第147話 暗月の闇烏
十一階層のボス部屋へ入る前、主人公は優奈を足止めして、いつもより少し長めのミーティングをした。
相手が相手だったからだ。
「ボスの名前は《暗月の闇烏》」
主人公がそう言うと、優奈は思わず眉を寄せた。
「名前からして嫌な予感しかしないんですけど」
「嫌な予感は正しい」
主人公は即答した。
「巨大な黒い烏だ。飛ぶ。速い。しかも羽からビームを撃つ」
「……はい?」
「羽そのものを砲門みたいに使う」
主人公は壁にもたれたまま説明を続けた。
「厄介なのは、どの羽から撃つかが読みづらいことだ。真っ直ぐ狙ってるように見えて、微妙に射線がずれる。羽の角度と実際のビームの軌道が完全には一致しない」
「それ、見て避けるの無理じゃないですか?」
「だから戦いづらい」
主人公は頷く。
「しかもあいつ、飛びながら機動力を見せつけるみたいに動く。軌道が細かい。気づいた時には、もうビームが飛んでると思った方がいい」
優奈は小さく息を呑んだ。
十一階層の雑魚でも十分死ねる。
そのうえでボスともなれば、さらに一段階話が変わる。
「ユウマくんでもきついですか?」
「ソロなら苦戦する」
主人公は隠さなかった。
「十一階層からは、上位クランでも“中層の門番”って言われてる。低層の延長で勝てる相手じゃない」
その言葉の重さに、優奈の表情が自然と引き締まる。
「じゃあ、やっぱり探知ですか」
「探知だ」
主人公は言う。
「でも、広く全部追おうとするな。お前の今の探知練度だと、飛び回る相手とビームの両方を同時に追い続けるのはきつい。多分、情報量で潰れる」
「……ですよね」
「だから、“何を拾うか”を絞れ」
主人公は優奈の目をまっすぐ見た。
「前にも言ったろ。探知は全部を見る魔法じゃない。必要な情報だけ選んで拾う技術だ」
優奈はそこで、ほんの少しだけ息を整えた。
「わかりました」
「あと、保険として《魔力盾》は準備しておけ」
「一発で壊れるやつですよね」
「一発で壊れる」
主人公は頷く。
「逆に言えば、一発くらいなら耐えられる。見えた攻撃を避けるためじゃない。見えなかった時に死なないための一枚だ」
「はい」
「お前は盾を持つと機動力が落ちる。だから普通の盾はやめとけ。でも魔力盾なら話は別だ。使うなら本当に保険としてだけ使え」
優奈は刀の柄を軽く握り直した。
「機動力は捨てません」
「そう言うと思った」
主人公は小さく笑った。
そして最後に一言だけ付け足す。
「最初の数分で全部捉えようとするな。生き残りながら、相手の癖を掴め」
「……はい!」
その返事が思ったより強かったので、主人公は少しだけ安心した。
怖がっている。
でも、逃げてはいない。
なら大丈夫だ、とまでは言わない。
でも、勝負にはなる。
配信が始まる。
十一階層ボス部屋は、これまでよりさらに天井が高かった。
夜を閉じ込めたみたいな暗さの中、上の方だけがぼんやり揺れて見える。
そして、その暗さの中心で、ふわり、と巨大な影が羽ばたいた。
《暗月の闇烏》。
巨大な黒い烏だった。
ただ大きいだけじゃない。羽一枚一枚が異様に鋭く、薄く、刃にも見える。
月明かりみたいな青白い光が羽の継ぎ目を流れ、目だけが底冷えするほど暗い。
「でか……」
優奈の口から思わず漏れる。
その瞬間、闇烏が動いた。
速い。
ただ飛ぶのではなく、空間を滑る。
急上昇したかと思えば、横へ流れ、次の瞬間には真上から影を落とす。
どこに本体がいるのか、視線で追うだけでも気が散る。
そのうえ、羽がわずかに開いた。
「来る!」
主人公の声とほぼ同時に、青白い閃光が走った。
優奈は反射的に《発射(自身)》で横へ飛ぶ。
地面を抉るようにビームが通り抜け、岩床へ焦げた溝が残る。
「っ……!」
避けた。
だが、今のは見て避けたというより、主人公の声に反応しただけだ。
