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第131話 あと十分、いや五分

血液のひもは、見た目以上に質が悪かった。


 ただ巻きついているだけじゃない。

 空中へ吊り上げられた状態で、腕と胴と足の可動域を微妙にずらしながら締め上げている。

 力任せに暴れれば引き千切れそうではある。

 だが、その瞬間に別のひもが食い込み、肉ごと抉る未来が見えた。


 ――そういう拘束だ。


 悠真は一瞬で理解する。


 吸血鬼の姫は、ただ相手を縛ったわけじゃない。

 高速移動で強引に抜けられることを前提に、それを防ぐために“空中へ吊るした”のだ。


 足場がなければ踏み込みの初速が死ぬ。

 体勢が崩れていれば、全力の高速移動は危険になる。

 そして何より、無理に暴れれば自分から裂ける。


 面倒な相手だった。


「結城さん!」


 朱衣が叫ぶ。

 その声には、さっきまでの感動や戸惑いはもうほとんど残っていなかった。

 あるのは焦りと怒りだけだ。


 魔力矢はまだ展開したまま。

 いつでも撃てる。

 だが、相手の速度が速すぎる。

 今の位置関係で無理に撃てば、悠真まで巻き込む可能性がある。


「下がれ!」


 悠真は本気で言う。


「でも――!」


「下がれっつってるだろ!」


 今度は声音に叩きつけるような強さを乗せた。

 朱衣の足が止まる。

 だが、目は完全に納得していない。


 吸血鬼の姫は、そのやり取りを面白がるみたいに見ていた。

 赤い目が細まる。

 笑っている。

 人間の女の顔で、妙に整ったその笑い方が逆に不気味だった。


「仲がいいのね」


 甘い声だった。

 だが、その声の底にあるものは甘くない。


「安心して。すぐには殺さないわ」

「だって、せっかく見つけたんだもの。あなたの血、ちゃんと味わってからにしたいじゃない?」


 その言い方で、悠真はさらに二つ理解した。


 こいつは最初から自分を狙っていた。

 そして、血を吸うこと自体に明確な意味がある。


 単なる捕食じゃない。


 悠真は、縛られた腕をわずかに動かした。

 ひもが食い込む。

 痛い。

 だが、その感触で位置が分かる。


 右腕は厳しい。

 左は少し遊びがある。

 足首側のひもは強いが、腰の巻き方にわずかな偏りがある。


 ――切れる。


 そう判断した時には、もう動いていた。


 悠真は上着の内側へ指を差し込み、仕込んでいた一本のナイフを引き抜く。

 万が一の時のために持ち歩いていた、ごく短い刃だ。

 ダンジョンの外でこんな形で役立つとは思っていなかったが、何があるか分からないから備える。それは昔から変わらない。


 吸血鬼の姫がわずかに目を細める。

 その一瞬の警戒より早く、悠真は刃へ魔力を通した。


 貫通。


 小さな刃が、血液のひもへ沈み込む。

 普通の刃なら絡め取られて終わる。

 だが貫通は違う。

 防御も、質量も、そこに“ある”ことを無視して通す。


 ぶつ、と嫌な音がした。


 次の瞬間、拘束の一点が切れる。


 そこからは早かった。


 空中で体をひねり、残るひもの張力を逆に利用して半回転。

 無理やり抜けるのではなく、切れた部分へ荷重を集中させて一気に崩す。

 腰。

 足。

 腕。


 悠真は地面へ着地すると同時に、高速移動を切った。


 吸血鬼の姫も、それに合わせて血液の糸を周囲へ広げる。


 一瞬で、二人の位置が交差した。


 速い。


 ただし、今度はちゃんと見える。


 高速移動と、血液操作による物理加速。

 速度そのものは、ほぼ互角。


「……そう来るか」


 悠真が低く呟く。


 これは厄介だった。

 自分の強みは、知識と対応力と速度だ。

 知識は初見相手には少し鈍る。

 対応力は情報が足りない相手ほど難しい。

 そして、その中でも一番大きかった速度が、ここで互角になった。


 つまり、今の相手は“初見で、しかも自分の強みを潰してくる”最悪の部類だ。


 吸血鬼の姫が笑う。


「やっぱり素敵」


「褒められても嬉しくないな」


「でしょうね」


 そのやり取りすら、位置を取り合いながらだった。

