第121話 戻らないなら、探すしかない
イギリスダンジョンへ足を踏み入れた瞬間、優奈はまず、自分の足がちゃんと同じ床を踏んでいることに心の底から安堵した。
――ランダム転移、してない。
それが最初の感想だった。
ゲートをくぐる前から、嫌というほど聞かされていた。
イギリスダンジョンは、一層から低確率でランダム転移が起こる。
発生率は高くない。
だが、ゼロでもない。
そしてゼロでない以上、引く時は引く。
だから、入った瞬間に視界が切り替わらず、同じ班の五人がそのまま近くに見えた時点で、優奈はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……全員いますね」
小さくそう言うと、班の一人が緊張した顔で頷いた。
「いる、な……」
声が少し硬い。
無理もない。
ここは日本じゃない。
しかも、ただの海外ダンジョンでもない。
説明会の時点で、死亡者数と行方不明者数を真正面から見せつけられたイギリスダンジョンだ。
優奈たち日本チームは六人。
そのうち優奈だけが、この場にいる全員の中で、単独で階層ボスを討伐した実績を持っている。
だから自然と視線が集まる。
リーダー役をやれと言われているわけではない。
でも、そう見られているのは分かる。
優奈は深呼吸を一つしてから、小さな声で言った。
「まず確認します」
「ランダム転移は起きてません。でも、安心はしないでください」
自分でも、少しだけ驚くくらい落ち着いた声だった。
ユウマに何度も言われてきたことが、こういう時はそのまま出る。
入ったから終わりじゃない。
無事だから安全でもない。
イギリスダンジョンでは、“今まだ死んでいない”というだけでしかない。
周囲を見回す。
薄暗い石造りの通路。
床は乾いているように見えるが、色の違いが妙に多い。
壁には、自然のひび割れに見せかけた線が何本も走っていて、それが全部罠に見えてくる。
天井は日本ダンジョンより低い。
圧迫感がある。
しかも、静かすぎる。
マニュアルの一文が頭に浮かぶ。
床・壁・天井の色調差を無視するな。変色部は罠の可能性が高い。
優奈は無意識に、腰のあたりへ指を触れた。
そこには、例の試作トランシーバーがある。
虹色魔石を使った、試作品。
日本チームだけに持ち込みが許された、秘密の保険。
ユウマの言葉が、耳の奥でそのまま蘇る。
――何かあったら迷わず使え。
――遠慮するな。
――戻ってこい。
優奈は小さく息を吐いた。
「……使うか」
班の一人が聞き返す。
「え?」
「トランシーバーです」
優奈はポケットから取り出して見せた。
「まず、先行したイギリスチームを探します」
「探すって……」
別の班員が不安そうに周囲を見る。
「でも、まだ時間そんなに経ってないだろ?」
それは正しい。
日本チームが入る時点で、先行したイギリス組が戻ってこないからといって、即全滅とは限らない。
説明でもそう言われていた。
攻略に時間がかかっている可能性。
低確率の最初からいきなりランダム転移で、ばらばらになっている可能性。
そのどちらもある。
だからこそ、優奈は首を横に振った。
「だから探すんです」
「戻ってこないってことは、死んでてもおかしくないし、生きてても助けがいるかもしれないです」
その一言で、五人の顔つきが少し変わった。
そうだ。
このダンジョンでは、“帰ってこない”がそのまま死亡の意味にはならない。
でも、“まだ生きているかもしれない”なら、なおさら探さなきゃいけない。
優奈は通信機を耳元へ近づけて、低く言った。
「日本チーム二組、突入完了。ランダム転移なし。先行イギリスチームの反応捜索を開始します」
少しだけ間があって、ざり、とノイズが返ってきた。
距離がある。
それでも、完全な無音よりは安心できる。
班員たちが周囲を警戒しながら、優奈は歩き出した。
ユウマに言われていた通り、トランシーバーは万能じゃない。
距離が長すぎれば音が乱れる。
同時通話が多ければ混線する。
だから連絡を主軸にするんじゃない。
あくまで保険。
“あるなら使うべき時がある”だけの道具だ。
優奈は数歩進んだところで、足を止めた。
「探知、入れます」
魔力探知を薄く広げる。
常時全開では張らない。
それをやると魔力がもたない。
