第136話 敬語の終わりと、国家機密級の授業
吸血鬼の姫を倒してから数日が経っても、学園の空気はまだどこか落ち着かなかった。
表向きにはいつも通りだ。
授業があり、課題があり、ダンジョンへ潜っては反省会がある。
だが、オーストラリアで発生したダンジョンの件と、人間社会へ紛れ込んだボス級魔物の件は、こちらが知らないところで確実に尾を引いている。
少なくとも、俺の中ではまだ終わっていなかった。
だからその日、相良に呼ばれてクラン本部の会議室へ向かう途中も、どうせまたろくでもない話だろうと思っていた。
オーストラリアから追加の無茶振りが来たとか、日本政府経由で何か依頼が来たとか、そういう類の面倒を覚悟していたのだ。
だが、会議室へ入ってすぐに俺の意識を引っかけたのは、オーストラリアより先に、もっと妙な違和感の方だった。
「座れ」
相良がそう言った。
その一言を聞いて、俺は扉のところで一瞬だけ足を止めた。
「……ん?」
「どうした」
「いや」
俺は席へ着きながら、じっと相良の顔を見る。
「というか、いつの間にか敬語使うのやめましたね、相良さん」
数秒、会議室の空気が止まった。
相良は書類をめくる手を止め、ほんのわずかに眉を動かした。
優奈――いや、空下優奈は、隣で「あっ」という顔をしている。
どうやら気づいていたらしい。
「言われてみれば……」
空下優奈が小さく呟く。
相良は少しだけ考えるように視線を横へ流してから、あっさり言った。
「この会社に入って速攻でお前たちの担当になったからな」
「はあ」
「緊張もあったし、プレッシャーもあった」
相良は淡々と続ける。
「年齢の割に実績も能力もおかしい連中をまとめろと言われて、最初は距離感を測る意味でも敬語を使うよう気をつけていた」
「それはまあ、分からなくもないですけど」
「だが、そもそもよく考えたら俺はお前たちより年上だ」
「……はい」
「敬語を使う意味があまりないことに気づいた」
それを、そこまで真顔で言うのか。
俺は思わず椅子の背へもたれながら言った。
「なんだその社会人とは思えない発言……」
空下優奈が隣で吹き出しそうになるのを慌てて堪えている。
相良は本人だけが特に何もおかしいと思っていない顔だった。
「社会人だからといって、常に正しい距離感を初手で掴めるわけじゃない」
「開き直りましたね」
「事実だ」
その返しがやけに早い。
こういう、どうでもいいようでいて妙に人間味のあるやり取りができるくらいには、たしかに俺たちと相良の距離は縮まっていたのかもしれない。
少なくとも最初の頃よりは、明らかに。
もっとも、空気が少し緩んだところで、本題が軽くなるわけではない。
俺はそこで、先に一番気になっていたことを確認した。
「念のため聞きますけど」
「何だ」
「今回の件で、オーストラリアに行けとか言う無茶な依頼は来ないんですか?」
そこが重要だった。
吸血鬼の姫を倒した映像はオーストラリア政府側へ渡っている。
向こうがそれを見て、「やっぱりyumaを直接寄越してくれ」と言い出してもおかしくない。
だが、相良はすぐに首を横へ振った。
「多分大丈夫だ」
「多分」
「今回の映像で、yuma一人で何とかできるレベルじゃないことは伝えた」
相良は机の上の資料を指先で叩く。
「悠真が命がけで削り、空下優奈と唯が二人がかりで押し切った。あれを見れば、“一人送り込めば何とかなる”という発想にはなりにくい」
「なりにくい、か」
「絶対ならないとは言わない」
「だから多分だ」
そこは妙に現実的だった。
たしかに、普通なら理解する。
だが国家案件になると、時々“普通なら理解する”が通らないこともある。
だから相良も断言はしないのだろう。
俺は小さく息を吐いた。
「まあ……来ないならそれでいいです」
「お前、意外と露骨に嫌がるな」
「意外でも何でもないですよ」
俺は即答した。
「あんなの相手にまたやれって言われたら、嫌に決まってるでしょう」
空下優奈が横で何度も頷いている。
「私も嫌です」
「お前は行く側じゃないだろ」
