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第134話 見落とした一枚

 吸血鬼の姫は、追い詰められながらも、まだ思考を止めてはいなかった。


 焦りはある。

 苛立ちもある。

 だが、だからといって闇雲に暴れるほど浅くはない。


 路地の空間は、すでに唯の魔力糸で半ば支配されていた。

 壁、電柱、看板の角、建物の影。

 血液の糸を絡めて加速の支点にしたい場所ほど、先に銀色の糸が張られている。

 しかも、その糸はただそこにあるだけではない。


 《付与》によって強度を上げられ、さらに《拡張魔力ー切断》まで乗っている。

 真正面からぶつかれば、砕けるのは自分の血液の方だ。


 事実、それはもう何度も確かめさせられていた。


 だから、正面からの空間支配争いは負けている。


 なら、どこでひっくり返すか。


 吸血鬼の姫は、赤い目を細めて空下優奈を見る。


 速い。

 今の戦場で、一番危険なのはあの女だ。


 《発射(自身)》による加速。

 唯の作った支配域の隙間を縫うように飛び回り、自分の逃げ道へ先回りしてくる。

 血液の糸が使えない今、純粋な機動で上を取られているのは明らかだった。


 だが――。


 吸血鬼の姫は、その速さを見ながら、一つだけ確信していた。


 あの移動は、カウンターに弱い。


 完璧な制御ではない。

 どれだけ扱いに慣れていても、《発射(自身)》は“自分を弾く”魔法だ。

 つまり、直線的な加速と減速に一瞬の誤差が出る。

 完全に読めなくてもいい。

 「来る」と思った場所へ面で置けば、引っかけられる。


 詳しく魔法を知らなくても、見ていれば分かる。


 しかも、明らかに空下優奈は無理をしている。

 自分より若干遅い。

 だから、その差を埋めるために、発射の角度と回数で無理やり速度を追いつかせている。


 なら、そこへカウンターを置けばいい。


 そう判断した時、吸血鬼の姫の中で、一つの勝ち筋が形になった。


 唯の糸は厄介だ。

 だが、あれは空間そのものを埋める魔法ではない。

 通れる隙間はある。

 優奈はその隙間を使って飛び回っている。


 なら、その隙間へ血を置く。

 棘でも、刃でもいい。

 発射の勢いで自分から刺さりに来る形へ持ち込めば、こちらが一撃取れる。


 空下優奈が正面から踏み込む。

 吸血鬼の姫はわずかに体勢をずらしながら、その軌道の先を読む。


 来る。

 右斜め下。

 そこだ。


 血液を一気に練り上げ、細く鋭い棘へ変えようとした、その瞬間だった。


 不意に、頭の中で何かがずれた。


「……え?」


 ほんの刹那。

 認識が遅れる。


 空下優奈は、さっきから近距離でしか攻めてきていない。

 棘状攻撃を見て以降も、間合いを詰めて斬撃を重ねている。

 だから、遠距離の手はないものだと、いつの間にか思い込んでいた。


 だが、それはおかしい。


 試験の時の記憶がある。

 あの女は、ボス相手に遠距離から斬撃を延ばしていた。

 見ているはずだ。

 知っているはずだ。


 なぜ忘れていた?


