第14話 「yuma」の話と、台本の差し替え
階段の踊り場は、昼の匂いがした。
弁当の匂い。廊下のワックスの匂い。窓から入る風の匂い。
――日常の匂いだ。
なのに、俺の喉は乾いて、背中だけが冷たい。
「ねえ。どこかで見たことあると思ったらさ。君――『yuma』でしょ?」
クラン所属の女子高生配信者が、笑いながら言ったあの一言。
そして、その背後で固まった優奈の声。
「……え? yuma……?」
それが耳の奥で、ずっと鳴っている。
俺は表情を変えずに、彼女――クラン所属の女子高生配信者に視線を返した。
「……誰の話だ」
「とぼけるんだ」
彼女は肩をすくめる。
「まあいいけど。今は“空下優奈”の方が熱いしね」
その言い方が、いっそ清々しいくらい現実的だった。
熱い。数字が回る。話題になる。だから寄ってくる。
彼女は優奈の方に視線を移して、軽く手を振った。
「優奈。午後の授業、出るんだ?」
「……で、出ます!」
優奈は反射で敬語になって、でも視線が俺から外れない。
「えっと……今の……」
「今のは今度ね」
彼女は笑った。
「じゃ、また。――yuma」
最後だけ、わざとらしく俺に向けて言う。
そして、何事もなかったように階段を下りていった。
足音が遠ざかる。
日常の匂いが戻る。
戻ったのに、優奈の目だけが戻らない。
俺は息を吐いて、言った。
「……昼だろ。教室戻れ」
「……はい」
優奈は頷いた。
でも、その頷きに「!」が付かない。
教室までの数分が、妙に長かった。
放課後。
クランのミーティングルームではなく、今日は学校の空き教室を借りた。
放課後の廊下は部活の音がして、窓から夕焼けが差して、机と椅子が影を長く伸ばしている。
――ここも日常だ。
だからこそ、話しやすい。
話しやすいからこそ、怖い。
優奈は窓際の席に座っていた。背筋がやけに伸びている。
俺はその斜め前に座り、机の上にスマホを伏せた。癖だ。見られたくないものほど、伏せる。
優奈が口を開くまで、少し時間がかかった。
「……ユウマさん」
苗字じゃない。
いつもの「結城くん」でもない。
優奈が俺を呼ぶ時に、初めて使う呼び方だった。
「……なに」
「さっきの……“yuma”って……」
優奈は言葉を探すみたいに、指先で机を叩く。
「ユウマさんさえよかったら、教えてほしいです」
声に、丁寧さがある。
いつもの明るさじゃない丁寧さ。
踏み込む時の丁寧さ。
「いつも助けてもらってるから……私も助けになりたいです!」
最後に「!」が付いた。
優奈が“勇気”を付けた「!」だ。
俺は一瞬、視線を逸らした。
助けになりたい。そう言われると、断りづらい。
でも、言うべきだとも思った。
「……大したことじゃない」
俺はそう言ってから、自分の言葉が薄いことに気づいて、続けた。
「正確には、過去の話だ」
優奈が小さく頷く。
「はい……」
頷きが、怖い。
優奈は今、笑わない。
逃げない。
俺は、机の影を見ながら話し始めた。
「世間が“ダンジョンが現れた”って騒ぎ始めたのは一年前だ」
優奈が頷く。そこは知っている。
「でも、最初の発生はもっと前。十年前に一度だけ、小規模に出た」
優奈の目が大きくなる。
「……十年前……」
「シュウたちが、最初に入って攻略した」
「シュウさんが……」
「政府が即座に隠した。ニュースにもならなかった」
俺は淡々と言う。
「“偶発的な地下事故”みたいな扱いで処理された。だから世間は知らない。知らないまま、数が増えた。増えすぎて、一年前、隠しきれなくなって公になった」
優奈が、息を呑む。
「……そんな……」
言葉が出ない顔。
怖いのに、興味が勝っている顔。
俺は続けた。優奈が止めないから。
「十年前、その最初の攻略で――シュウたちのグループが崩壊しかかった」
「……」
「一人、死んだ直後だった」
優奈の指が、机の端を強く掴んだ。
「!」が消える。
代わりに、声が低くなる。
「……そんな……」
優奈は小さく言った。
その声は、今までのどの「怖いです」より重い。
俺は言葉を止めずに、続けた。止めたら、逆に怖がらせる。
「その現場に、俺が偶然居合わせた」
「偶然……?」
「偶然だ」
偶然。
――本当の意味での偶然かどうかは、言えない。
