第16話 預かる、という契約
階段の踊り場は、息ができないほど狭かった。
さっきまでただの昼休みの空間だったはずなのに、今は違う。
壁が近い。天井が低い。足元がぐらつく。……いや、ぐらついているのは俺のほうだ。
自分の声が、まだ耳の奥で反響している。
『どうすりゃいいんだよ⁉』
叫んだ。
取り返しがつかないくらい。
今さら遅い。
目の前で、クラン所属の女子高生配信者――あの女は、スマホを指先で弄んでいた。
画面が一瞬光る。録音ボタンの赤い点が、見えた気がした。
俺は喉の奥が乾いて、唾を飲み込もうとして、うまく飲み込めなかった。
息が詰まる。
指先が震える。震えが止まらない。
(落ち着け)
落ち着けと言ったところで、落ち着けるなら今まで苦労してない。
女が口を開く。
「……今の、やばいね」
笑わない。
配信者が“ネタ”を見つけた時の目だ。
「でも“使える”」
喉が、きしんだ。
「……やめろ」
声を出そうとしたのに、思ったより掠れた。
自分の声じゃないみたいだった。
女は肩をすくめる。
「やめるかどうかは、君次第」
淡々と、当たり前のように言う。
「yuma。――また逃げる?」
その一言が刺さって、息が止まった。
逃げてない。
逃げてないはずだ。
でも――表舞台に出ない、という言い訳で守ってきたものは、確かにある。
同時に、その言い訳で見ないふりをしてきたものも、確かにある。
俺は何か言い返さなきゃいけないのに、声が出ない。
出そうとすると、胸の奥が締め付けられて、空気が入らない。
その時だった。
「……ふざけないでください!!」
階段の上から、切り裂くような声が落ちてきた。
振り向くより先に分かった。
あの敬語。あの「!」。
そして、今だけは明るさじゃない、怒りの熱。
優奈が立っていた。
息を切らしている。肩が上下している。
けど目はまっすぐだ。逃げない目。
「今の、聞こえました。……聞こえちゃいました!」
優奈はそう言って、唇を噛んだ。
悔しいのか、怖いのか、怒りなのか。全部が混ざっている。
女がゆっくり顔を向ける。
「……空下優奈」
名前を呼ぶだけで、距離を詰める。
「盗み聞き? 趣味悪いね」
「盗み聞きじゃないです!」
優奈が即座に言い返す。
「聞こえたんです!勝手に!階段ってそういう場所です!」
言ってから、優奈は一瞬だけ目を伏せた。
自分でも分かっている。言い訳だ。
でも優奈は、言い訳をするために来たんじゃない。
優奈は俺の方を見た。
俺の手の震えを見た。
息がうまく吸えていないのも、見た。
そして、女に向き直る。
「私がここまで来るのに、ユウマさんがどれだけ協力してくれたか」
声が震えている。
でも、折れていない。
「どれだけ頑張っていたか……!私は知ってます!」
女が鼻で笑う。
「それってさ」
軽い声。軽いのに刃。
「あなた個人への協力であって、世界の被害を減らす協力じゃないよね?」
優奈が息を吸う。
怒りで胸が膨らむ。
「現実見てよ」
女が続ける。
「yumaは逃げてる。戦えるのに戦わない。情報を持ってるのに出さない。だからまた死ぬ人が増える」
――痛い正しさ。
聞くだけで、胸の奥が焼ける。
優奈は、そこで一歩前に出た。
「そうやって何も知らないくせに、人のこと悪く言って自己満足に浸るのをやめろって言ってるんですよ!」
敬語が崩れかけて、でも崩れない。
優奈の怒りは、雑じゃない。
「本当にユウマさんが逃げてるなら、私のクランに協力だってしないはずです!」
「協力?」
女が眉を上げる。
「企業の台本作り? そんなの“世界平和”じゃないでしょ」
「自分で戦わないから逃げてるっていうあなたの意見のほうが現実見えてないじゃないですか!」
優奈が言い切った。
「ユウマさんは“できる範囲”でやってます!それを見てもない人が、勝手に逃げだって決めつけるの、間違ってます!」
女が目を細める。
「じゃあさ。本当に逃げる気がないなら」
声が低くなる。
「もっとダンジョンに関する情報を広めて、被害者を減らす努力をすべきじゃないの?」
優奈が一瞬黙った。
言い返せないからじゃない。
――答えが重すぎるからだ。
俺は、口を開こうとした。
でも、喉が動かない。
息が詰まって、声が出ない。
手が震える。
震えを抑えようとして、拳を握る。
握った瞬間、爪が掌に刺さって痛い。痛いから少し息が入る。
それでも、足りない。
(落ち着け)
(言え)
俺は必死で空気を吸い込んだ。
吸って、吐いて、また吸う。
ようやく声が、出た。
「……無理だ」
掠れている。
でも、出た。
優奈が息を飲む。
女が少しだけ口角を上げる。
勝ったつもりの顔。
俺は、震える手を机じゃなく壁に押し付けて、支えにした。
膝の力が抜けそうで、抜けないように踏ん張る。
「俺は戦わないんじゃない」
息が詰まる。
