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第135話 倒した証拠と、倒してはいけない相手

吸血鬼の姫が完全に動かなくなったあとも、しばらくの間、誰もすぐには喋れなかった。


 夜の路地には、血の匂いがまだ色濃く残っている。

 壁際には、吸われて意識を失ったらしい一般人たちの痕跡。

 地面には、さっきまでひとつの“個体”だったものの残骸。


 倒した。

 確かに倒した。


 でも、だからといって、その瞬間に全部が終わった気には、どうしてもなれなかった。


 空下優奈は、荒くなった呼吸を整えながら、最後にもう一度だけ吸血鬼の姫の残骸へ視線を向けた。

 再生の気配はない。

 唯の魔力糸も、もう“切るべき流れ”を感知していないらしい。

 それでも、気を抜くのが怖い相手だった。


「……もう、動きません」


 唯が静かにそう言って、ようやく優奈は肩の力を抜いた。


「よかった……」


 その声には安堵が滲んでいた。

 だが、その安堵すら長く続かなかった。


「すいません、ユウマさん」


 優奈が、少しだけ言いにくそうに口を開く。


「何だ」


 壁へ背を預け、まだ浅く息を吐いていた悠真が視線だけ向ける。


 優奈はそこで、ほんの少しだけ視線を逸らしてから言った。


「一応、録画は取りました」


 数秒、空気が止まった。


「……は?」


 最初に間抜けな声を出したのは悠真だった。


 優奈は少しだけ肩をすくめる。


「いや、その……倒した証拠がないと、オーストラリアの人も信用してくれないんじゃないかと思って」


「この状況でよくそこまでできたな⁉」


 悠真の声が、素で一段大きくなる。


 それも当然だった。

 さっきまで、文字通り命の取り合いをしていたのだ。

 自分は血液のひもで吊られ、吸血鬼の姫と高速移動で互角の殴り合いをし、そのあと優奈と唯がようやく押し切った。


 普通なら、録画なんて発想が入り込む余地はない。


 だが優奈は、少しだけ気まずそうに笑った。


「逃げられた場合、どこに逃げたか後で把握しやすくもなるかなって思って……」


 その言い方に、悠真は一瞬だけ言葉を失う。


 証拠保全。

 逃走経路の確認。

 戦闘の記録。


 なるほど、配信者としての癖が染みついている。

 そしてそれが、こういう場面ではちゃんと意味を持つ。


「……お前」


 悠真は額へ手を当てたくなった。


「やっぱり変なところで肝が据わってるな」


「褒められてます?」


「半分はな」


 そう返すと、優奈は少しだけ安心したみたいに息を吐いた。


 唯はそのやり取りを聞きながら、地面の血の残滓を見下ろしている。

 朱衣はまだ完全に現実へ追いついていない顔をしていた。

 ついさっきまで、ずっと画面越しに見てきた“yuma”と、自分が目の前で話していた結城悠真と、吸血鬼の姫との死闘が全部一つに繋がっていたのだから無理もない。


 だが、そこで立ち止まっている暇はなかった。


 一般人の保護。

 警察や救急への連絡。

 クランへの報告。

 そして、オーストラリア側への情報共有。


 やることは多すぎた。


 その夜のうちに、クランを通して映像は整理された。


 吸血鬼の姫が悠真を名指しした場面。

 血液の糸による加速。

 拘束。

 再生。

 そして、最後に空下優奈と唯が押し切るまで。


 全部が残っていた。


 優奈は、戦闘中ずっと録画のことばかり考えていたわけじゃない。

 だが、可能な限り、視点が切れないようにしていたらしい。

 その執念には、さすがの相良も少し黙った。


 翌日、その映像はクラン経由でオーストラリア政府側へ渡された。


 オーストラリア現地は、当然ながら最初すぐには信じなかった。

 それもそうだろう。

 人間社会へ紛れ込んだボス級個体。

 その撃破映像。

 しかも撃破したのが日本の学園生徒三人。


 話だけ聞けば、冗談みたいな情報だ。


 だが、映像は嘘をつかなかった。


 血液操作。

 擬態個体としての知性。

 再生。

 そして撃破。


 結果として、オーストラリア側が出していた“吸血鬼型擬態個体”に対する緊急警戒の内容は更新され、少なくとも「まだ市街に潜伏している可能性が高い」という前提の指名手配に近い扱いは取り消された。