「俺がやったのは、戦いじゃない」
俺は指を一本立てた。
「“大雑把な戦略”を投げただけだ。階層ごとの危険と、動き方。何を優先して、何を捨てるか。――それだけ」
優奈が吸い込むみたいに聞いている。
「それが偶然はまって、シュウたちが大活躍するようになった」
「……」
「シュウは糞真面目だから」
俺は吐き捨てるように言ってから、言い方が荒いことに気づいて、少しだけ言い直した。
「……あいつは、真面目すぎる。自分の手柄にするのが我慢できなかったみたいで」
優奈の目が揺れる。
「それで……“yuma”って……」
「そう」
俺は頷いた。
「俺の身元を完全には出さずに、でも功績だけは隠さずに、“yuma”って名義で話した。――俺の顔と、すごい戦果を、勝手に」
優奈が息を吸う。
「……すごい……」
その言葉は、素直だった。
尊敬と、怖さと、少しの嬉しさが混ざっている。
そして、優奈はすぐに現実に戻ってきた。
「あれ? 十年前って……ユウマさん、六歳ですよね?」
「……」
俺は一瞬、答えを探した。
優奈の「えっ、六歳でダンジョン?」という驚きは正しい。
正しすぎて、刺さる。
「事情があったんだよ」
俺は短く言った。
「当時は今とも名前が違ったし」
「でも!」
優奈が身を乗り出す。
「六歳児がダンジョン最前線に行って戦果残せるの、異常です!すごいです!普通じゃないです!」
そのまっすぐさに、俺は少しだけ笑いそうになった。
優奈は褒める時、躊躇がない。
でも、俺は褒められて嬉しい話じゃない。
「すごくない」
俺は言った。
「魔法で当たりを引いて、引っ込みつかなくなっただけだ」
優奈の眉が動く。
“当たり”という言葉に反応した。
「……魔法って……十年前にも……」
「……あった」
俺は頷いた。
「ただし、今みたいに“誰でも”じゃない。偶然の連鎖だ」
優奈が言葉を飲み込んだ。
その飲み込み方は、優奈がクランの台本で覚えた“危険情報の扱い”に近い。
優奈は、変わっている。
「当時のことはうろ覚えだから、詳しくは言えない」
俺はそう付け足した。
半分は本当で、半分は嘘だ。
覚えていない部分もある。覚えている部分は言えない。
優奈は、静かに頷いた。
「……分かりました。無理に聞きません」
そして、少しだけ笑う。
「でも……聞けてよかったです」
その言い方が、俺の胸の奥に引っかかった。
聞けてよかった。
――聞かせてよかった、とは思えないのに。
優奈は、両手を膝の上で握りしめた。
「……ユウマさん」
また、その呼び方。
「そんなユウマさんが、私なら第二階層突破できるって言うなら……自信、出てきました!」
そこで、優奈の声が久しぶりに明るくなる。
「!」が付く。
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる。
「わたし、頑張ります!五十体も!キングも!順番も!ぜんぶ!」
俺は頷いた。
「……頑張れ」
それしか言えない。
優奈が顔を上げた。
その目は、少しだけ強くなっている。
――強くなってほしい。
でも強くなればなるほど、目立つ。
目立てば、俺もバレる。
俺は、また“言い訳”をしている。
(優奈のためじゃない。俺の自己満足だ)
(俺は表舞台に出ない)
そう言い聞かせて、ここまで来た。
その時、机の上の伏せたスマホが震えた。
通知。
相良からだ。
嫌な予感しかしない。
俺は画面を開き、短い文を読む。
『“yuma”が再燃しています。明日の台本を全面差し替えます』
優奈が俺の顔色を見て、息を呑んだ。
「……結城くん?」
優奈の敬語が戻る。
「……な、何かありましたか!?」
俺はスマホを伏せた。
いつも通りの癖で。
でも、今回は誤魔化せない。
「……yumaが燃えてる」
「えっ……!」
「明日の台本が、全部変わる」
優奈が一瞬固まって、それから震える声で言った。
「……台本……また……?」
自由が削れる音。
優奈はそれを、もう聞き分けられる。
俺は息を吐いて、心の中で思った。
俺は表舞台に出ない。
俺自身にとって、その言い訳が一体いつまで続くと思っていたのだろう。
……もう、続かないのかもしれない。
(つづく)