言葉が途切れそうになる。
俺は無理やり続けた。
「……今は、戦えない」
女の目が揺れた。
優奈の目が揺れた。
揺れるのは、言葉が“宣言”じゃなく“症状”だからだ。
「できる限りのことは、とっくにやってる……!」
声が上ずる。
それでも言う。
「これ以上は……もう……頑張れない」
胸の奥が痛い。
叫びたいのに、叫べない。
叫べたら楽なのに。
優奈が小さく言った。
「……ユウマさん……」
その声が、俺を繋ぎ止めた。
俺は顔を上げた。
優奈の目が、まっすぐだった。
逃げない目。
俺が逃げたくなる時に、一番怖い目。
「……でも」
俺は息を整えようとして、整えきれないまま言った。
「待っててくれ」
女が鼻で笑う気配。
優奈が息を止める気配。
俺は続けた。
「俺は無理でも、優奈ならできる」
言葉が、ようやく形になる。
「絶対に後悔させない」
優奈の喉が鳴った。
涙が落ちそうな顔。
でも泣かない。
「どれだけかかるか分からないけど」
俺は言い切る。
「絶対に、期待を裏切る結果にはしない」
階段の踊り場に、沈黙が落ちた。
部活の声が遠い。
チャイムの余韻も遠い。
女が、俺を見た。
その目は、さっきまでの“配信者の目”じゃない。
――待っていた人の目だ。
「……分かった」
女が小さく言った。
「そこまで言うなら、待つ」
優奈が息を吐く。
俺も息を吐く。
吐いた瞬間、足の力が抜けそうになる。
抜けないように、壁に掌を押し付けた。
女はスマホを持ち上げた。
画面がこちらを向く。
俺の反射が映る。
「ただし」
女が続ける。
「契約」
その言葉で、空気がまた硬くなる。
女は淡々と言った。
「この音声――今の件は、預かる」
優奈が「えっ」と声を漏らす。
女は優奈を見ない。俺を見る。
「裏切ったら出す」
言い方が軽いのに、内容が重い。
配信者の武器だ。
“切り抜き”より鋭い。
俺の喉が鳴った。
それが脅しだと分かっている。
分かっているのに、拒否する余裕がない。
拒否した瞬間、出される。
優奈が一歩前に出た。
「……それ、脅しじゃないですか!」
「脅しだよ」
女があっさり言う。
「でも必要。yumaがまた消えたら、困る人がいる」
優奈が唇を噛む。
怒りたい。でも――この女の“痛い正しさ”も分かってしまう。
女が視線を俺に戻す。
「yuma」
呼び方が、わざとだ。
「君の言い訳、もう期限切れだよ。自分で言ったじゃん。“優奈ならできる”って」
俺は息を吸って、吐いて、頷いた。
頷くしかない。
「……分かった」
声はまだ掠れている。
でも、逃げないために言った。
「預かれ。……ただし、優奈に害が出る形で使うな」
女が少しだけ笑った。
勝ち笑いじゃない。
納得した笑い。
「それは守る」
短く言う。
「私は“数字”が欲しいだけじゃない。救われたかった側だから」
その言葉が、胸の奥で引っかかった。
救われたかった側。
――当時、yumaの助言に救われた人がいた。
その喪失が大きい。
女はそれを、背負っている。
優奈が小さく息を吸って言った。
「……じゃあ、私が証明します」
声が震えているのに、強い。
「ユウマさんが逃げてないって。ユウマさんがやってきたことが無駄じゃないって」
女が眉を上げる。
「どうやって?」
「第二階層を突破します!」
優奈が言い切った。
「五十体も!キングも!順番も!全部、やってみせます!」
勢いが戻った。
でも、昔みたいな無邪気な勢いじゃない。
怖さを知った勢いだ。
女がスマホをポケットにしまう。
「いいね」
短く言う。
「じゃあ見せて。口じゃなく、結果で」
女は踊り場の手すりに軽く触れて、階段を下りかけた。
最後に振り向く。
「裏切らないで」
それは脅しじゃない。
祈りに近い声だった。
足音が遠ざかる。
優奈が、やっと息を吐いた。
「……こわいです」
小さく言う。
「でも……守りました」
守った。
優奈が俺を守った。
俺は壁から手を離そうとして、離せなかった。
震えがまだ残っている。
掌が汗で湿っている。
優奈が俺の方に一歩近づく。
「ユウマさん」
呼び方が、もう戻らない。
「戦えないって……どういう意味ですか?」
俺は答えない。
答えたら、また息が詰まる。
でも、答えないままでは、優奈を前に出す資格がない。
俺は必死で息を整えた。
吸って、吐いて、吸って。
「……今は、まだ言えない」
それだけ絞り出した。
「でも、優奈を前に出す以上、必ず話す」
優奈が頷く。
「はい」
強い頷き。
「待ちます。……でも、置いていかないでください」
「置いていかない」
俺は言った。
その言葉が、自分の首を絞める未来が見えた。
でも、今はそれでいい。
“預かる”という契約ができた以上、逃げたら終わる。
俺は表舞台に出ない。
その言い訳が、もう通じないことを――やっと理解した。
(つづく)