 倒した。

 その事実が、ようやく外部でも認められたわけだ。


 それ自体は、たしかに大きい。

 大きいのだが――。


 問題は、そこで終わらなかった。


 クラン本部の会議室へ呼ばれた時、悠真は正直、報告の確認をして終わりだと思っていた。


 優奈も来ている。

 唯もいる。

 相良は机の上に報告書と映像記録を並べていた。


「まさか、本当に三人で倒すとはな」


 相良が最初にそう言った。


 声のトーンはいつも通り低い。

 だが、その一言の中には、かなり本音が混じっていた。


 悠真は椅子へ座りながら、小さく息を吐く。


「倒せたのは運もありますよ」


「運だけでは無理だ」

 相良はあっさり切った。

「お前が時間を稼ぎ、朱衣が情報を持ち帰り、唯が空間を押さえて、空下優奈が押し切った。噛み合った結果だ」


「噛み合ったのはそうですけど」


 そこまで言ってから、悠真はほんの一拍置いて、机へ肘をついた。


「……っていうか、これどうするんですか?」


 相良が書類から顔を上げる。

 優奈と唯も同時にこちらを見る。


「え?」


 三人の反応が、ほとんど同時だった。


 何が問題なのか、まだそこへ意識が向いていない顔だ。


 悠真はそこで、心底嫌そうに言った。


「オーストラリアダンジョンだよ⁉」


 会議室の空気が一瞬だけ静かになる。


「あの吸血鬼、一階層ボスだろ⁉ あれで!」


 そこまで言われて、ようやく優奈の表情が変わった。

 唯も、ほんのわずかに目を細める。

 相良だけはすぐには反応せず、ただ視線を悠真へ固定した。


 悠真はそのまま続ける。


「外へ出られるだけの知能がある。人間へ擬態できる。記憶模倣の可能性も高い。速度、再生、拘束、吸血、全部ひとりで完結してる」

「少なくとも雑魚や中ボスじゃない。あれが一階層ボスじゃなかったら、逆にオーストラリアのダンジョン設計どうなってるんだって話だ」


 誰もすぐには否定しなかった。


 だって、その通りだからだ。


 あの吸血鬼の姫は、どう考えても浅い階層に置いていい性能じゃない。

 だが、逆に“外へ出ることを前提にした、一階層の門番兼例外個体”だと考えると筋が通ってしまう。


 つまり。


 オーストラリアのダンジョンは、一階層からしてあれなのだ。


「俺が命がけで削って」

 悠真は低く言う。

「そこから二人がかりで、ようやくだ」

「同じことをもう一回できる保証なんてない。むしろ次はないと思った方がいい」


 優奈がゆっくりと息を呑む。


 たしかに、自分たちは勝った。

 でも、それは“勝てた”だけであって、“安定して勝てる”とは全然違う。


 しかもあの時は、吸血鬼の姫が悠真との戦闘で相当消耗していた。

 朱衣の報告もあった。

 唯の糸が血液糸へ強く出た。

 優奈の機動と噛み合った。


 条件が、あまりにも揃いすぎている。


 毎回あんな形を再現できると思う方が甘い。


「……あ」


 小さく声を漏らしたのは優奈だった。


「そういうこと、ですか」


「そういうことだよ」


 悠真は頷く。


 そして、そこからさらに嫌な話へ進んだ。


「シュウたちを送り込むわけにもいかないし」


「なんでですか?」


 優奈がすぐに聞く。


「簡単だ」

 悠真は答える。

「シュウたちは“深いダンジョンを攻略する”ことに最適化された連中だ。正面から潰す力はある。でも、外へ出る、擬態する、知性がある、人間社会に紛れ込む――そういう一階層ボス相手の対処に向いてるかは別だ」