闇烏が再び旋回する。
今度は左右へ大きく弧を描きながら、羽を二度、三度と震わせる。
「どこから撃つの……⁉」
優奈は刀を構えたまま、探知と視線の両方で追おうとした。
だが追いつかない。
飛び回る本体を見ながら、羽の細かい動きを見て、さらに探知も維持して、そこへ自分の立ち位置と回避まで重ねる。
いくら何でも、一度に処理する情報が多すぎた。
ビームが三本走る。
一本は正面。
二本目は斜め上。
三本目は予想より内側へずれた。
「えっ――」
予測が外れた。
優奈は二本目までは躱した。
だが三本目の角度が読めない。
咄嗟に《魔力盾》を前へ出す。
青白い光が盾へぶつかる。
甲高い破砕音。
魔力盾は一撃で砕けた。
その隙に優奈は《発射》で後ろへ抜ける。
呼吸が乱れる。
「今の、射線おかしくないですか⁉」
「おかしいんじゃない」
主人公は壁際から目を離さず言う。
「そういう仕様だ」
闇烏は上空を回り続ける。
優奈は一度距離を取り、探知を立て直そうとした。
でも無理だ、とすぐ分かった。
広く探ろうとすれば、本体の動きだけで頭が埋まる。
そこへビームの予兆まで拾おうとすると、今度は情報が散る。
――全部を見るな。
その時、さっきの主人公の言葉が頭の中で鳴った。
探知は全部を見る魔法じゃない。必要な情報だけ選んで拾う技術だ。
「必要な情報……」
優奈は小さく呟いた。
闇烏の全体を追う必要はあるのか。
飛んでいる位置。
羽の揺れ。
射線。
機動。
全部を同時に把握しようとして、結局どれも中途半端になっている。
だったら。
「……広く見る必要、ない」
優奈は一気に探知の範囲を絞った。
半径二メートル。
自分の周囲だけ。
刀が届くより少し外。
回避へ移れる最低限の距離だけ。
広く探知するのをやめる。
“自分に触れるものだけ”を拾う。
世界が一気に静かになった。
もちろん、ボスの全体像は分からない。
どこにいるのか、何をしているのか、ほとんど捨てたも同然だ。
でもその代わり、自分の周囲二メートルに入ってくる“死”だけは、さっきよりずっと濃く見える。
主人公がその変化にすぐ気づいた。
「……そこに絞るか」
その声には、少しだけ感心が混じっていた。
闇烏が急旋回した。
羽が一枚、びくりと硬直する。
その瞬間、優奈はもう見上げていなかった。
自分の周囲二メートル。
そこへ触れる気配だけを待つ。
来た。
右上。
触れた瞬間だけ、反射神経と思考強化で身体をずらす。
青白いビームが頬のすぐ横を通過する。
その一瞬で、優奈は“どこから飛んできたか”を逆算した。
「そこっ!」
《延長(斬撃)》。
長くはしない。
長くすると遅れる。
必要最小限だけ伸ばし、射線の起点へ向かって斬撃を返す。
黒い羽が数枚散った。
「当たった!」
だが浅い。
闇烏はすぐに高度を変え、また上空へ逃げる。
優奈は追わなかった。
追えない。
今の探知範囲では、追いかけた瞬間にまた情報が足りなくなる。
だから待つ。
もう一度。
闇烏は明らかに苛立ったように、今度は高速で周回を始めた。
右。
左。
上。
視線で追えば酔うような動き。
でも優奈は見ない。
足元を崩さず、自分の周囲二メートルだけに意識を沈める。
来る。
左。
また躱す。
また射線を読む。
《延長(斬撃)》を返す。
今度は羽の根元をかすめた。
闇烏の身体が一瞬だけ傾ぐ。
「いいぞ」
主人公が短く言った。
「今のやり方で合ってる。全部追うな。自分の圏内に入った瞬間だけ殺せ」
その言葉で、優奈の中に確信が生まれる。
そうだ。
この相手は、追って当てる相手じゃない。
自分から射線を晒した瞬間だけ切り返す相手だ。
闇烏が今度は露骨に距離を詰めてきた。
ビームだけではなく、自分の速度も武器にするつもりらしい。
空気が鳴る。
黒い巨体が旋回しながら迫る。