「近くで見てた側としても嫌です」
それはその通りだった。
あの吸血鬼の姫は、単純な強敵じゃない。
人間社会へ紛れ込み、外で戦い、場合によっては記憶まで模倣している。
そういう相手だ。
勝ったからといって、二度とやりたくないと思うのは当然だった。
だが、そこで話が終わると思ったら違った。
俺は資料の端に、見慣れない英語のロゴが混ざっているのを見つけた。
アメリカのダンジョン学園の校章らしい。
「……なんでそれがあるんですか」
俺が聞くと、相良は少しだけ口元を動かした。
「気づくか」
「嫌でも気づきますよ。オーストラリアの話だけじゃないんでしょう?」
「まあな」
そこで俺は、少しだけ前のめりになった。
「アメリカで設立されたばかりのダンジョン学園と、日本のダンジョン学園で合同授業を行うらしいですね」
相良の目がわずかに細くなる。
「それをどこで聞いた」
「学園の掲示の下書きみたいなのが回ってきてたんで」
俺は肩をすくめる。
「面白そうだったから、ちょっと参加したいなと思って」
空下優奈が横で「えっ」という顔になる。
「オーストラリアの件の直後に、そっちへ食いつくんですか?」
「むしろこういう時期だからだよ」
俺は答える。
「面白そうってのも本音だけど、今後の戦いに直結するなら、なおさら見ておきたい」
相良はそこで腕を組んだ。
「どんな内容だ?」
そこを聞かれるのは分かっていた。
俺は少し整理してから言う。
「日本のダンジョン学園と、アメリカのダンジョン学園の全生徒を対象に、魔法ガチャ飴のログを統計的に取る研究らしいです」
「全ログ?」
「厳密には、参加者の同意を取ったうえで匿名化した取得ログですね」
俺は補足する。
「個人名や顔が紐づくわけじゃない。共有されるのは、レア度、魔法名、取得時期、使用頻度、実戦評価の一部、みたいな感じらしいです」
そこまで言ってから、少しだけ本題を強調する。
「で、そのデータを使って、“出やすさと強さが比例するのか”を研究する」
会議室が、少し静かになった。
相良は数秒黙ってから、かなり率直に言った。
「国家機密級だろ、それ……」
俺は思わず笑いそうになった。
「やっぱりそう思います?」
「思うに決まってる」
相良は即答する。
「魔法ガチャ飴のログなんて、下手をすると各国の育成方針そのものだ。どの魔法がどの頻度で出て、どこまで強いか。その傾向が統計で見えたら、戦術も研究も全部変わる」
空下優奈もそこで神妙な顔になる。
「たしかに……」
「今まではみんな、体感で“これ強い”“これレア”って言ってる部分も多かったですもんね」
「そういうことです」
俺は頷いた。
「しかも日本は現場経験が多い。アメリカはこういう統計解析や制度設計が得意っぽい。だから共同研究になるんじゃないですかね」
「アメリカらしいな」
相良は低く言う。
たしかに、いかにもアメリカだ。
魔法を“神秘的なもの”として扱うより、データとして集め、傾向を出し、制度へ落とし込み、最終的には価値まで数値化する。
そういう発想に向いている。
でも、それだけじゃない。
俺が本当に面白いと思ったのは、もっと別の部分だった。
「俺が興味あるのは、単に“どの魔法が強いか”だけじゃないんですよ」
そう言うと、相良が視線を向けてくる。
「ほう」
「もし、出やすさと強さに法則があるなら、育成方針が変わる」
「でももっと大きいのは、“国や地域によって偏りがあるか”です」
空下優奈が小さく息を呑んだ。
そこまで言えば、優奈ももう分かる。
「……旧勢力圏の話ですか?」
「そう」
俺は頷いた。
オーストラリア。
イギリス。
カナダ。
第二次大戦期の勢力圏、旧宗主国圏でダンジョン難易度の括りが残っているんじゃないかという、あの仮説。
もしそれが本当なら、ガチャ飴の出方にも何らかの偏りがある可能性がある。
「日本とアメリカでログを並べれば、単純なレア度だけじゃなく、“どの系統が出やすいか”“どういう能力が厚いか”が見えるかもしれない」
「もし地域差があるなら、それは今後のダンジョン難易度や攻略傾向の分析にも繋がる」