 加えて、今の段階でオーストラリアダンジョンそのものの情報が少なすぎる。

 一階層からあの吸血鬼が出るなら、その下がどうなっているのか想像したくもない。


 深層攻略者を「とりあえずぶつければいい」では済まない相手だった。


 相良はそこで、ゆっくりと腕を組んだ。


「……なるほど」


 ようやく、その危うさが全員に共有されたらしい。


 だが、悠真にとって本当に怖いのは、まだ先だった。


「で」


 悠真は嫌な予感を押し殺さず、そのまま言った。


「ほっといたら、たぶんあれ、リスポーンするぞ」


 その一言で、今度は三人とも本当に黙った。


 優奈も、唯も、相良も。


 さっきまで“倒した”という事実へ意識が向いていたから、そこまで思考が回っていなかったのだろう。

 だが、言われてみれば、ダンジョンの魔物として考えた時、それは避けて通れない問題だ。


 ダンジョンの中のボスは、倒して終わりではない。

 一定条件で再出現する。

 それがシステムだ。


 なら、外へ出た一階層ボスはどうなる。


 外で倒された場合、それで完全消滅するのか。

 それとも、ダンジョン側が“死亡”として処理して、再び一階層へ戻すのか。


 分からない。

 でも、もし後者なら――。


「また同じことやるかもしれない」


 優奈が小さく言った。


「その可能性は高い」

 悠真は頷く。

「問題は、記憶がリセットされるか継続するか分からないことだ」


 そこが一番嫌だった。


 リセットされるなら、また同じ事故が起こる。

 また外へ出る。

 また人間へ擬態する。

 また誰かの血を吸って、また街へ紛れ込む。


 継続するなら、それはそれでもっと最悪だ。

 今度は日本側に自分たちの情報を知られた状態で、もっと慎重に潜られる。

 今回みたいに、感情で動いて近づいてくる保証はない。

 むしろ次は、もっと隠れて、もっと深く、人間社会へ溶け込むかもしれない。


 どっちに転んでも厄介だった。


「……最悪ですね」


 優奈が心底嫌そうに言う。


「うん」


 唯も、小さく同意した。


 相良だけが、机の上の報告書へ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。

 たぶん、頭の中で最悪のケースを並べているのだろう。


「オーストラリア政府は、そこまで考えていないな」


 やがて相良がそう言った。


「現時点では“外へ出た危険個体を倒した”で止まっている」

「だが、それで安心しているなら甘い」


「そりゃそうでしょうね」


 悠真は即答した。

「リスポーンしたら、また出てくる。しかも今度は、俺たちのことを知ってるかもしれない」


「あるいは、逆に何も覚えていない状態で、また同じように人間社会へ出るか」


 相良の補足に、優奈が肩を落とす。


「どっちも嫌です……」


「だから面倒なんだよ」


 悠真は本気でうんざりした声で言った。


 倒した。

 証拠もある。

 外部も認めた。

 そこまではいい。


 だが、そこから先に見えるのが“根本的には何も解決していない可能性”なのだから、喜んでいいのかも分からない。


 優奈がふと顔を上げた。


「でも、録画があるなら」


「何だ」


「少なくともオーストラリア側へ、“あれを甘く見ちゃだめだ”とはちゃんと伝えられますよね」


 それは、たしかにそうだった。


 映像はある。

 血液加速。

 拘束。

 再生。

 知性。

 擬態。

 そして、三人がかりでもようやく押し切ったという事実。


 それが残っているだけでも、向こうの認識を変える材料にはなる。


「……まあ、それはそうだな」


 悠真は渋い顔のまま頷いた。


 相良も、小さく息を吐いてから言う。


「少なくとも、こちらからオーストラリア側へ追加警告は出す」

「一階層ボス級個体である可能性。外部撃破後の再出現リスク。記憶継続とリセット、どちらでも危険性が高いこと。その三点は共有しておくべきだろう」


「頼みます」


 悠真は即答した。


 ここまで来ると、もう自分一人でどうこうできる話じゃない。

 国家。

 クラン。

 学園。

 全部が絡む。


 それでも、最初に気づいた以上、言うべきことは言わなければならない。


 会議室の空気は、しばらく重いままだった。


 吸血鬼の姫を倒した。

 でも、その勝利の余韻に浸る暇はない。

 むしろ倒したからこそ、次の問題が見えてしまった。


「……なんか」


 優奈がぽつりと言う。


「この前まで、“吸血鬼を倒せるのか”が問題だったのに、今は“倒したあとどうするのか”になってるの、変な感じです」


「変な感じで済むならいいけどな」


 悠真はそう返した。

 その言い方に、少しだけ三人の表情が緩む。

 だが、すぐにまた戻った。


 問題は、笑って流せる種類のものじゃない。


 オーストラリア。

 一階層ボス。

 外へ出る個体。

 擬態。

 リスポーン。


 全部が、嫌な方向へ噛み合いすぎている。


 そしてその中心に、自分たちは一度もう触れてしまった。


 悠真は椅子の背へ体重を預けながら、低く呟く。


「……やっぱり、ただ倒すだけじゃ駄目だったか」


 誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。

 相良か。

 優奈たちか。

 それとも、自分自身か。


 ただ一つ分かっているのは、オーストラリアの問題は、ここからが本番だということだった。


(つづく)

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