第119話 試作通信機と、分厚すぎるイギリスマニュアル
イギリスとの合同実地研修――教師たちはそう呼んでいたが、あれを聞いて素直に「交流行事だ」と思える人間は、学園内にはもうほとんどいなかった。
修学旅行。
国際交流。
若手同士の共同学習。
言い換えはいくらでもある。
だが、中身を一言で言えば、危険なダンジョンへ学生を連れて行くというだけの話だ。
しかも行き先はイギリス。
あのイギリスだ。
ネット上でも、探索者の間でも、イギリスダンジョンの噂は前から妙に生々しかった。
殺意が高い。
初見殺しが多い。
一層から平気で人を消しにくる。
公式がぼかしても、現場の人間が漏らす空気までは隠せない。
そして俺と優奈にとって、イギリスダンジョンの印象はもっとはっきりしていた。
ランダム転移。
トラップ。
罠。
理不尽。
とにかく、最初から殺しにかかっている。
そのイメージしかない。
「やっぱり、何か対策しないと安心できないよな……」
学園の帰り道、そう呟くと、隣を歩いていた優奈がすぐに反応した。
「ですよね」
優奈は鞄を抱え直しながら、かなり真面目な顔で頷いた。
「先生たちは“段階的な研修です”って言ってましたけど、段階的でも嫌なものは嫌ですし」
「段階的でもランダム転移されたら意味ないからな」
「そうなんですよ!」
優奈は少しだけ声を強めた。
「こっちはまだイギリスダンジョンの地図もちゃんと知らないのに、知らない場所へ飛ばされるとか普通に怖いです」
その通りだった。
しかも、イギリス側だって、たぶん全員をいきなり同時突入させることはしない。
それをやれば、救助が面倒になるだけだからだ。
人数を分ける。
班にする。
引率をつける。
そのくらいは当然やるだろう。
だったら、余計に通信手段が必要だ。
そこで、頭の中で同じ答えがもう一度浮かぶ。
「……相良に言うか」
「何をですか?」
「試作のトランシーバー」
俺は答えた。
「日本のダンジョン学園の生徒に、あれを持たせる」
優奈の目が少し大きくなる。
「虹色魔石の、ですか」
「ああ」
「どうせ製品にするなら、実戦でどれくらい使えるかデータを取らないと意味がない」
「それに、今のイギリスダンジョンの印象だと、持っていかない方が後悔しそうだ」
優奈はしばらく考えてから、小さく言った。
「たしかに……」
「もし途中で班が散ったり、転移で離れたりしたら、連絡取れるだけで全然違いますよね」
「だろ」
問題は数だ。
全員分が用意できるかと言われたら、たぶん無理だ。
虹色魔石はまだ深層モブからの回収数も安定していないし、そもそも試作品として組める数にも限界がある。
でも、それでも二十から三十。
そのくらいなら現実味がある。
そして、俺の読みではそれで十分だった。
いきなり全員同時突入はしない。
引率。
班長。
上位生。
場合によっては救助担当。
その辺へ優先配布すれば、最低限の連絡網は作れる。
「よし」
俺はスマホを取り出した。
「今から相良に言う」
「早いですね」
「こういうのは、思いついた時に言わないと後で面倒になる」
それはもう経験上、分かっていた。
クラン本部へ着いた時には、相良はまだ会議を終えていなかった。
だが、俺が「今すぐ話したい」とだけ送ると、五分後には普通に会議室へ呼ばれた。
相変わらず、無駄がない。
俺と優奈が入ると、相良は机の上の資料から目を上げた。
「何だ」
「試作通信機の件」
俺が即答すると、相良の視線がわずかに鋭くなった。
「具体的に言え」
「イギリス行きに、日本のダンジョン学園生徒へ試作品を持たせろ」
「全員分は無理でも、二十から三十個くらいなら行けるだろ」
相良はすぐには返事をしなかった。
代わりに、机の上で指を組んだ。
「理由は」
「二つある」
俺は椅子へ座る前に答えた。
「一つは、実戦でどれくらい使えるかデータを取らないと製品にならないこと」
「もう一つは、イギリスダンジョンが普通に危ないからだ」
「後者の方を詳しく」
