第130話 吸血鬼の姫
神野朱衣に「友達っぽいことがしたい」と言われた時、悠真は数秒だけ、本気で聞こえなかったふりをしようか迷った。
「だからさ、一緒にカフェ行こ?」
放課後。
学園の昇降口近くで、朱衣は当たり前みたいな顔でそう言った。
言い方だけ聞けば普通だ。
だが相手が相手なので、普通に聞こえない。
悠真は少し離れたところで靴を履き替えていた優奈の方を見た。
助けを求めたわけではない。
ただ、今の状況を第三者にも見せておきたかっただけだ。
だが優奈は、少し困ったように笑っただけだった。
「ユウマくん、断り続ける方が不自然じゃないですか?」
「他人事みたいに言うな」
「半分くらいは他人事です」
「残り半分は何だよ」
「応援……ですかね」
「やめろ」
だが、その返しのおかげで、逆に諦めがついたのも事実だった。
128話の件で、朱衣にはもう正体がバレている。
少なくとも、朱衣の中では「結城悠真=yuma」は、ほぼ確認済みだ。
今さら距離を取るのも不自然。
今さら普通の同級生のふりを徹底する方が、余計に面倒になる。
相良にも言われた。
――小細工は必要ない。
――変に演じるな。
――ダンジョンのことは答えればいい。
そう考えると、むしろ一度くらいは“普通に付き合う”方が自然だった。
「……分かった。行くだけだぞ」
「やった!」
朱衣の顔がぱっと明るくなる。
そういう瞬間だけ見ると、本当にただの距離感の近い女子高生に見えるから困る。
「優奈ちゃんも来る?」
朱衣が振り向いて聞くと、優奈は一瞬だけ固まり、それから首を横に振った。
「私はいいです」
「なんで?」
「えっと……」
優奈はなぜか悠真の方を見てから、妙に気を遣った笑みを浮かべた。
「二人の方が、友達っぽいことしやすいかなって」
「変な気の遣い方するな」
「変じゃないですよ?」
「十分変だ」
だが優奈は、それ以上は何も言わずに、最後に小さく「気をつけてくださいね」とだけ言った。
「なんでそんな不穏なんだよ」
「なんとなくです」
「そのなんとなくが一番嫌なんだよな……」
その時の悠真は、数時間後に本当にその“なんとなく”が当たるとは思っていなかった。
カフェは学園から少し離れた駅前の店だった。
制服姿の学生も多く、値段も手頃で、放課後に寄るにはちょうどいい。
向かい合って窓際の二人席へ座ると、どう見てもデートみたいな絵面になったが、悠真にその意識は一切なかった。
朱衣はメニューを広げたまま、楽しそうに店内を見回している。
「なんか新鮮」
「カフェくらい初めてじゃないだろ」
「一人ならあるよ」
朱衣はあっさり言った。
「でも、こういうのはあんまりないから」
「こういうのって」
「放課後に、誰かとお茶して、だらだら喋るやつ」
その言い方が意外と普通で、悠真は少しだけ肩の力を抜いた。
注文を済ませて、飲み物が運ばれてくるまでの短い沈黙。
その間に、朱衣はストローの袋を指先でいじりながら、ふと悠真を見た。
「結城さん」
「何だ」
「私、今日ここに来たの、半分は本当に友達っぽいことしたかったからなんだけど」
「半分?」
「もう半分は、結城さんの戦ってるところ、ちゃんと見たいから」
やっぱりそこか。
悠真は小さく息を吐く。
だが今さら、それを責める気にもならなかった。
「前も見ただろ」
「あれは“見た”っていうより、確信しただけ」
朱衣は真面目な顔で言う。
「今の結城さんが、今どう戦うのか、ちゃんと見たい」
その“今”という言い方に、少しだけ引っかかった。
十年前の配信を追いかけていたのは知っている。
でもこいつは、それだけじゃなく、“今の続き”を見ようとしている。
そこに妙な真剣さがあるから、余計に厄介だった。
悠真は少しだけ考えてから、結局頷いた。
「浅い階層だけだぞ」
「ほんと?」
「ただし、今日はちゃんと見ろ」
悠真ははっきり言った。
「中途半端なの見せても仕方ない」
朱衣が目を丸くする。
「……え」
「もうお前にはバレてるんだろ」
「なら今さら、無駄に弱く見せる方が不自然だ」
その言葉を聞いた瞬間、朱衣の表情がほんの少しだけ変わった。
驚いたような、でも嬉しそうな、変な顔だった。
「うん」
返事は、やけに静かだった。
