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第133話 糸と血

 路地の向こうから、二つの足音が駆け込んできた。


 ひとつは、空気を押し切るような、まっすぐな速さ。

 もうひとつは、静かで、無駄のない、音の薄い走り方。


 空下優奈。

 そして、唯。


 吸血鬼の姫は、その二人の姿を見た瞬間、わずかに目を細めた。

 さっきまで悠真一人を相手取っていた時の余裕が、ほんの少しだけ薄れる。


 悠真は血液のひもに食い込まれた腕をかばいながら、ようやく小さく息を吐いた。

 間に合った。

 本当に十分で来た。


「ユウマくん!」


 空下優奈が叫ぶ。

 その声に混ざる焦りを、悠真はむしろありがたいとすら思った。

 平常心を気取る余裕がある状況じゃない。

 今の相手は、それほどまでに厄介だ。


 そこへ、少し遅れて朱衣が駆け込んできた。

 息を切らしながら、それでも最初にやるべきことを理解している顔だった。


「吸血鬼!」

 朱衣は言葉を切らさず、ほとんど吐き出すように続ける。

「血を操る! 糸みたいにして加速する! 触れられると縛られる! すっごく速い!」


 報告としては、それだけで十分だった。


 吸血鬼。

 血液操作。

 拘束。

 高速機動。


 空下優奈は一瞬だけ悠真を見た。

 その視線で、だいたい全部を理解する。


 兄である悠真が後れを取った。

 その原因は何か。


 相手の回復力か。

 初見の能力か。

 もちろんそれもある。

 だが、今この場で最優先に見るべきはそこじゃない。


 速さだ。


 ユウマくんが、速度で押し切れなかった。

 それ以外に、ここまで苦しい顔になる理由がない。


 なら――勝ち筋は一つ。


 機動力で上回ること。


 ただし、空下優奈一人の素の速度では、おそらく吸血鬼に若干届かない。

 少なくとも、今の悠真の苦戦を見ればそう判断するべきだった。


 だから必要なのは、速度を直接上げることじゃない。

 相手の速度が活きる空間を消すことだ。


「唯!」


 優奈が短く呼ぶと、唯はもう動いていた。


 言葉すらいらない。

 朱衣の報告と、悠真の状態と、吸血鬼が周囲へ残した血液の痕跡。

 それだけで、やるべきことは見えている。


 唯は左手を前へ出した。


「《魔力変化(糸)ー極》」


 薄く伸びた魔力が、夜気の中で一瞬だけ銀色に光る。

 そこへ間髪入れず、さらに二つ。


「《付与》」

「《拡張魔力ー切断》」


 次の瞬間、糸が一気に増殖した。


 一本や二本ではない。

 路地の壁。

 電柱。

 看板の角。

 建物の影。

 吸血鬼が血液の糸を絡めるために使っていた“支点”になりそうな場所へ、唯の魔力糸が先に走る。


 まるで、空間そのものへ細い罅を張り巡らせるみたいだった。


 それは防御のためだけじゃない。

 唯が支配できる空間を、可能な限り広げるための初手だ。


 吸血鬼の姫はそれを見て、ふっと笑った。


「かわいい魔法」


 だが、その言葉の直後だった。


 唯はあえて、自分の糸を吸血鬼の血液糸へぶつけた。


 試すためだ。

 強度を。

 切断能力を。

 どちらが上か分からなければ、戦略の立てようがない。


 赤と銀が、空中で交差する。


 次の瞬間、砕けたのは血液糸の方だった。


「……っ」


 吸血鬼の姫の目が、初めてはっきり見開かれる。


 当然だ。

 唯の魔力糸はただの糸じゃない。


 《付与》で強度を底上げしている。

 その上で、《拡張魔力ー切断》によって切断性まで乗せている。


 血液はしなる。

 再生にも向く。

 だが、“線”として真正面からぶつかった時の強度と切断性能で言えば、唯の魔力糸の方が上だった。


 悠真はその結果を見て、思わず口元だけで笑う。


「勝ったな、そこは」


 血液糸を上回る“糸”がある。

 それだけで、戦場の形が変わる。


 空下優奈も、それを見た瞬間に動いた。


「唯、そのまま広げて!」


「うん」


 唯は短く答え、さらに魔力糸の支配域を押し広げる。

 路地の幅だけでは終わらない。

 壁から壁へ。

 上から下へ。

 立体的に、逃げ道と支点そのものを塗りつぶす。


 それに対し、優奈は逆だ。

 支配域を作るのではなく、その空いた“安全な隙間”を最速で通る。


「《発射(自身)》!」


 身体が弾かれるように前へ飛ぶ。


 優奈は最初から分かっていた。

 単純な直線速度だけなら、おそらく吸血鬼が少し上。

 だから真正面の速さ比べはしない。


 唯が作った空間支配を前提に、

 相手が通れる場所より、先に自分が通る。

 それが、今の優奈にできる最適解だった。


 血液糸が張れない。

 張っても砕ける。

 逃げたい方向には、もう唯の糸がある。


 その中を、優奈が発射で飛び回る。


 どちらが優勢かは、もう明白だった。


 吸血鬼の姫が左へ逃げる。

 そこには唯の糸が張られている。

 わずかに軌道を変える。

 その先へ優奈が先回りして、《延長(斬撃)》を叩き込む。


 避ける。

 だが避けた先の上方には、また糸。


 動ける範囲が狭い。

 しかもその狭い空間の中では、優奈の方が速い。


「っ!」


 吸血鬼の姫の肩が裂ける。


 悠真はその一撃を見て、はっきりと理解した。

 そういうことか、と。


 優奈一人では届かない。