「俺と優奈の中でのイギリスダンジョンのイメージが、一層からいきなりランダム転移やトラップ満載の、殺しにかかってるあの印象しかない」
「何か対策しないと安心できない」
優奈もすぐに頷いた。
「本当にそうです」
「通信手段があるだけで、かなり違うと思います。特に転移とか分断があるなら」
相良は無言で俺たちを見てから、短く聞いた。
「二十から三十で足りる根拠は?」
「全員同時突入にはしないからだ」
俺は答える。
「もしそれをやったら、事故った時に救難が困難になる。だから、班を分ける。引率をつける。日本側もイギリス側も、そのくらいは当然やる」
「続けろ」
「なら、必要なのは“全員分”じゃなくて、“連絡の核になるやつらの分”だ」
「班長、引率、上位生、場合によっては後方支援。その辺へ優先配布すれば、最低限のネットワークは作れる」
相良はそこで初めて、小さく頷いた。
「悪くない」
「悪くない、で終わらせるなよ」
「だが、試作品にはまだ弱点がある」
「分かってる」
俺は先に言った。
「距離が長すぎると音が乱れる。同時通話が多いと混線する。万能じゃない」
「そこまで理解しているなら話は早い」
相良は続けた。
「つまり、長距離の常時通信網ではなく、近〜中距離の緊急連絡用として使うべきだ」
「そういうことだ」
優奈がそこで、小さく手を挙げるみたいにして口を開いた。
「えっと……」
「だったら、最初に使う人を決めておいた方がいいですよね。誰でも好きに喋れると、絶対混線しますし」
「その通りだ」
相良が答える。
「運用マニュアルは必須になる。誰が優先で、どのタイミングで喋るか、最低限決めておかないと実戦では使えない」
そこまで話したところで、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
少なくとも却下ではない。
というか、たぶん相良の中でも、もう半分くらいは採用する気になっている。
「持ち込む方向でいいな?」
「いい」
相良は即答した。
「むしろ、持ち込まない理由がない。イギリス行きは危険度が高すぎる。開発試験でもあるが、保険でもある」
「そう言ってくれると助かる」
「ただし」
相良はすぐに条件を足した。
「配布対象は絞る。上位生、日本側引率、連携担当。イギリス側にも最低限は渡すが、数は日本優先だ」
「そこはそれでいい」
優奈が少しだけ安心したように息を吐いた。
「じゃあ、本当に持っていくんですね」
「持っていく」
俺はそう言ってから、少しだけ嫌な予感を口にする。
「で、どうせイギリス側から事前マニュアルとか来てるんだろ」
相良は無言で、机の下から一冊の分厚いファイルを取り出した。
俺はそれを見た瞬間に顔をしかめた。
「うわ」
優奈も同じ反応をした。
「分厚い……」
「イギリスダンジョンにおける行動指針および禁止事項の暫定マニュアルだ」
相良はそう言って、そのファイルを俺たちの前へ置いた。
嫌な予感しかしない。
俺は一ページ目をめくる。
最初に書いてあったのは、太字で強調された注意事項だった。
宝箱に触れるな。高確率で罠がある。
「初手からそれかよ」
思わずそう言うと、優奈が隣から覗き込んできた。
「普通、宝箱ってちょっとわくわくするものじゃないんですか?」
「イギリスダンジョンでは多分“死に方の種類が増える箱”なんだろ」
ページをめくる。
転移後は三分以内にその場を動くな。二次罠および追撃型転移の可能性がある。
「うわあ……」
優奈が本気で嫌そうな声を出した。
「何ですかこれ。転移させた上に、すぐ動くなって」
「動いた先にもう一段仕掛けてあるタイプだろうな」
俺は低く呟く。
「あるいは転移した人間が慌てて移動すること前提で罠を置いてる」
「性格悪すぎません?」
「イギリスダンジョンに今さら何言ってる」
さらにめくる。
角を曲がる前に先行確認を怠るな。視認誘導型罠の可能性がある。
扉は一人で開けるな。複数人で周囲を確認しながら開放せよ。
床・壁・天井の色調差を無視するな。変色部は圧力感知または魔力感知式トラップの可能性がある。