 その疑問が浮かんだ瞬間、吸血鬼の姫ははっきり自覚した。


 血が足りない。


 血液の糸を失ったことで、単に加速の支点が消えただけじゃない。

 路地の陰へ確保していた予備の血も、回復と棘状攻撃で大量に吐き出した。

 頭が少し重い。

 思考が遅れる。

 視界の焦点が、ほんのわずかに遅れて合う。


 貧血。

 消耗。

 そのうえ、記憶模倣の精度まで落ちている。


 だから、知っていた一枚を見落とした。


 その一拍が致命傷だった。


「《延長(斬撃)》!」


 優奈の声が響く。


 刃が伸びる。


 いや、伸びたと認識した時には、もう遅い。

 斬撃そのものが空間を縦に裂くように走り、吸血鬼の姫の身体を真っ二つにした。


 縦に。


 肩口から、胸を抜け、胴を割り、腰まで一直線に。


 血が噴く。

 肉が裂ける。

 だが優奈は、そこで止まらなかった。


「まだです!」


 《発射(自身)》で一気に距離を詰める。

 唯の糸が、その進路を邪魔しない。

 それどころか、吸血鬼の姫が再生のために血液を寄せようとする方向へ、先に銀の線が走っている。


 逃げ道がない。

 支点もない。


 なら、やることは一つだ。


「再生する前に、切り続ける!」


 優奈の斬撃が、今度は横に走った。


 一閃。

 もう一閃。

 さらにもう一閃。


 横。

 横。

 横。


 縦に割った傷口へ、今度は横から何度も刃を通し、断面を増やしていく。

 再生の起点を分散させるためだ。


 吸血鬼の姫の再生能力は厄介だ。

 一撃で終わらない。

 切っても、裂いても、血を戻してくる。


 なら、再生しきる前に、再生先を増やし続けるしかない。


 路地に、血の飛沫が何度も跳ねた。


 優奈の呼吸が荒くなる。

 《発射(自身)》を細かく挟みながら、《延長(斬撃)》と通常斬撃を切り替える。

 消耗は大きい。

 体力も魔力も、楽な状態じゃない。


 だが、勝負は単純だった。


 吸血鬼の血液と、空下優奈の体力+魔力。どちらが多いか。


 それだけだ。


 そして、その勝負において、今の吸血鬼の姫は圧倒的に不利だった。


 なにしろ、悠真との死闘のあとだ。

 血液の糸を何度も切られ、回復を強制され、《魔力連撃》で支点を潰され、路地の陰に確保していた一般人の血液まで消費している。

 そこへ、唯の支配域と優奈の猛攻。


 ぶっ続けで戦わされている。


 血液と体力の消耗は、もう尋常じゃないはずだった。


「優奈、左!」


 悠真の声が飛ぶ。


 まだ血液の拘束は一部残っていた。

 完全に自由ではない。

 それでも、目と頭は死んでいない。


 吸血鬼の姫の断面から、わずかに血の針が左へ偏って集まる。

 再生の起点をそこへ寄せようとしているのだ。


 優奈は即座に反応した。

 《発射(自身)》で半歩だけ軸をずらし、左から斬り込む。

 針になる前の血液ごと断ち、再生を潰す。


 唯はその間にも、糸をさらに一本、二本と増やしていた。


 単なる補助ではない。

 再生へ使おうとする血液の流れを邪魔し、空間の自由度を削っているのだ。

 しかも、血液が糸へ触れれば砕ける。

 《付与》で強度を上げたうえに、《拡張魔力ー切断》まで乗せた魔力糸は、再生のための“通路”すら切断していく。


 吸血鬼の姫が、ついに悲鳴に近い声を漏らした。


「っ、うるさい……!」


 その声には、最初の余裕はどこにもない。


 優奈は息を荒げながらも、目を逸らさない。


「逃がしません!」


 刃がまた走る。

 今度は《延長(斬撃)》ではなく、近距離での連続斬りだ。

 距離を詰め、最短で、最小の動きで切る。


 速い。

 だが、最初の吸血鬼の姫ほどではない。


 もう、相手は速度で勝負できない。

 血液糸がない。

 頭も鈍っている。

 支配域も狭い。


 ここまで来れば、優奈の土俵だ。


 吸血鬼の姫は、それでもまだ反撃の意思を捨てていなかった。


 断たれた半身から、強引に血液を引き絞る。

 もう一度だけ、棘のようにして全方位へ撒き散らそうとする。


 だが、その動きへ、唯が先に反応した。


「通さない」


 小さく呟くと同時に、魔力糸が交差する。


 銀色の糸が網目のように重なり、吸血鬼の姫の周囲を一気に狭めた。

 広く撒くには空間が足りない。

 無理に伸ばした血液は、糸へ触れた瞬間に砕け散る。


「唯、ナイス!」


 優奈が短く言い、そのまま正面から飛び込んだ。


 吸血鬼の姫は防ごうと腕を上げる。