十階層までの経験で、それはもう身に染みている。
薄く。
短く。
必要な時だけ。
探知にかかったのは、まず味方五人の反応。
その先。
さらにその先。
「……いない」
少なくとも、地上にはそれらしい反応がない。
優奈は探知を切る。
少し歩く。
また薄く広げる。
静かだ。
嫌になるほど、静かだ。
その時だった。
耳元のトランシーバーが、ざり、と嫌なノイズを吐いた。
優奈は反射的に足を止める。
「……?」
また、ざりざり、と音が混じる。
距離が遠い時の乱れ方だ。
でも、それだけじゃない。
そのノイズの向こうに、ほんの一瞬だけ、人の声が混じった気がした。
『……け、て……』
『……り……』
途切れ途切れ。
ほとんど聞き取れない。
でも、今のは気のせいじゃない。
「待って」
優奈が小さく言うと、班員たちもすぐに止まる。
「聞こえました?」
「何か……ノイズ?」
「いや、声っぽいのも……」
どうやら優奈だけじゃなかったらしい。
「近いかもしれません」
優奈は周囲を見回した。
「探知、もう一回」
今度は少しだけ広く、でも深く張る。
味方。
壁。
床。
その下。
「……え?」
優奈は思わず声を漏らした。
反応がある。
しかも、地面の中に。
いや、正確には“地面の下の空間”に、六つ。
「どうしました⁉」
班員の一人が慌てて聞く。
優奈は視線を床へ固定したまま答えた。
「地面の中に反応があります」
「……は?」
「六人分です」
その瞬間、班の空気が凍った。
優奈自身も混乱していた。
地面の中。
六人。
つまり。
「落とし穴……?」
それは、マニュアルにもあった。
感圧式。
閉鎖式。
しかも、罠発動後に再び蓋が閉じるタイプがある、と。
「え……生きたまま落とし穴に落ちて、生きてることあるんですか……?」
思わずそんな言葉が漏れる。
普通に考えれば、棘に刺さる。
落下で死ぬ。
閉じ込められて終わる。
だが、反応はある。
しかも六人分。
「……この下だ」
優奈は床の一角を見つめた。
微妙に色が違う。
踏み絵みたいに、石の継ぎ目が不自然に整っている。
感圧板。
問題は、開け方だ。
普通に踏めば、自分たちも落ちる。
「優奈さん、どうします」
班員の問いに、優奈は一瞬だけ迷って、それから《魔力盾》を展開した。
左手前に、小さめの半透明の盾がぱっと現れる。
「私が踏みます」
「えっ⁉」
「でもそのままは落ちません」
優奈は早口で続ける。
「開く瞬間に《発射》で逃げます。《魔力盾》で足場を一瞬作るので、みんなは近づかないで」
十階層報酬で取ったばかりの《魔力盾》。
まだ完璧に使いこなせているわけじゃない。
でも、こういう“一拍だけ支える”用途には向いている。
班員たちは不安そうだったが、止める余裕もない。
地面の下から、またざり、と通信ノイズが入る。
『……たす……け……』
『……魔、力……』
今度は、さっきより少しだけ聞き取れた。
「行きます!」
優奈は一歩で感圧板へ踏み込み、その瞬間に《発射》を起動した。
床が、がこん、と嫌な音を立てて左右へ割れる。
同時に、優奈は開いた穴の縁へ《魔力盾》を薄く出し、その一拍の足場で軌道をずらして後ろへ飛び退いた。
落ちない。
間に合った。
穴が開いたことで、下からむわっと淀んだ空気が上がってくる。
暗い。
だが人の声は、今度ははっきり聞こえた。
「助けてくれ! 魔力が切れそうだ!」
優奈は思わず穴の縁へ駆け寄る。
班員たちも慎重に周囲を警戒しながら近づいた。
下を覗き込んで、優奈は目を見開く。
いた。
先行したイギリスチーム六人組。
全員、生きている。
だが、かなり限界だ。
穴の底には、棘がびっしり生えていた。
その上に、無理やり盛り上げた岩の足場が広がっている。
たぶん、岩魔法の使い手が咄嗟に作ったのだろう。
そのおかげで串刺しは避けられたらしい。
だが、その足場は大きくない。
六人が身を寄せ合うので精一杯だ。
しかも、壁はつるりとしていて、登れるような形状じゃない。
イギリス人の一人が、顔を上げて必死に言う。
「日本、チームか⁉」
「はい!」
優奈は即座に答えた。
「日本の第二組です!」
その返答だけで、下の空気が少しだけ緩む。
だが緩んだのはほんの一瞬だった。
「助かった……いや、まだ助かってない!」
別の一人が叫ぶ。