優奈がついに両手で顔を覆った。
「何だこのダンジョン⁉」
「俺も今そう思ってる」
「いや、噂になってた“イギリスダンジョンって殺意高い”って話、マジだったんですね……」
優奈はマニュアルをぱらぱらとめくりながら、だんだん声を失っていく。
「これやばすぎだろ⁉」
そして最後には、かなり率直な結論へ辿り着いた。
「高校生にこれは無理だろ⁉」
まったくその通りだった。
学園で多少訓練しているとはいえ、こっちはまだ数か月だ。
しかも教師側も不足している。
その状態で、このマニュアルを渡されて「実地研修です」と言われても、納得できる方がおかしい。
だが、相良はそこで冷静だった。
「だから、日本側を入れる意味がある」
「少なくとも、お前たちはこの手の“理不尽に対して考える”訓練を受けている」
「受けてるというか、理不尽を押しつけられてるだけなんだが」
「結果として同じだ」
それはまあ、そうかもしれない。
俺はもう一度マニュアルを見る。
ページ数。
禁止事項の多さ。
細かい注記。
どれを見ても、イギリス側がかなり本気で“若手を死なせたくない”と思っているのが分かる。
だが同時に、それだけ危険な場所へ送り出す気でいることも分かる。
優奈がぼそっと言った。
「修学旅行って、もっとこう……お菓子は三百円まで、とか、そういうやつじゃないんですか」
「これは“宝箱に触れるな”だからな」
「同じ注意事項でも、重さが違いすぎます」
少しだけ笑いそうになったが、笑いごとでもなかった。
その翌日、学園でも同じマニュアルが配られた。
しかも全員分。
教師たちは「熟読しておいてください」で済ませようとしたが、そんなもので済むはずがない。
教室中が一瞬でざわついた。
「うそだろ、分厚っ!」
「マニュアルっていうか本じゃねえかこれ!」
「宝箱に触れるなって何⁉」
「転移後に動くなって何だよ、意味分かんねえ!」
「え、噂ってマジだったんだ……」
「これ高校生に読ませるやつじゃないだろ!」
みんなだいたい、同じところで引っかかっている。
優奈はもう慣れた顔で、昨日見たページを開いていた。
唯は無言で必要そうな箇所へ付箋をつけている。
音葉はかなり真剣な顔で、宝箱罠の欄から読み始めていた。
ジョンは「はは、性格悪ぃダンジョンだな」と楽しそうだ。
あいつは本当に神経が太い。
俺は机に肘をつきながら、クラス全体の反応を見ていた。
怖がっている。
当然だ。
でも、完全に嫌だと突っぱねきれているわけでもない。
その怖さの中に、少しだけ好奇心も混ざっている。
そこが、この学園らしいところだった。
教師が前で「全員が危険区域へ入るわけではありません」と言っているが、それで安心するやつはほとんどいない。
だが、それでも読んでしまう。
知ろうとしてしまう。
それが今ここにいる人間たちの性質なのだろう。
俺は配られた試作通信機の簡易運用メモを、自分のマニュアルへ挟み込んだ。
虹色魔石のトランシーバー。
距離が長すぎると音が乱れる。
同時通話が多いと混線する。
でも、ないよりずっとましだ。
イギリスダンジョンの“転移後は三分以内に動くな”なんて項目を見せられた今では、その価値はさらに重い。
「ユウマくん」
優奈が小声で呼ぶ。
「何だ」
「やっぱり、持っていって正解ですね。これ」
優奈が指で叩いたのは、試作通信機のメモだった。
「だろうな」
俺は短く答える。
「正直、これでも足りるか怪しい。でも、ないよりははるかにいい」
「ですよね」
優奈はそう言ってから、マニュアルの分厚さをもう一度見て、深いため息をついた。
「ほんとに修学旅行じゃないですね……」
「最初から言ってるだろ」
「これは修学旅行じゃなくて、実戦投入だ」
そう口にした瞬間、自分の中でも妙にしっくり来た。
修学旅行。
そんな甘いものじゃない。
危険な場所へ行く。
実地で学ぶ。
失敗すれば死ぬ。
でも行く。
それはもう、立派な実戦投入だった。
イギリス編は、どうやら本当に嫌な意味で本格的に始まるらしい。
(つづく)




