『動き単純っぽい』
コメントが追いついてくる。
でも、読む余裕はない。
ボスがもう一度突進してくる。
私は横へ。
避ける。
避けて、頭に当てる。
その繰り返し。
体当たりは予備動作が分かりやすい。
だから私の反射神経でも避けられる。
――避けられる、けど。
体当たりの直後、毒っぽい煙が広がる。
空気が刺さる。
咳が出そうになる。
でも、咳をすると呼吸が乱れる。
乱れると、次が読めない。
「……っ」
喉の奥が熱い。
私は鼻で息を吸って、口で細く吐く。
結城くんが言っていた“呼吸を守る”やつ。
(煙の中に残らない)
(避けたら、一歩だけ離れる)
(離れてから、頭を狙う)
ルールにする。
ルールにして、考える時間を減らす。
考える時間が増えると、怖さが増える。
……五分。
私は、五分戦って、確信した。
(塞がらない)
頭の傷が、薄くならない。
血が出るわけじゃないけど、明らかに“削れている”感覚がある。
皮膚が裂けた跡が残る。
煙が回復の演出じゃない。
ただの毒だ。
(自己回復、ない……!)
確信が来た瞬間、心臓が少し落ち着いた。
落ち着いたぶん、怖さが別の形で出る。
(……じゃあ、やることは一つ)
(地道に削る)
(削り切る)
地道。
でも、地道は勝つ。
私は一度だけカメラに向けて言った。
「……これ、いけます!」
声が震える。
震えてるのに、笑ってる。
「長い戦いになりますけど……私、勝ちます!」
『いけるのか!?』
『耐久戦か』
『優奈がんばれ』
……長い。
実際、長い。
十分。
十五分。
ボスの動きは単純だけど、単純なものほど“事故”が起きる。
油断した瞬間に、壁に追い込まれる。
煙の中に残ってしまう。
床の段差に足を取られる。
そして、事故は一回で終わる。
私は汗で前髪が張り付くのを感じながら、同じ動作を繰り返した。
避ける。
離れる。
頭に当てる。
呼吸。
足元確認。
もう一度。
そのうち、ボスが少しずつ変わってきた。
吠える回数が増える。
突進の角度が乱れる。
体の重心がブレる。
(……削れてる)
(効いてる)
(勝てる)
勝てると思った瞬間――危険が来た。
二十分過ぎたあたり。
ボスが、追い詰められたみたいに動きを変えた。
時々、ノーモーションの体当たりが混ざる。
(来た……!)
予備動作がない。
見えない。
見えないのに、突っ込んでくる。
私は反射で《発射(自身)》を発動した。
緊急回避。
ギリギリで避けられる。
避けられるけど、魔力が削れる。
魔力はまだある。
でも、無限じゃない。
(ここからが本番)
私は自分に言い聞かせる。
(焦るな)
(ノーモーションが来る前提で構える)
(壁に追い込まれない)
(煙に残らない)
(頭を狙う)
繰り返し。
繰り返す。
繰り返す。
そのうち、集中が切れそうになる瞬間が来た。
毒っぽい煙が鼻を刺して、視界がぼやける。
汗が目に入って滲む。
腕が重い。
足が痺れる。
(……だめだ、今、雑になる)
雑になる。
雑になった瞬間、床に落ちる。
雑になった瞬間、煙の中で咳き込む。
雑になった瞬間、ノーモーション体当たりで潰される。
私は一瞬、動きを止めたくなった。
でも止めたら、死ぬ。
だから私は“止めないための止め方”を選んだ。
――距離を取る。
《発射(自身)》で一気に離れる。
ボスの突進が届かない距離。
煙が薄い場所。
そこで、呼吸だけ整える。
「……っ、はぁ……っ」
吸って。吐いて。
もう一回吸って。
(私は、怖いまま動ける)
(結城くんが言ってた)
(怖いまま動けるのが、一番強い)
自分に言い聞かせる。
強い言葉で、弱さを押しつぶす。
ボスが吠える。
突進してくる。
でも距離がある。
予備動作が見える。
(戻る)
私は戻った。
避ける。
頭を狙う。
また避ける。
また頭。
二十五分。
ボスの動きが明らかに鈍った。
突進の後、少しだけ止まる。
足がもつれる。
頭が下がる。
(……あと少し)
あと少し、と思った瞬間。
またノーモーションの体当たり。
(っ!!)