相良はそこで、初めて本気で少し感心したような顔をした。
「そこまで考えて食いついたのか」
「面白そうって言ったのは本音ですよ」
俺は肩をすくめる。
「でも、面白いだけじゃなくて、今後の戦いに使えるなら余計に見たい」
空下優奈が、半分呆れたように言った。
「ユウマくんって、本当にそういうの好きですよね」
「嫌いではない」
「危ない情報ほど目が輝くの、ちょっと怖いです」
「危ない情報だから価値があるんだろ」
「その発想がもう怖いです」
そう言われると否定しづらい。
だが本当にそうなのだ。
今の世界は、分からないことが多すぎる。
そして、その“分からない”が人を殺す。
だったら、少しでも法則が見えるかもしれない話へ食いつくのは当然だった。
相良は資料を一枚抜き出した。
「ただし、これは学園側でも扱いが難しい案件だぞ」
「匿名化されているとはいえ、魔法取得ログそのものが機密だ。日本側もアメリカ側も、全部をそのまま出すわけじゃないだろう」
「そこは分かってます」
俺は答える。
「最初は生徒同士でグループ分けして、グループ内の匿名統計だけで研究を行うらしいです。全体ログの丸見えじゃなくて、まず小規模集団の傾向から入る」
「それでも十分危ない」
「だからこそ面白いんです」
そこは本音だった。
魔法ガチャ飴。
全員が使っている。
でも、いまだに“なんとなく”で語られている部分が多い。
レアそう。
強そう。
外れっぽい。
当たりっぽい。
その程度の感覚論を、本当に統計で切れるなら、学園の授業としても価値が高い。
しかも、日本とアメリカ。
現場経験の日本と、制度・解析寄りのアメリカ。
その差がどう出るのかも興味があった。
「で」
相良が少しだけ資料を叩く。
「本当に参加したいのか」
「したいですね」
「オーストラリアの件で呼ばれるかもしれないのにか?」
「来ないなら、なおさら」
俺は即答した。
「向こうの件は向こうの件で警戒する。でも、いつまでも吸血鬼の話だけしてても、結局、こちらが強くなるわけじゃない」
「それはまあ……」
空下優奈もそこは頷いた。
「たしかにそうですね」
「しかも、もしログの偏りが本当に見えたら、今後の取り方とか鍛え方も変わるかもしれませんし」
相良は少しだけ考え込み、やがて短く言った。
「学園側へは、一応参加希望として回しておく」
「ありがとうございます」
「ただし、外されても文句は言うな」
「まあ、そこは」
俺はそこで少し笑う。
「国家機密級なんでしょ?」
「だからだ」
相良は即答した。
たしかに、その通りだった。
オーストラリアの件で日本側はまた変な意味で注目されている。
そこへ、yuma疑惑のある俺を、アメリカとの共同研究の場へ積極的に出すかと言われると、微妙なところだろう。
でも、面白い。
それだけは確かだった。
会議室の空気は、オーストラリアの重さから少しだけ外れた。
もちろん問題が消えたわけじゃない。
吸血鬼の姫のリスポーン問題も、オーストラリアダンジョンの危険度も、そのままだ。
だが、それと同時に、こっちの日常と学園も進んでいる。
その二つが並行して動いている感じが、今のこの世界らしかった。
席を立つ前、俺は最後にもう一度だけ言った。
「でも、あれですね」
「何だ」
「敬語やめた理由は、やっぱりちょっと社会人とは思えないです」
相良が、今度は明らかに少しだけ嫌そうな顔をした。
「まだ言うのか」
「だって、気づいたらやめてた、って雑すぎるでしょう」
「雑ではない。適応だ」
「言い換えただけじゃないですか」
そこで、空下優奈がとうとう吹き出した。
重い話のあとだったからこそ、その笑いは少しだけ空気を軽くした。
オーストラリア。
吸血鬼。
リスポーン。
そして、アメリカとの合同授業。
面倒ごとは減らない。
けれど、その面倒の中にも、次を変えるかもしれない話が混ざっている。
だから結局、前へ進むしかないのだろう。
そう思いながら、俺は会議室の扉へ手をかけた。
(つづく)