 その腕ごと、優奈は斬り落とした。


 一撃。

 二撃。

 三撃。


 今度は縦と横を混ぜる。

 断面を増やす。

 再生の起点を奪う。


 吸血鬼の姫の身体が、次第に“ひとつの個体”としての形を維持できなくなっていく。


 肩が戻らない。

 腰が繋がらない。

 腕が血の塊のまま落ちる。


 それでも、優奈は刃を止めない。


 呼吸はもう荒い。

 額には汗がにじみ、足の踏み込みも限界に近い。

 でも、その目だけはまだ死んでいなかった。


 この勝負、先に尽きるのはどちらか。

 答えはもう見えている。


 吸血鬼は、悠真との戦闘で削られすぎた。

 糸も、回復も、棘も、全部を使わされた。

 今残っているのは、半端に寄せ集めた血液だけ。


 対して優奈は、確かに消耗している。

 だがまだ“押し切る”だけの体力と魔力が残っていた。


「終わりです!」


 最後の一撃は、上からだった。


 《延長(斬撃)》を極端に長くはしない。

 その分だけ火力と切断力を近距離へ集中させる。


 斜め。

 深く。

 強く。


 吸血鬼の姫の残っていた胴体が、斬り崩された。


 ばしゃ、と大量の血が地面へ散る。


 だが、今度はもう集まらない。


 再生しようとして、できない。

 形を戻そうとして、戻らない。


 唯の糸が、その最後の流れすら切っていた。


 しばしの沈黙。


 路地に残ったのは、優奈の荒い呼吸と、血の匂いだけだった。


「……勝った?」


 朱衣が、ようやくそんな声を漏らす。


 優奈はすぐには答えられなかった。

 膝に手をついて、息を整える。

 それから、まだ動かない血の残骸を見下ろしたまま、小さく言った。


「……多分」


「多分じゃ困る」


 悠真がそこへ口を挟む。

 声はまだ少し重かったが、さっきよりは安定していた。


「唯、確認できるか」


「うん」


 唯は魔力糸をさらに細かく伸ばし、地面に散った血液へ触れさせる。

 反応を見る。

 再生の兆候。

 魔力の流れ。

 その全部を、数秒かけて確かめた。


「もう動かない」


 短い言葉だった。

 だが、それで十分だった。


 優奈はその場でどっと力が抜けたように座り込みそうになったが、ぎりぎりで耐える。

 その顔には、達成感よりも先に疲労が出ていた。


「空下優奈」


 悠真が呼ぶ。


「はい……」


「よくやった」


 短い、その一言だけだった。

 だが優奈にとっては、それで十分すぎた。


「……はい」


 返事が少しだけ震える。


 唯は相変わらず表情が薄い。

 けれど、糸をしまう手つきにはわずかな緩みがあった。

 あれで多分、安心しているのだろう。


 朱衣は少し離れた場所で、まだ興奮と疲労と恐怖が混ざった顔をしていた。

 さっきまで「私のyuma」と叫んでいた勢いは消え、今はただ呆然と戦いの終わりを見ている。


 悠真は壁へ背を預けながら、路地の地面を見た。


 血。

 切られた糸。

 倒れた一般人たちの痕跡。


 オーストラリアでダンジョンが発生し、ボス級が外へ出た。

 人間のふりをして、記憶まで模倣している可能性がある。

 その警告は、本当に日本へも届いていたのだ。


「……面倒なことになってきたな」


 思わずそう呟く。


 吸血鬼の姫は倒した。

 でも、それで終わりとは思えなかった。


 こんな存在が外へ出られる。

 しかも、最初から自分を探していた。

 そこに意味がないはずがない。


 優奈が呼吸を整えながら、悠真を見る。


「ユウマくん」


「何だ」


「……助かりましたか?」


「ギリギリな」


 そう答えると、優奈は少しだけ肩の力を抜いた。


「よかったです」


 その返事に、悠真は小さく笑った。


 ギリギリ。

 でも、ギリギリで間に合った。

 十分で来た。

 そして、二人は本当に自分の予想以上に強かった。


 優奈と唯。

 この二人なら、自分が一人で苦戦する相手にも勝てる。


 その事実だけは、今日、はっきり証明された。


 路地の夜気が、ようやく少しだけ静かになる。


 だが、静かになったからこそ、次に来る面倒の気配も濃くなっていた。


 吸血鬼の姫。

 人間社会に紛れ込んだボス級。

 そして、それを追う側と狙われる側。


 多分、ここから先の方が本番だ。


 そう思いながら、悠真は血の残滓の向こうへ視線を向けた。


(つづく)

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