カフェを出たあと、二人はそのまま近場の浅層ダンジョンへ向かった。
危険度は高くない。
だが数は多い。
朱衣の実戦経験を見るにも、悠真が“戦いを見せる”にも、ちょうどいい場所だった。
入口をくぐる前、悠真は無意識に魔力探知を薄く広げた。
最近はもう癖になっている。
イギリス。
オーストラリア。
人間のふりをするボス級。
そういう話を聞いてから、街中でもダンジョンでも、探知を切る時間が減った。
「結城さん」
「何だ」
「今日は、隠さないの?」
「隠しても意味ないだろ」
悠真は短く答えた。
「ただし、お前が見て真似できるものばかりじゃない。それは先に言っとく」
朱衣は少しだけ真剣な顔で頷く。
「うん」
最初に出たのは小型が五体。
少し間を置いて、中型が三体。
浅層にしては多い。
だが、悠真からすれば問題になる数でもない。
「下がってろ」
その一言だけ言って、悠真は前へ出た。
次の瞬間、朱衣は息を呑んだ。
速い。
いや、速いという認識すら遅い。
見えた時には、もう一体目の首が飛んでいる。
高速移動。
そこから連撃。
一撃ごとに止まらない。
切る、抜ける、次の角度へ入る、また切る。
貫通が必要な相手にはためらわない。
防御ごと中心を穿ち、そのまま後ろの敵まで巻き込んで沈める。
悠真の戦い方は、映像で見ていた時よりずっと静かだった。
叫ばない。
見栄も切らない。
でもその分だけ、無駄がない。
次の一手が、前の一手の終わりにもう始まっている。
だから朱衣の目には、“一人で戦っている”というより、“複数の答えが同時に動いている”ように見えた。
魔物が囲もうとする。
だがその輪が閉じる前に、一番薄い箇所を切り抜ける。
後ろへ回り込まれそうになれば、その前に背後へ移っている。
真正面から受けるのではなく、攻撃が成立する前提ごと崩す。
小型が二体跳んだ瞬間、悠真は一歩も止まらずに連撃で首筋を断ち、その勢いのまま中型の胸部へ貫通を通した。
硬さも、数も、関係ない。
正しい位置へ入って、正しい速度で、正しい順番で切れば終わる。
それが、そのまま形になっていた。
「……すご」
思わず、朱衣の口からそんな声が漏れる。
昔の配信も見ていた。
ミラーも切り抜きも集めた。
何度も見返した。
自分でも真似しようとした。
でも、全然違う。
映像で見ていた時には“型”に見えたものが、実際には“判断の連続”だと分かる。
同じ動きをなぞっても意味がない。
次に何が来るかを読む頭が、その前提にある。
それがずっと足りなかったのだと、今なら分かる。
最後の一体を沈めた時には、悠真の呼吸はほとんど乱れていなかった。
静寂。
崩れた魔物の残骸の中で、悠真だけが何事もなかったみたいに剣を払う。
「これが、今の俺だ」
振り向かないまま、そう言った。
朱衣はその背中を見たまま、しばらく言葉を失っていた。
嬉しい。
苦しい。
泣きそう。
全部が一緒に来て、どう表情を作ればいいのか分からない。
「……うん」
ようやく出た声は、情けないくらい小さかった。
悠真が振り返る。
そこで初めて、朱衣の顔をちゃんと見て、少しだけ眉をひそめた。
「なんだその顔」
「え」
「感動しすぎだろ」
「だって……」
朱衣はうまく笑えなかった。
ただ、胸の奥が熱くて仕方なかった。
「ほんとにいたんだ、って思って」
その言い方に、悠真は少しだけ困ったような顔をする。
こいつは、こういう時だけ妙に真っ直ぐだ。
それが面倒でもあり、同時に少しだけ扱いづらい理由でもある。
そしてその“扱いづらさ”へ、ほんの一瞬だけ意識が寄ったのが、後から思えばまずかった。
悠真は探知を切っていたわけじゃない。
薄く、いつも通り張っていた。
でも、その時の意識の中心は戦闘の後処理ではなく、朱衣のあの顔の方へ少し寄っていた。
感動している。
泣きそうになっている。
その温度に、一瞬だけ思考が持っていかれた。
そして、その一瞬の遅れが致命的だった。
最初に感じたのは、魔力じゃなかった。
思考強化を一段深く入れる、その直前。
“何かが動いた”という違和感だけが先に来た。
視界の端。
いや、違う。
目で見えたんじゃない。
悠真は反射的に朱衣の腕を掴んで引いた。