 止まって喋っているわけじゃない。

 血液の糸が建物の陰へ走り、悠真の身体が高速移動でそれを追う。

 互いに一瞬で距離を詰め、一瞬で離れる。


 朱衣の魔力矢が、その外側をかすめるように飛んだ。

 だが、やはり当たらない。


 発射の瞬間にはもう別の場所にいる。

 相手も、こちらも速すぎる。


「朱衣!」


 悠真は短く呼んだ。


「私も戦う!」


 返ってきたのは予想通りの言葉だった。

 怒りと焦りが混ざっている。

 “私のyuma”を傷つけられたことへの感情も、明らかにある。


 だが、ここでそれに乗る余裕はない。


「お前じゃ追いつけない!」


「でも――!」


「いいから聞け!」


 悠真は吸血鬼の姫の爪を躱しながら叫ぶ。

 地面を蹴る。

 血の糸が横から走る。

 その下を滑り抜け、今度は逆側から連撃を叩き込む。


 斬る。

 浅い。

 だが次に繋げる。


 連撃。

 クールタイムほぼゼロの連続発動。

 そこへ貫通を混ぜる。

 肉を裂き、腕を飛ばし、脇腹を抉る。


 それでも、吸血鬼の姫は笑みを崩さなかった。


 裂けた傷口が、血を逆流させるみたいに戻る。

 飛ばしたはずの腕も、周囲に漂っていた血液を集めるようにして形を取り戻す。


「回復まであるのかよ……!」


 悠真は舌打ちした。


 イタチごっこだ。


 傷つける。

 だが治る。

 治るたびに、何かを使っている気配はある。

 魔力か。

 あるいは血液そのものか。


 そこで悠真は、ほんの一瞬だけ視線を周囲へ走らせた。


 路地の奥。

 建物の陰。

 ゴミ箱の裏。

 さっきから薄く引っかかっていた違和感の正体が、そこでようやく輪郭を持つ。


 倒れている。

 人影がいくつか。

 いや、完全に倒れてはいない。

 座り込んだまま意識を失っているのか、壁へもたれたまま動かないのか。

 どちらにせよ、まともじゃない。


 首筋。

 腕。

 服の上からでも分かる血痕。


 既に吸われた一般人だ。


 あらかじめ血液を確保していたのだろう。

 だから、さっきから血液切れのそぶりがない。


「最悪だな……」


 悠真は本音を漏らす。


 街中だ。

 しかも人気の少ない場所を選んでいる。

 最初から、こうするつもりだった。


 血液の予備を確保して、十分な“弾”を持った状態で、自分を襲った。

 ただの強敵じゃない。

 準備してきた敵だ。


「結城さん!」


 朱衣の声が震える。


 まだ逃げていない。

 悠真はそこへ、今度ははっきり言った。


「優奈と唯を呼んでこい」


「……え」


「時間を稼ぐ」

 悠真は吸血鬼の姫と距離を取りながら言う。

「十分あれば足りるはずだ」


 朱衣の顔が歪む。


「でも、それじゃ結城さん一人で……!」


「お前がここにいても今は邪魔だ!」


 言い切った。

 傷つけるとか、そういう段階じゃない。

 事実だった。


 朱衣の火力は高い。

 だがこの速度帯についてこれない。

 中途半端に介入されると、むしろ守る対象が一つ増えるだけだ。


 悔しそうに、朱衣の唇が震える。

 それでも、言っていることが間違っていないのは分かったのだろう。


「……十分でいいの?」


「十分で来い」

 悠真は短く答える。

「優奈と唯なら、十分あれば足りる」


 本当は、その十分すら怪しい。

 だが、怪しいと口にしたところで意味がない。


 吸血鬼の姫はその会話を、興味深そうに聞いていた。


「逃がすつもり?」


「お前を殺すつもりだよ」


「ふふ」


 笑い声が軽い。

 だが次の瞬間には、もう正面から来ていた。


 速い。

 悠真も高速移動で合わせる。

 互角。

 さっきまでより、はっきり分かる。


 速度だけなら、こいつは自分とほぼ同じ場所にいる。


 問題はそこから先だ。

 悠真の強みは、初見の敵に対する知識と対応力と速度。

 だが今は、初見で、速度も互角。

 つまり、一番嫌な条件が重なっている。


 爪。

 血の糸。

 吸血のための接近。

 そこへ、拘束能力。


 近づけば危険。

 離れれば血の糸で加速してくる。


 なら、やることは一つしかない。


 連撃。