 唯一人では捕まえきれない。

 だが、唯が空間を支配し、優奈がそこを飛ぶなら、吸血鬼の速度優位は消える。


 これが、さっき自分が言った“二人なら俺より強い”の意味だった。


 純粋な力じゃない。

 噛み合い方だ。


「結城さん、下がれますか!?」


 朱衣が叫ぶ。


「まだ無理だ」

 悠真は短く返した。

「下手に動くと、血の残りが刺さる」


 拘束自体はもう薄れている。

 だが、吸血鬼が途中でばら撒いた血液が地面や壁に残っている。

 不用意に飛び込むより、今は観察と指示に徹した方がいい。


「優奈!」

 悠真は声を張る。

「背後を取るな、左右で削れ! 今のあいつ、切り返しの判断落ちてる!」


「はい!」


 優奈は即答した。

 吸血鬼の姫の動きが、最初より僅かに鈍いのは自分でも感じていた。


 血液糸を失った影響は、単なる機動力低下だけじゃない。

 血を外へ出して支点にし、それを通して全身を動かしていた以上、糸を失うと血流の余裕が減る。

 つまり、貧血で頭に血が回らなくなりやすい。


 思考能力の低下。

 それが今、じわじわ効き始めている。


 唯はその兆候を見逃さない。


 糸をさらに一本、二本、三本。

 支配域の“隙間”を少しずつ狭める。

 閉じ込めるのではなく、選択肢を減らす。


 吸血鬼の姫が右へ跳ぶ。

 糸に触れる。

 砕けるのは、また血液糸の方。


「邪魔……!」


 初めて、吸血鬼の姫の声へ焦りが混じった。


 その瞬間を待っていたみたいに、優奈が前へ出る。


 《発射(自身)》で身体を真横へ飛ばし、その軌道のまま低い位置から斬り上げる。

 吸血鬼の姫は身を捻って避ける。

 だが、その避けた先には唯の糸がある。


 回り込めない。

 支点が取れない。

 血液糸を張る暇もない。


「これで――!」


 優奈の二撃目が、今度は頬を裂いた。


 吸血鬼の姫が大きく距離を取ろうとした、その時だった。


 ぶわ、と。

 彼女の全身から、大量の血液が噴き出した。


「散れ!」


 悠真が即座に叫ぶ。


 血は糸じゃなかった。

 棘だった。


 四方八方へ、槍のように尖りながら伸びる。

 正面、左右、上、下。

 空間を埋めるみたいに、一斉に。


 優奈が反射的に《発射》で軌道を変える。

 唯は自分の周囲へ糸を束ねて盾代わりにし、真正面から来た棘を切断する。

 朱衣の魔力矢が二本、三本と撃ち抜き、残った一本が悠真の肩をかすめた。


 痛みが遅れて走る。


 だが、避けきれた。


 吸血鬼の姫は血を大量に失ったように、ほんのわずかだけふらついていた。


 そこで悠真は、なぜこの攻撃を最初から使わなかったのかを考える。


 答えはすぐ出た。


「……そういうことか」


 糸状の血液は、最もロスが少ない。


 細く、しなやかで、速度へ変換しやすい。

 しかも支点として再利用できる。

 だが、今みたいに棘状へ大きく形を変えると、血液の消耗が激しすぎる。


 広範囲へ一気に撒ける。

 だがその分だけ、回収効率も悪く、再利用しづらい。

 つまり、強いが燃費が悪い。


 だから最初から使わなかった。

 使えなかったのではなく、使う価値がなかったのだ。

 糸状が最も効率が良かったから。


 だが、今は違う。

 追い詰められた。

 逃げ場を失い、速度優位も崩れた。

 だから、奥の手を切るしかなくなった。


「ユウマくん!」


 優奈が振り返る。


「大丈夫ですか!?」


「かすり傷だ」

 悠真は答え、肩を押さえながら立ち直る。

「逆に言えば、今のであいつはかなり削った」


 吸血鬼の姫は呼吸こそ乱していない。

 だが、見れば分かる。

 周囲へ漂う血の量が明らかに減っている。

 路地の陰に倒れている一般人から奪った分まで使い込み始めているのだろう。


 つまり、残量は無限じゃない。


 唯が静かに言う。


「次、もっと広げる」


「頼む」

 悠真は頷く。

「もう一段、あいつの逃げ道を潰せ。糸への依存が切れたら、その時点で勝ちだ」


 唯は小さく頷き、再び両手を前へ出す。


 銀の糸が、血の飛沫の残る夜気へまた伸びていく。


 空下優奈は、その糸が生む新しい空間を見て、再び姿勢を低くした。


 吸血鬼の姫が追い詰められている。

 そう確信できるだけの材料が、もう揃っていた。


 けれど同時に、優奈は分かっている。

 追い詰められた獣ほど危険だ。


 だから、ここから先が本番だった。


 悠真は肩の傷の痛みを押し込みながら、吸血鬼の姫を見据える。


 相手はもう、最初の余裕を失っている。

 だから次に来るのは、もっと無理をした攻撃か、もっと卑劣な逃げ方か、そのどちらかだ。


 だがどちらにせよ、勝ち筋は見えた。


 空間支配は唯。

 機動制圧は空下優奈。

 分析と指示は自分。


 ここまでくれば、ようやく“戦い”になる。


 吸血鬼の姫が血の残滓を足元へ集め、もう一度こちらを見る。

 その赤い目に、今度ははっきりと焦りがあった。


「……人間のくせに」


 その呟きを聞いて、悠真はわずかに口元を吊り上げた。


「そっくりそのまま返すよ」


 夜の路地に、銀の糸がまた広がる。

 その網の中を、空下優奈が飛ぶ。


 追い詰められているのは、もうどちらなのか。

 答えは、すぐに出るはずだった。


(つづく)

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