私は《発射(自身)》で横へ跳んだ。
床が擦れる音。
ボスの体が壁にぶつかる音。
その瞬間、頭が横を向いた。
(今!)
私は刀を振った。
最小じゃない。
でも無駄撃ちじゃない。
この瞬間だけ、線を太くする。
斬撃が頭に走る。
ボスが崩れる。
体が前に倒れ、煙がふわっと広がって――
それでも動かない。
静かになった。
私は息を止めて、数秒だけ見つめた。
(……終わった?)
ボスは、動かない。
私は膝に手をついて、ようやく息を吐いた。
「……勝った……!」
声が震える。
震えてるのに、笑ってる。
『勝った!?』
『うおおおおお』
『単独で!?』
『耐久戦で勝ち切ったのえぐい』
画面の端に、見慣れない通知が出た。
英語の表示。
でも意味は分かる。
“Floor Cleared”
帰還ゲートが開く。
部屋の奥の壁が揺れて、薄い光の膜が現れた。
転移扉。
「……帰れます!」
私はカメラに向けて言った。
「みなさん、番外編……これで終わりです!ありがとうございました!」
配信を切る前に、私は小さく付け足した。
「……宝箱は、開けませんでした!」
それだけは、言いたかった。
配信終了。
転移扉をくぐると、世界が一瞬白くなって――
入口の近くの待機エリアに戻っていた。
空気が違う。
人の匂い。
警備の匂い。
現実の匂い。
「……戻った……!」
私はその場に座り込みそうになって、慌てて立ち直った。
立ち直って、周りを見る。
そして、いた。
結城くん。
アメリアさん。
二人の顔が、固まっている。
「……」
結城くんの口が少し開いて、閉じない。
アメリアさんも目を丸くしている。
その“空いた口”が面白くて、私は疲れを忘れて笑ってしまった。
「ただいまです!」
笑顔で言って、両手を上げる。
「じゃーん!」
そして、腰のあたりから“それ”を抜いた。
真っ黒な刀。
光を吸うような黒。
鞘も黒い。
刃の輪郭が、異様に綺麗。
「ボス倒したら報酬ドロップ品で、真っ黒な刀手に入れたんですよ!」
テンションが戻る。
「かなり強そうじゃないですか!?きゃっきゃ!」
きゃっきゃと喜ぶ。
喜びたい。
だって生きて帰った。勝った。ご褒美だ。
でも――。
結城くんとアメリアさんは、笑わなかった。
衝撃で、空いた口がふさがらない。
結城くんが、ようやく声を出す。
「……なんだそれ」
低い声。
驚きと、警戒が混ざった声。
アメリアさんが、小さく言う。
「……単独で……?」
デスが付かない。
本気で驚く時の声だ。
私は笑いながら言った。
「はい!単独です!だって逆方向に進んでたんですもん!」
言ってから、少しだけ顔が引きつる。
「……めっちゃ怖かったですけど!」
結城くんが、信じられないものを見る目で私を見る。
「yumaのアドバイスなしで……」
言いかけて、結城くんは止めた。
自分で言って、自分で嫌になったみたいに。
私は息を吸って、胸を張る。
「……結城くん」
敬語が消える。
「私、やれました」
結城くんが目を伏せて、短く息を吐いた。
その息は、安心と、恐怖が混ざっている。
「……やれたな」
それだけ。
アメリアさんが、やっとデスを付けた。
「優奈さん……すごいデス」
「えへへ……!」
私は照れて笑った。
でも、結城くんの視線は黒い刀から離れない。
喜んでいいはずなのに、喜びきれない顔。
私は少しだけ不安になって聞く。
「……これ、まずいですか?」
結城くんが低い声で言った。
「まずいかどうかは、これから判断する」
そして、短く付け足す。
「……ログだ。相良に報告する。勝手に使うな」
首輪。
また首輪。
でも、首輪があるから生きてるのも事実だ。
私は刀をそっと鞘に戻して、頷いた。
「……はい!」
怖いけど、嬉しい。
嬉しいけど、怖い。
そんな気持ちのまま、私はもう一度だけ、二人に言った。
「……戻ってこれました!」
生きて帰った。
それが一番大事だ。
結城くんが小さく頷く。
「……よくやった」
その一言で、やっと膝の力が抜けそうになった。
英国ダンジョンは、殺意が高い。
でも――型があれば、生き残れる。
それを、私は今日、自分で証明してしまった。
(つづく)