優奈の探知領域へ、まずビームの気配が触れる。
その直後、さらに大きな本体の圧が触れた。
「二段……!」
一発目を《発射》で避ける。
二発目はビームを撃った射線より少し下を通る本体突進。
読めなかったら死んでいた。
優奈は咄嗟に刀を逆手気味に引き、身体を沈める。
黒い羽が頭上を掠めた。
その瞬間だった。
今までで一番近い。
今までで一番、起点が明確に見えた。
優奈の中で、探知と反射と思考が一気に噛み合う。
「――そこぉっ!!」
《延長(斬撃)》が、今度は深く入った。
闇烏の片翼が大きく裂ける。
バランスが崩れる。
飛翔高度が下がった。
「落ちた!」
配信の向こうで誰かが叫んだ気がした。
だがまだ終わらない。
ボスは翼をばたつかせ、無理やり体勢を立て直そうとする。
優奈はそこへ追撃しようとして、ほんの一瞬だけ遅れた。
探知を絞りすぎた代償だ。
今の優奈は、自分の近くしか分からない。
距離を取られた瞬間、また“見えない相手”へ戻る。
その一瞬を見て、主人公が声を飛ばす。
「焦るな! また撃たせろ!」
優奈は歯を食いしばり、踏み込みを止めた。
追いたい。
今なら行けそうにも見える。
でも、それは相手の土俵だ。
深追いした瞬間、広い空間のどこから撃たれるか分からなくなる。
だから待つ。
闇烏は高度を維持しきれず、それでも怒ったように羽を広げた。
今度は左右から同時。
二本のビームが優奈の圏内へ触れる。
優奈は一発目を躱し、二発目には《魔力盾》を重ねた。
砕ける。
でもその破砕の光で、逆に闇烏の輪郭が一瞬だけ浮く。
優奈はその瞬間を逃さなかった。
今までで最短。
今までで最も鋭い《延長(斬撃)》。
斜め上へ走った斬撃が、闇烏の胸元を深く断ち切る。
巨体が揺れる。
翼が止まる。
そして、重い音を立てて地面へ落ちた。
優奈はその場から動かなかった。
まだ終わりか分からない。
だから探知は切らない。
半径二メートルの圏内へ、何が入るかだけを待つ。
だが、数秒待っても何も来なかった。
やがて主人公が言う。
「終わりだ」
その声で、ようやく優奈は刀を下ろした。
「……勝った」
息が荒い。
汗がひどい。
でも、立っている。
主人公がボスの残骸へ目をやってから、優奈を見る。
「よくやった」
短い言葉だった。
でも、優奈にはそれで十分だった。
「最初は無理かと思いました……」
「最初は無理だっただろ」
「否定してくれないんですか⁉」
「でも途中で答えを変えた」
主人公は言う。
「全部を見るのをやめて、自分に必要な情報だけ残した。それが勝因だ」
優奈はそこで、やっと少し笑った。
「ユウマくんの言ってた意味、ようやく分かりました」
「何が」
「探知って、“見る”んじゃなくて“選ぶ”んですね」
主人公は少しだけ黙ってから、珍しく素直に頷いた。
「そうだ」
十一階層のボス。
暗月の闇烏。
それを超えたことで、優奈はただ強くなっただけじゃない。
中層で生きるための感覚を、一つちゃんと手に入れたのだ。
それが何より大きかった。
優奈は落ちた黒い羽を見下ろしながら、小さく息を吐く。
「次からも、こんなのばっかりですか?」
主人公は少しだけ空を見上げた。
「もっと嫌なのもいる」
「聞かなきゃよかったです……」
その返しに、主人公は小さく笑った。
でも、少しだけだ。
中層の門番を越えた。
それは事実だ。
ただ、その先が楽になるわけじゃない。
それでも、今日ここで優奈が掴んだ答えは、本物だった。
全部を追わない。
必要なものだけを見る。
自分の圏内だけを完全に支配する。
それは、十一階層だけじゃなく、その先でもきっと役に立つ。
「戻るぞ」
主人公が言うと、優奈は頷いた。
闇烏の黒い羽が、足元で静かに消えていく。
十一階層のボス部屋には、もう羽音はなかった。
(つづく)