「魔力がもう尽きる! 足場が保たない!」
岩魔法で作られた床は、棘の上へ張り出すように広がっていた。
だが、それを維持している本人の顔色が悪い。
額に汗が浮き、呼吸も荒い。
「状況、説明できますか⁉」
優奈が声を張る。
下の探索者が、早口で答えた。
「最初の転移で二人ずつ散った! でも幸運だった、近かったんだ!」
「合流まではできた! そこまではよかった!」
「その直後に六人まとめてここへ落ちた!」
つまり、こうだ。
低確率の最初からいきなりランダム転移。
だが、運よく近場に散った。
だから合流できた。
そこまではよかった。
けれど、合流した直後に、今度はまとめて落とし穴へ落ちる。
最悪だ。
イギリスダンジョンの悪質さが、これ以上ないくらい詰まっている。
「一人が岩魔法で棘の上に地面を出した!」
「串刺しは回避した! だが、上へ上がる方法がない!」
「叫んでも地面が閉じた! 見つかるのか分からなかった!」
優奈は反射的に上を見た。
なるほど。
この落とし穴は、開いたあと再び蓋が閉じる。
だから外から見ると何もなかった。
魔力探知と、たまたま入ったトランシーバーの乱れがなければ、見つけられなかった可能性が高い。
ぞっとする。
もし自分たちが“先行組が戻ってこないのは、攻略に時間がかかっているだけかもしれない”と考えて、そのまま前へ進んでいたら。
この六人は、そのまま魔力切れで終わっていたかもしれない。
「ユウマくんの読み……」
優奈は小さく呟いた。
“戻ってこないが即死じゃないなら、探さなきゃいけない”。
その意味が、今になって骨の中まで染みる。
班員の一人が焦った声で言う。
「どうやって引き上げるんですか⁉」
優奈はすぐに頭を回した。
穴は深い。
飛び降りればこちらも危ない。
ロープなんてない。
壁もつるつるだ。
しかも岩の足場は長く保たない。
そこで、優奈はすぐにトランシーバーを握った。
「日本チーム二組から連絡! 先行イギリスチーム発見! 全員生存!」
「位置は一層通路、感圧式閉鎖型落とし穴内! 岩足場で生存中、ただし魔力切れ寸前!」
ざり、とノイズが混じる。
距離がある。
でも声は通る。
『……確認……日本側、引率へ共有……』
『……位置情報……繰り返せ……』
乱れている。
けれど、ちゃんと届いている。
優奈はもう一度、位置と状況を短く伝えた。
これで少なくとも、自分たちがここにいることは伝わる。
それでも、救助がすぐ来る保証はない。
イギリスダンジョンは理不尽だ。
一本道のように見えて罠がある。
救助側が動くにも時間がかかる。
だったら、それまで持たせるしかない。
優奈は下を見て言った。
「今すぐ引き上げる手段はありません!」
「でも救助連絡は通しました! それまで耐えてください!」
下のイギリス人が、苦い顔で笑うような表情をした。
「耐えるしかないのは、分かっている!」
「岩の足場、あとどれくらい持ちますか⁉」
岩魔法の使い手が、肩で息をしながら答える。
「十分……いや、もっと短いかもしれない……」
短い。
思ったよりずっと短い。
優奈は周囲を見回した。
何か使えるもの。
何か、少しでも時間を稼げる手段。
その時、ふと《魔力盾》の感覚が頭をよぎる。
軽い。
即応性がある。
ただし壊れる。
それでも、一拍だけなら支えられる。
「……いけるか?」
優奈は小さく呟いた。
「え?」
班員が振り向く。
優奈はもう一度、穴の深さと位置を測った。
完全な救助じゃない。
でも、落ちている六人の“足場の補強”くらいなら、できるかもしれない。
ここでようやく、優奈ははっきり理解する。
イギリスダンジョンでは、“帰ってこない”が即死亡じゃない。
だからこそ、捜索しないといけない。
待つだけじゃ駄目だ。
しかも、生きて見つけた後ですら、そこからまた助けなきゃいけない。
嫌になるほど手順が多い。
でも、それが現実だった。
優奈は息を吸って、トランシーバーを握り直した。
「……次、やります」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
班員か。
下のイギリス人か。
それとも、自分自身か。
ただ一つ分かっているのは、ここから先は“見つけた”だけじゃ終わらないということだった。
(つづく)