「下がれ!」
「え?」
次の瞬間、空気が裂けたみたいに人影が現れる。
女だった。
白い肌。
赤い目。
整いすぎているくらい整った顔。
だが、近づき方が人間じゃない。
彼女の体から血液が噴き出すように伸び、細いひも状になって周囲へ一瞬で展開されていた。
看板の縁。
壁の影。
建物の突起。
その全部へ血の糸が絡みつき、その反動で肉体を引っ張っている。
魔力で加速しているのではない。
血液の物理移動で、肉体を射出している。
だから、純粋な魔力探知の引っかかりが遅れた。
探知が遅れたのではなく、認識した時にはもう近すぎた。
「見つけた」
女は悠真だけを見ていた。
「……あなたがyumaね?」
その声音には確認というより、“やっと見つけた”という確信があった。
悠真は一瞬で理解する。
初見殺しだ。
速さ。
血液操作。
魔力探知をずらす加速方式。
しかも、最初からyumaを名指しで狙っている。
ただの強敵じゃない。
情報を持っていて、最初からこちらを探していた相手だ。
「……吸血鬼か」
悠真が低く呟いた時には、もう半分答えが出ていた。
しかも、ただの吸血鬼じゃない。
この余裕、この加速、この執着。
吸血鬼の姫。
それが直感的に分かった。
次の瞬間には、もう彼女は動いていた。
血の糸をさらに引き、悠真の背後へ回る。
直線ではない。
何度も周囲を跳ねながら、背後、また背後、そのさらに背後へと位置を変える。
狙いは明白だった。
首筋。
血。
悠真は咄嗟に斬り返す。
だが空を切る。
もうそこにはいない。
速い。
しかも、近づいたり離れたりの軌道が読みにくい。
血液の糸で引っ張るせいで、身体の重心移動が人間のそれじゃない。
完全に、初見殺しだ。
「私のyumaに何するの!」
そこで、忘れかけていたもう一人が割って入った。
朱衣だ。
魔力矢が一気に展開される。
数は十分。
火力も足りる。
普通の相手なら押し潰せる。
だが、吸血鬼の姫の速度には届かない。
放つ。
その時にはもう、別の場所にいる。
また放つ。
もうそこにはいない。
魔力矢そのものの問題じゃない。
速度差がありすぎる。
「速すぎる……!」
朱衣の声に、はっきりと焦りが混じる。
吸血鬼の姫はそこで初めて、少しだけ距離を取った。
だが、逃げるためではない。
次の瞬間、血のひもが悠真の腕と胴へ巻きついた。
「なっ――」
触れた、その時点で終わりだった。
血液のひもは生き物みたいに締まり、悠真の身体をその場へ縫い止める。
動けば切れる。
いや、切れる程度で済むかどうかも怪しい。
吸血鬼の姫は、そこでようやく一歩だけ間を取った。
二対一で正面からやれば分が悪い。
だからまず悠真を拘束する。
その判断なのだろう。
つまり、こいつは速いだけじゃない。
触れた相手を縛ることもできる。
初見で接近戦は悪手。
それが今、この一瞬で分かったことだった。
「結城さん!」
朱衣が叫ぶ。
だが、その一歩が危ない。
「下がれ!」
悠真は本気で声を荒げた。
朱衣の足が止まる。
その隙にも、吸血鬼の姫は笑っていた。
人間の女の顔で。
でも、その目だけは明らかに違う。
探していた。
最初から俺を探して、ここへ来た。
そして今、悠真はようやく理解する。
オーストラリアからの警告。
人間のふりをするボス級。
記憶の模倣。
外へ出る魔物。
あれは、もう遠い国の話じゃない。
こいつはここにいる。
目の前に。
しかも、俺の名を知っている。
吸血鬼の姫が、ゆっくりと口元を吊り上げた。
「やっと会えた」
その言葉に、悠真は一瞬だけ背筋の奥が冷えるのを感じた。
今日二回目だ。
会いたかったと言われるのが、こんなにも嫌な日も珍しい。
だが、こっちは神野朱衣とは違う。
こいつは確実に敵だ。
しかも、まだ攻略情報が足りない。
速さ。
血液加速。
拘束。
吸血。
そして、yumaを狙う理由すら不明。
最悪の初見殺しだった。
「どうすれば……」
朱衣が魔力矢を維持したまま、息を呑む。
悠真は血のひもの食い込みを感じながら、低く言った。
「近づくな」
それだけが、今この場で言える最善だった。
次の瞬間、吸血鬼の姫の血の糸がまた動く。
まだ、終わっていない。
(つづく)