 クールタイムゼロに近い速度で斬撃を重ねる。

 ただし、一撃に期待しない。

 切って、崩して、回復を強制する。

 回復のたびに何かを消費するなら、削り続けること自体に意味がある。


 貫通を混ぜる。

 肉を無視して中心へ届かせる。

 そこから連撃でさらに崩す。


 吸血鬼の姫の肩が飛ぶ。

 脇腹が裂ける。

 頬が抉れる。

 だが、すぐ戻る。


「ほんと面倒だな、お前」


「お互い様じゃない?」


 余裕を崩さないのがまた厄介だった。


 だが、完全に無限ではない。

 回復のたびに、周囲に漂っていた血液の量がほんの少しずつ減っている。

 一般人から奪った血の予備を、再生へ回しているのだろう。


 そこで悠真の頭に、一つの推測が浮かぶ。


 この回復力。

 この速度。

 この拘束能力。

 しかも、人間社会へ潜り込める。


 それでもなお“今ここでわざわざ俺を襲っている”ということは、本来の役割があるはずだ。


 ダンジョンシステム。

 魔物の役割。

 ボス級。

 外へ出た例外。


 ――時間稼ぎ専用の敵。


 本来は、そういう役割で存在していた個体なのかもしれない。


 硬い。

 速い。

 拘束できる。

 逃げられる。

 そして完全撃破しづらい。


 確かに“足止め”に向いている。


「……なるほどな」


 悠真はわざと口に出した。


「本来お前、時間稼ぎ専用の敵だろ」


 吸血鬼の姫の目が、ほんのわずかに揺れる。


 当たりだ。


 悠真はそこへ畳みかける。


「回復するたびに魔力か血を食ってる」

「つまり完全に無限じゃない」

「で、わざわざ俺の血を吸おうとしてる」


 連撃。

 高速移動。

 互角の速度域で斬り合いながら、言葉を投げる。


「お前、一定数血液を吸った相手の魔法をコピーして、そいつの姿になれるんだろ?」


 吸血鬼の姫の表情が、一瞬だけ固まった。


 それを見て、悠真は確信を深める。


「だから俺の血を吸おうとする」

「じゃないと勝ち目無いもんな?」


 次の瞬間、吸血鬼の姫の動きが変わった。


 焦った。


 理性的な捕食者の動きが、一瞬だけ雑になる。

 血の糸がいつもより太く伸び、真正面から首筋を狙ってくる。


 悠真はそれを高速移動でギリギリ外した。

 頬が浅く裂ける。

 血が滲む。


 痛い。

 だが、図星だ。


「当たりか」


「黙れ!」


 初めて、吸血鬼の姫の声に苛立ちが混じった。


 その事実だけで十分だった。

 焦らせる。

 冷静さを削る。

 こちらが速度で優位を取れないなら、精神面で揺らすしかない。


 ただし、その裏で悠真は冷静だったわけじゃない。


 全然余裕はない。


 内心では、もうかなりきつかった。

 速度互角。

 しかも相手は回復持ち。

 こっちは一手の判断を間違えれば、吸血か拘束が入る。


 あと十分。

 いや、本当に十分も持つのか?


 そんな疑問が頭をよぎる。


 だが、それでも口に出す言葉は別だった。


「焦るなよ」


 悠真は口元をわずかに吊り上げた。


「まだあと五分ある」


 本当は、あと五分も怪しい。

 それでも、そう言った方が相手は嫌がる。


 吸血鬼の姫の目が鋭くなる。

 図星を刺され、時間まで意識させられた。

 焦れば雑になる。

 雑になれば、こっちの対応力が少しだけ生きる。


 そのための言葉だった。


 朱衣は、その会話の意味を理解したらしい。

 唇を噛んで、そしてようやく一歩下がった。


「……絶対、持たせて」


 その小さな声に、悠真は答えなかった。

 答える余裕がなかった。


 ただ、次の一撃へ集中する。


 朱衣が走る気配。

 離れていく足音。

 それを背中で感じながら、悠真は吸血鬼の姫へ向き直った。


「さあ」


 息を吐く。


 覚悟は、とっくにできている。

 問題は、どこまで削り、どこまで時間を稼げるかだけだ。


「二ラウンド目だ」


 血の糸が弾ける。

 高速移動が走る。

 互角の速度同士の、決死の時間稼ぎが始まった。


(つづく)

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